貴方が望むものこそ


私の希










私は貴方の従順なる僕である















「階下に男前が来ている」

酒宴もたけなわという頃、取次ぎの者が座敷の上座に座る老人にそっと耳打ちした。
老人はシミだらけの顔を一瞬歪ませ、
あァと頷き確かに男前かもしれんのうと笑って持っていた杯の中身を飲み干した。
その発言は波を打つように拡がり、きゃぁきゃぁと女達は窓辺に駆け寄る。
何しろ座敷の中は若い男など一人二人しか居らぬのである。
他は男前とは云い難い老人が殆どだ。

「男前なら此処におるろー」

宴の最中、十数名の男達は浮き足立つ女達に所掌非難めいた口調で言ったが顔は笑っていた。
その男前が誰かなどとすぐに判ったからだ。

「上がってもらいやー」

年嵩の老人の一人がそう云うと取次ぎの男はへいとその場を辞して襖を閉めた。
乙女ん所の子飼じゃ、と同席していた幾人かがくすくすと笑う。
そのとき上座にいた男が一番の下座の男に坊よと声を掛ける。

「辰馬、お迎えちや」

そう呼ばれた男は一人の芸者に酌をしてもらいながら、隙あらば手を握ろうとしていた。
しかしなかなか成功しないらしく、そのたびに酒を呑まされている。
なんですろーと男は朗らかに笑いながら戸口に一番近い席で身を乗り出す。
そのとき、その背後の襖がすぅと開き出迎えの男がご来客でございますと頭を下げる。


「やっぱりおまんなが」


座した男達は笑い、件の『階下の男前』は深々と頭を下げたまま、ご無沙汰しておりますとだけ云った。
髪を総髪に結い、黒羽織に縞の袴。無地にも見える小紋は細かな地紋が美しい葡萄色であった。
芸者衆の視線を一身に受けたがその男前は眉一つ動かさず、宴の主に声を掛けられるのを待った。

「一つ呑んで行きいや」

今しがた燗をつけた銚子を持ち上げたが、主の遣いの途中ですのでと恭しく断りながら、けれどきっぱりと辞退した。
無論そう断るのを判っていたようで、老人は隣に居た芸者に残念じゃのうと首を竦めて見せた。
男前は目の前に居た目的の相手に膝を進めた。
隣の芸者へにじり寄っているそれに、辰馬殿と小声で呼びかける。

「姉上様がお待ちじゃ。早よう往なんと雷が落ちるぜよ」

男はびくりとしてその動きを止めた。
坂本さまとにじり寄られていた芸者が首を傾げると、辰馬は頭を掻きながらあっはっはと大仰に笑った。

「やれやれ、二番目に怖いのが来たぜよ」

上座と向き、ほいたら旦那様方、ワシはここでと丁寧にお辞儀をした。
旦那衆は上機嫌で気をつけろだのと口々に言った。
辰馬は散々呑まされているにも拘らず、すっと立ち上がり一礼して背を向ける。

「坊よ、約束を忘れきおせ。今度はマッサージじゃ」

背に掛けられた声にくるりと振り返り、なぜかその場に居た皆がニヤニヤとしていた。
同じく辰馬もそうしていたに違いない。座していたその急客からはその顔が見えなかった。

「水のあるほうですろー」

男衆は手を叩いて悦ぶ。

まったく、碌で無しばかりだとその下品な物言いに件の『男前』は辟易しながら、
老人達に会釈をして控えたまま襖が締められるのを待った。






「はちきんと聞いちょったががしとやかやか」

今しがた辰馬のすぐ隣に座っていた反物屋の主が、間近に見た『男前』をそう評した。

乙女の子飼にまぁよく出来るおなごが居ると言うのは最近有名な話であった。
女だてらに社長などをしている乙女も乙女だが、その乙女からも一目置かれる小娘。
どんな跳ねっ返りかと思えば身の丈も小さい少年のような娘であった。

上座に座っていた寄合長が隣の芸者にあれはおなごちやと正体を明かし、
芸者の一人は道理できれえな貌やったと頷いた。

「いいや、目が恐ろしく鋭かったぜよ」

丁度辰馬の対面に座っていた男が首を振った。
有無を言わさぬ気迫やったと好き好きに噂した。



不意にしゃん、と三味が鳴った。

「旦那様方、別嬪は此処にもおりますよ」

旦那主の横で芸者衆が嫣然と微笑む。
男達は一瞬呆気に取られ、あァこれは一本取られたちやと大仰に笑った。
三味の音が重なり、手拍子が始まった。








*







店で提灯に火を入れて貰い、夜道を歩く。
辰馬は意外な程にしゃんと歩いた。
土地柄か、酒など水みたいなものだと云いながら笊のように飲む。
翌日は二日酔いでぐったりするくせにそれでも止められぬというのだが、
陸奥に言わせれば性根の入らん阿呆である。

「寄合に名代で出席したがやき報告もしやーせん。ご立腹やったが」

乙女は別口の会食があったため辰馬を町内の寄合の名代として出向かせた。
無論商工会の列記とした寄合である。
旦那衆は此の辺りの商家の旦那方で月一で会合を開いている。

客足の変化やニーズ、それに向けての戦略などを各店でプレゼンするのだが、
行かせて大丈夫だろうかという心配を他所に、辰馬は大役を仰せつかったと意気揚々と出かけていった。
乙女が戻ってきたのはもう十時を回っていた。

戻っておらぬと言えばあの連中はぁと大仰な溜息を吐いた。
呼びに行こうと着替えもせずに立ち上がった乙女を制止したのは陸奥である。

「ほりゃァ困ったのう」

辰馬は暢気に顔を掻き、怒っちゅうか、姉上様と恐々聞いた。
おう烈火の如くやか、と陸奥は答え夜風に首を竦める。

辰馬は嗚呼と情けない声をあげ帰りとうないのうと、
今までしゃんと歩いていた足取りがいきなりとぼとぼと遅れがちになる。
まったく、と陸奥はその情けない姿を見て首を傾げる。
毎度毎度の事ながらあきれ果てる。

辰馬は足早に歩く陸奥にのうのうとにじり寄った。

「怒られちゅう間、隣の部屋に居てくれやーせんか」

ほき頃合を見計ろうてそっと出てきてくれるとありがたいんやけど、
妙案だろうと云わんばかりにどうだと提案した。
その身勝手で子供の策のような間の抜けた案に乗るとでも思っているならおめでたい。


「あしはの」


足を止め提灯を辰馬の顔近くまでぐっと寄せると陸奥は頭一つ違う大男を睨めつける。
酒香の香るこの状態で帰ったら大目玉は確実である。
寄合が聞いて呆れる、という乙女の絶叫が聞こえそうである。

「寝間に入る前やった。わざわざ着替えてきたがじゃ」

なんで更にあしがほがな事を、付き合いきれぬとばかりにくるり背を向けた。
首に巻いた襟巻きが辰馬の頬を打つように翻る。

「そうじゃったかえ」

頭を掻きながら陸奥の背を追う。
三歩も歩けば隣に並べる。

「ほやき、まっことええ匂いがすると思うたぜよ」

辰馬は陸奥の首を嗅ぐ。
舶来の石鹸の匂いに混じって、湯上りの何とも云えぬ甘い香。
洗い髪と美しい肌理はその所為であったか。

首に鼻先が付きそうになったのを感じて陸奥は首を竦め、やめい、おんし犬かと一蹴した。
犬は酷い、せめてオオカミにして頂きたいものである。

「いや旦那衆がいっつも乙女が来るゆうて芸者も呼ばれんゆうたきに」

言い訳かと陸奥は問う。
あっはっはと辰馬は笑い、ワシが来たゆうたら諸手を上げて直行じゃと顛末を話した。
「仕様もないのう、おんしらぁ」
これは正直に話したら雷確実である。
旦那衆まで説法行きじゃと陸奥は想像して意地の悪い顔をした。


「頼むきに、怒られちゅう間隣に居りとうせ」


どうして怒られるのが判っているのにやめられないのか。
男の性といってしまえばそれまでだが、全く仕様もない連中だ。

大仰な溜息でぷいとそっぽを向いた。



「いややか、自分のケツは自分で持ちや」



きっぱり云ってやると、陸奥ぅ、という情けない声が背中を追った。















                *














「おんしらぁ、そういうのをなんとゆうか知っちゅうが」




新人隊士三人が自分より頭一つは確実に小さな女に怒鳴られている。
三人は筋骨隆々の厳つい体と顔を持っていたが、
今はこれ以上は小さくなりませんと言うほどに肩を竦め顔を下げている。

正確には、頭を上げられないのである。





「ミイラ取りがミイラとゆうがやき」





女は腹の底から怒っていた。

出航時間が迫っている。
あと少なくとも三時間後にはターミナルを出発しなければ出発遅延料金が発生する。

二十四時間稼動しているターミナルには出航料の安い時間がある。
わざわざその時間に合わせて全艦のメンテナンスを完了させた。
税関、および出国審査は済んでいる。
只、人間が来ぬ。
肝心要の艦長が戻ってこない。

艦長が戻らねば出発できぬは道理。

いっそのこと置いていってやろうかなどとも考えたが、あんな阿呆でも居らねば困ると言うもの。

行方不明の艦長は着いて早々地球じゃ江戸じゃと浮き足立って姿を消した。
停泊期間は四日である。
どこへ行くなどたかが知れているので放って置いたのだが、こんな時間に戻らぬのは困る。
そういうわけで迎えを遣った。
それが二時間ほど前である。


一度目に呼びに行かせた者が戻ってこない、と言う報告を受けたのは先ほどだ。
何だとぉと言う陸奥の剣幕に驚いた者が三人を緊急の呼び出しコード付きで呼び出すと、
酒香をさせながらこうして目の前にやって来た。

説教の顛末である。



三人の言い分はこうだ。
迎えに行ったがそのままちょっと飲まされて楽しくなってきたところに此の電話だったと。
言い訳になっていないが、坂本の口の巧さと男の性はようく判っている。
鋼鉄の艦の中に男がぎっしり詰め込まれているのだ。
若い男だけではなく、いい歳したおっさん連中まで久々に嗅いだ女の匂いについふらふらと、
と云うのも判らぬでもない。

が、隊士には四日間の内それぞれ丸三日の休養を持たせた。
出航時間も伝えてある。
少々羽目を外すのは多めに見ている。

怒っているのは、それをすっかり忘れて遊び歩いているあの元凶に、である。
陸奥は溜息を吐いていつも羽織っているマントを取った。

「どこ行かれるのですか」
「あしが行く」

ひらりとそれを肩に被せ、愛用の笠を手に持つ。

「何処かご存知なので!?」

隊士の問う声が聞こえたが、陸奥はそのまま部屋を出てターミナルのタクシー乗り場へと向かった。




坂本の居場所など陸奥は聞かなくとも判った。
あの毛玉が入れあげているホステスのいるあの店に決まっている。
脈無しだと傍目にも判るのに、どうしてあァも執拗なのかが判らぬ。
靡かんのがええんじゃと、腕の見せ所ぜよというが、
りょう殿が見ているのはおんしの財布の中身だけじゃろうというてやった。
夢を買いに行くところじゃきというが、それじゃァ宝くじでも買った方がまだ当たりそうというものだ。

りょう殿が勤めるスナックは此処からは然程には遠くない。
あの町から此の馬鹿でかいターミナルが見える。

タクシーを急がせれば三十分で着くだろう。


迎えに行くのは実は初めてではない。
坂本を何度か迎えに行く事が陸奥には度々あった。
土佐にいた頃も、今もだ。

土佐にいた頃は寄合の名代だの取引先の接待で何とか言いながら、
大概酔い潰れて芸者衆の一人に膝枕をされ、迎えに来た陸奥にこう言う。

「ちくと早いき」

では来て欲しいときに呼べと思うのだが、千鳥足でほれじゃぁと素直に帰る。
それで帰って姉上に大目玉を喰らうという事が度々あった。

性根が入らぬのである。


「斬りおとしちゃろうか」


物騒な独り言を漏らした客にタクシーの運転手はふとルームミラーを見る。
氷のような冷たい眼がネオン輝く空を眺めていた。





*




かぶき町の入口まででタクシーを降りそこから歩いた。
此処は酔漢たちとそれにぶら下がる玄人衆の縄張り。
人を避けながらするすると歩く陸奥の目的地はもうすぐそこである。

男の夢の園。
行きは楽園、お帰りゃ地獄。
鮮やかなネオンが光るスナックすまいる。

ひと時ソープだの何だのと遊び歩いていたが近年は愛のあるセックスに勝るものはないちや、
などと至極真面目に言っていたので宗旨替えをしたらしい。

まぁ女をとっかえ引っ替えし過ぎて、どの女からかわからぬ病気を貰ってきた時は流石に引いた。
男子一番の急所をどこのもんかわからん者によう預けられるの、とその愚かさを非難したが、
一夜限りゆうのは燃えるもんぜよ、と言うから更に引いた。

刹那的である。

そんな刹那的な癖に割合に肝が小さいのか、それからは違う遊びに執心している。
一時期の狂ったような遊びは収まり、病気の方も完治したと公言していた。
しかしいつまた「悪い病気」が出るとも限らぬ。

だから、このくらいは女遊びには入らない。

腹が立つのはルーズさにである。
これしき、以前に比べれば随分健全だ。

ドアを潜り勝手知ったる店の中をぐるりと見渡す。
ボーイはその姿を見つけるなりご苦労様でございますと丁寧に礼をし、
顔見知りのホステス嬢がなぜか此方を見て笑い声を掛けた。

「こっちですよぉ」

ボーイの案内で通路を歩き、奥の席で一際騒いでいる聞きなれた声を耳にした。
どこに居たってすぐ判る。
坂本はなぜか隣に居たホステス嬢に腕を決められ、痛いいたぁいお妙ちゃぁんと喘いでいた。
やれやれと思ったとき、坂本の斜に座っていたホステス嬢があぁと声を上げて陸奥に駆け寄った。

「陸っ奥さーん、もうお待ちしてたんですよ」

おりょうである。坂本が一番今執心しているホステスだ。
眼を見張る美人というわけではないが、きっぱりした喋り方と愛嬌のある顔。
こういうさっぱりした女性が坂本の好みなのだろう。

これ、皆で食べとおせ、と早々に連れ帰る詫びにと土産を渡す。
まだ江戸では手に入らぬ異星の輸入菓子である。

女達の眼は鋭く厳しい。
碌でもないものを渡せば後の口が恐ろしい事を女であるが故にようく知っている。

今日はどうだとちらりと見ると、これ食べてみたかったんですよぉと言った。
まぁ及第点というところだろうか。

「あとりょう殿にゃこれを」

ボーイに菓子折りを渡し、もう一つ紙袋を差し出した。

「あの毛玉が悪さばかりしちゅうががやき、お詫びやか」

おりょうは袋の中身を見てきゃぁと手を合わせた。

「あァ、陸奥さん、いつもありがとうございます」

或る化粧品メーカの来期の限定発売予定のコフレ。
試供品として取引先からいくつか貰ったものだが、陸奥には無用である。
おりょうはそれを携えたまま腕を決められている坂本に近寄った。

「坂本さん、お迎えですよー」

しかし坂本は聞こえていない。
相変わらず痛たたたたと叫んでいる。
腕を決めている女は上品にあらと小さく会釈し、菩薩のような微笑で漸くその腕を放した。
お妙ちゃん、手加減しとおせ、水割りに手を掛けて口唇を湿らせた。

そのテーブルの前に立つ。


「帰るぞ」


陸奥の渋面を見ても坂本はなんら頓着せず、滅多に吸わぬ煙草に火を点けた。


「やれやれ、一番恐ぁいのが来たぜよ」


煙を吐き出しながら俯いたまま頭を掻いた。


「出発できんろー」



まぁまぁ一服させとおせとまだ長い煙草をくゆらす。

普段は吸わぬ癖に、こういう店に来ると喫り始める。
呑んだら欲しゅうなるがじゃと言うが、カッコつけのためとしか思えぬ。
ふぅと溜息を一つ吐き、支払いの為坂本名義のカードを取り出した。
ボーイが勘定を済ませ戻ってくると厭々というように立ち上がり、おりょうのほうへ向いて手を取った。

「それじゃおりょうちゃん。ワシ暫く来られんけど浮気をせずに待っとおせ」

情熱家のそれのように真摯に言ったが効果などないことは坂本以外の人間が皆知っている。

「浮気なんかしませんよぉ。此の店出たら坂本さんの事」

おりょうは無論それに応える。

「即、忘却の彼方ですから」


気の毒なくらい脈無しじゃ。


「あっはっは、参ったのー、また来にゃぁいかんちや」

能天気な笑い声でそいつを一蹴した。
楽天家なのか単なる遊びなのか知らないが、ほいじゃぁのと二人に言い大手を振って店を出る。
陸奥は会釈を残してその後に続いた。






二人を見送った後店の前で妙とおりょうは一旦控室に戻った。
戻りすがらおりょうは陸奥にもらった紙袋の中身を見てもう一度笑う。

「何貰ったの」

妙はその袋を覗き込み中身を見た。
透明のプラスチックのケースに大きなリボンがつけられている。

「へっへ〜限定コフレ」

有名ブランドの冬の限定コフレである。

かわいらしいポーチと限定色のアイシャドウとグロス、ネイルのセット。
フレグランスとフィニッシュパウダーが入ったセットが二つ入っていた。
確かに少々高価ではあるが買えぬ値段ではない。
だが数量限定の言葉通り予約一杯で打ち切られ手に入ることはまずない。

「これだからあの馬鹿な客を逃がしたくないのよね」

商社のえらいさんらしくお土産はいつも珍しくて美味しいし、
副官の陸奥はりょう殿にと「お詫び」を度々持ってきてくれる。
坂本は持ってくる花やらには全く惹かれないが、
陸奥の持ってきてくれる女心を擽る品は常に心の的を射る。


「陸奥さんが選んでくれるの、いっつも手に入らないのばっかりなんだもん。坂本様様よぉ」

出来た部下よね、と自分のロッカーにそれをしまいながら鍵をかけた。
ウキウキするおりょうを尻目に、部下ねぇ、と妙は首を傾げた。

「あたしにはそうは見えなかったけど」

鏡を見ながら口紅を塗りなおす。
セットした髪の崩れをチェックしながら、櫛でかき上げた。
じゃぁ何とおりょうは問いながら、パウダーを手に取る。

「二号さんに挨拶する本妻さん、が一番近いかな」

気配りというか行き過ぎの配慮にも思えたのである。
ただおりょうはそんな事は意に介さず、それは陸奥さんに失礼でしょうと笑い飛ばした。

「あ、でも」

パフを頬に当てながら不意に思いついたように声を上げた。

「あの人が来るとちゃぁんと帰るのよねぇ」

他の誰が迎えに来てもまぁまぁ飲んで行けと勧める。
口八丁手八丁で隣に座らせ次から次へとグラスをうべる。
けれど、彼女が来ればやぁれやれと云いながら渋々了承した不利をして立ち上がるのだ。

「迎えに来て欲しいから逃げ出すのかしら」

妙は化粧ポーチに口紅を入れておりょうを待った。
ふふと肩を竦め、かくれんぼとおんなじでしょと笑った。
おりょうは妙の言葉が聞こえなかったようで、なぁにとだけ言ってグロスを指でつけた。

















「のう陸奥、ちっくと何処かへ寄っていかんか」



からんころんと下駄を鳴らし酔漢達にぶつかりながら辰馬は歩く。
陸奥は人をするりするりと避けながら、坂本より早く人ごみをすり抜ける。
自分より小柄な陸奥がどうして自分よりそう早く進めるのか不思議で仕様がない。
そういえば並んで歩く時は陸奥が少し遅れるのに、こういう雑踏の中では陸奥の足は速い。
まだ呑み足りやーせん、陸奥の被った笠を目印にその後を追い翻るマントを掴もうと手を伸ばす。

「艦に戻んたらたっぷり飲ませちゃる」

陸奥はその申し出を完全に無視し、マントを掴もうとした手を払う。

「渋茶でよけりゃぁのう」

こんな通りでタクシーなど拾えたものではない。
酔っ払いが右に左にと千鳥足。拾ったとしてもその所為で時間をロスする。
大通りまで出ようと陸奥は急ぐ。

懐中時計の針は時限爆弾。
出航時間は刻々と迫る。坂本は意にも介さず暢気にふらふらと歩く。


「仕事が溜まっちゅうながか」


云いたいことは山とあるが今はそんな事も言えぬ。
言う時間すら惜しい。
というよりそういうものに費やすエネルギーが惜しいのである。

「おんしがふらふら他所で遊んじゅうからこがな事になるんぜよ」

冷血なまでの声音でぴしゃりと言った。
坂本は動じぬだろうがこれもいつもの事である。

大通りに出た。
間の悪い事に週末である。
しかも十時を過ぎ二件目三軒目、或いは家路に着く人が入り混じる時間帯。
空車のサインは殆ど見えない。
車はそれぞれがそれぞれの思惑で走る様を見ながら、
全く掴まらぬタクシーに陸奥は心中で毒づいた。



陸奥の眦が一瞬不機嫌に歪む。
ちらとサングラス越しに見えた些細な変化。
多分世界で自分しか気がつかぬだろうサイン。
辰馬は横顔を照らされる陸奥の傍に近づき、まぁまぁとその肩を宥める様に肩を軽く叩いた。

「青じゃ」

スクランブル交差点が一斉に青に替わる。
錯綜する人の群れ。
ネオン、テイルランプの赤、ヘッドライトの青白さ。

「ほれ、行くぞ」

汗ばんだ大きな手が陸奥の手を掴む。

坂本は陸奥の手を引き、ごった返す雑踏へ分け入る。
引きずられるように手を引かれる。
よろめきながら捕らえられ、体勢を立て直そうにも捉まれた手を引く男の足と自分の足とでは長さが違う。
向こうが二歩歩くところを三歩半。
たたらを踏み、手は離れた。

坂本の横に並び歩き始める。


まさか歩いてターミナルに行く気ではあるまいなと陸奥は頭一つ大きい男を見上げた。
坂本は陸奥の隣で鼻歌交じりの陽気な様子である。
時間も無論気になるが、何故そんなに悠々と構えていられるのかが不思議で堪らぬ。

坂本の口癖は「何とでもなる」である。
緻密な計算を元に全てを判断する自分にはその理屈は通じない。

しかし物事は結局何とでもなり、なるようにしか成らず。
坂本はその中で最善の選択を天才的な嗅覚でかぎ分ける、ある種の神がかり的なところがある。
勝ち札だろうが、ブラフだろうが、堂々とした次の一手を指せる。

自分には出来ない。

それを羨ましくも思うし、そこに惹かれたのかもしれない。
だが同時にいやらしいまでの自分の矮小さに嫌気が差すのだ。

坂本はいつもにこにことしている。
いつも楽しそうに笑っている。
不利な時でも、優勢な時でも。

 では自分は。

暗いショウウィンドウには渋面の自分が映る。
いつも、どこでも、自分の姿を映すものには同じ顔を見る。
不機嫌そうな、何もかもが気に入らぬというような。

陸奥はそこから目を逸らして空を見上げた。
光害の夜空は昼間のように明るい。

「おお、見てみぃ陸奥。今日は星が一層きれえぜよ」

陸奥が空を見上げようとしたと同時に、不意に坂本はそう言った。


人の群れは三々五々に散り、それぞれがそれぞれの急ぎ足で傍を通り抜ける。
足元を見つめ少しでも早くというように。
さっきまで居た町とはがらりと変わり、誰も空など見上げてはいない。

「星らぁて見飽きちゅうろー」

陸奥は思考を一瞬断ち切り、彼がきれいだという星を見た。

 星など見えない。
 見えるはずもない。

此の町では地上が眩しすぎて星などまともに見えぬ。
確かに屑星のような光が所々光っているが、あれはもう美しい星などとは呼べぬ。


「いやいや地球で見るのがえいがぜよ。見えそうで見えないという加減がいいちや」


艦に乗り地球を出航すれば三百六十度足元までのパノラマである。
何をそんなに喜ぶのか。


 ビルの谷間。

 地の底。

 汚れた空気。

 騒音。

 垂れ流される光。



なのに何故二人して同じものを同じように見上げたのか。
思惑は違えども、同じ場所を見あげた理由。



それは。

多分。







そう考えた時、どうにも昔の事が思い出されて陸奥は慌てて思考を切り替える。
加減云々でおんしに説法を垂れられる謂われはない、
陸奥はそういうと視線を空から離してすぐ傍の男を見た。

「いつでもフルスロットルの癖に」

嬉しそうに空ばかり眺める男にぴしゃりと言った。
即座に歩調を速めて坂本の前へ出る。
阿呆とは付き合っていられない、という速度。

「ぶっ飛ばすぞクソ女」

声だけが追いかける。

同じフレーズ。
代わり映えしないやり取り。
リセットできる言葉。

「死ね、もじゃもじゃ」




辰馬はいつものように聞こえるように悪口を言った陸奥を好ましく思う。
二歩先を歩く陸奥の背を追う。

手を伸ばせば届く、けれども伸ばさない。
並んで歩こうと思えば追いつける、けれどもその距離を保つ。

手を繋ぎたい、だけど言わない。


さっきのはフライング。
時折出る自分の子供っぽい独占欲。
自分しか判らないものが見えたから、触って確かめたかっただけ。
寒気のするような優越感。
それが引き起こさせたミス。








  「見つけて欲しい」


      「だから隠れる」


  「でも捉まったら」


      「今度は自分が鬼にならなくちゃ」




追うのはきらいだ。
もう追ってるから厭なんだ。






もどかしい、届かない、胸の底を焦がすような。


そういう距離を加減する。
冷たい目で計算する。




 測りながら。





近づかないように。
遠ざからぬ様に。

でも一番傍に居るのは自分だと。
自分も、彼女も、思い知らされる距離を。










「のう陸奥、明日は何処なが」







艦の中の密閉空間。
生きるも死ぬも一蓮托生。

そういう運命を我々は選んだ。
最良の選択だと信じている。


そう、あの日。
お前の見たいものを私も見たいといった。

その心。



覚えているだろうか。
出来たら忘れていろ。



同じものを見たいと願った心が、時折弾みでリンクする。



そういうときだけ思い出せばいい。








陸奥はくるりと振り返り、天を指差し答えた。






「星の海のど真ん中ぜよ」



end


ほどほどに永訣の朝との連作というか時系列モノです
前編は陸奥が居候を始めて暫く経って、程度でしょうか?
捏造にも程があるですが、
坂陸奥自体がオリジナル状態なので眼を瞑って頂きたい。

まどろっこしい坂陸奥は大好物です。
手を繋いだりするのもなんかどきどきするなぁ位のまどろっこしさです。
多分此の二人はお互い過不足なく組み合わさっているくせに、
まだなんだと思います(なにが?)

あとどうでもいいんですが、最後の台詞がちょっとだけお気に入り

因みに此のサイト…。
流行のロハスな坂陸奥自給自足サイトですから、
自分が褒めなきゃ誰も褒めてくれませんので
自画自賛上等精神でお送りしております。

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