<注意>

過去捏造なお話です。
とりあえず史実を色々取り混ぜまして、捏造しました。

■ 捏造点 ■
  @辰馬には絶対姉が居るだろう
  A名前は乙女しかないだろう
  Bお母さんは死んでてお父さんは辰馬にはベタ甘だろう
  C陸奥は紀州の出であろう
  D陸奥の父は昔家老とか幕府要職であったろう
  Eしかし失脚して家族離散で土佐に来ていたらいいのに…


などです。
もういっそこれオリジナルじゃん?
と反論もありましょうが妄想してしまったものはしょうがないので捏造ものがお嫌いな方は読まぬほうがよろしいかと存じます。

因みにお話自体は陸奥と辰馬の出会いと郷里を出発するまでの妄想でございます。


































1



吾が涙は 雨となり
背子の肩を 濡らすだらふ







永訣の朝








「戦に行くゆうて勝手に家を飛び出した放蕩者が、どの面を下げて逃げ帰ってきたが辰馬」

女は忌々しげに玄関先でただいま戻りましたと暢気に言った男を見た。


帯刀しているが到底侍には見えず、せいぜい無精髭だらけのひょろ長い熊の様であった。
男は何処をどう来たものか、袴は薄汚れ泥がこびりつき、衿は垢染みて、
頭は此の二月ほど櫛を入れていないように見えた。
まぁもともと頭の方は櫛を入れようがいまいが、
まるで毛玉のようにもじゃもじゃとうねりくるっているので「誰」と見分けがついたのだが。



そいつは自分の弟である。



五年前に家を飛び出していったきり便りも殆ど寄越さず、
生きているのか死んでいるのかさっぱり判らなかった弟である。
つい先ほどばたばたと廊下を走る音がして、息も絶え絶えな庭男が自分の顔を見るしな大声で「乙女様!」と叫ぶなり、
戻られました、お戻りになりましたと一生懸命玄関のほうを指すので行ってみればひょろ長の熊が居た。

五年前よりは少々背が高くなり、顔も日に焼け精悍になっていたものの、
昔と全く変わらぬ愛嬌のある目で姉の姿を見つけるなり、
姉上様も息災で居られたかとにこにこと笑いかけたとき、殴りつけたい衝動に駆られた。

屋敷の者でそいつを知っている者達が名前を不思議そうに呼ぶ。
その小声が細波のように辺りに伝播し、人だかりの後ろの方で大きな声が上がった。


「辰馬ァ!」


父上と叫ぶなり薄汚い熊は持っていた編み笠を放り投げ走り寄った。
感動的な抱擁でその場に居た者は辰馬を知るものであろうがなかろうが一粒涙を零したが、
一人だけその情景から目を逸らし、下女の一人に風呂を用意せいと言ったのは姉の乙女であった。

「ほん、忌々しい馬鹿が戻ってきおった」

溜息と共に、お帰りなさいませと口々に言う人だかりを白々しく眺めた。






          *






辰馬は一時間ほど風呂に入り漸く熊から人間へと生まれ変わった。
髭を剃り伸び放題だった髪を切り揃え、樟脳臭い着物に着替えて座敷に入る。

上座には父、その右には姉が坐っている。
辰馬は下座に正座をしてまずは長の不在を丁重に謝罪する口上と心配を掛けた事への深謝を述べた。
そして父がその余りに「立派過ぎる」口上で涙したところ辰馬は相変わらずしまりのない顔をして顔を上げた。


 父は辰馬に随分甘い。

惣領息子だからなのか、それとも少々年を行って出来た所為なのか、
或いは彼を生んだ母が一年と間を置かずこの世を去った所為なのか。

兎も角、甘い。

帰ってくるなり抱擁して父上から泣き出すなど考えられぬ。
こんなうつけ者、二三発殴って此の家の敷居を跨ぐなど言語道断くらい言ってもいいものを。







「何しに戻ったが」




問いただした乙女の台詞の尋常ならざる気迫に父は双方を宥めるようにまぁまぁと顔を見渡したが、
気迫が籠っているのは乙女だけで辰馬は至極穏やかである。

 乙女は此の家の主よりも恐ろしい。

坂本の家は元々郷士で、株を買って侍になったのが三代前である。
しかし折り悪く攘夷戦争が始まり、最早侍という「職」では食って行けず、
将来を見越して娘を商家に嫁がせた。
商家ならば戦での多少の傾きなどはあろうとも食うに困る事はないと思ったのである。

武家と縁続きになれると向こうは初めは喜んでいたものの、
婿殿は相当な碌でなしだったらしく、我も強く腕っ節も強い嫁を嫌い悪い仲間とつるみ、
三年後とうとう女を作って家を出た。

勿論、当座の生活費とばかりに家の金を持ち出して、である。

悪い事に当代であった父親がその報せを聞いて倒れた。
何しろ息子が持ち出した額はその日に切る手形と同額だったのである。
不渡り寸前となったが、一応事なきを得た。

が、そこからその庇にも翳りが見えた。

女将は気丈な人であったが心労が祟ったのかおかしな宗教にのめり込んだ。
娘は私財を擲つ義母に思い留まるよう願い、
その傍ら義父の介護をしていたが、とうとう義父は帰らぬ人となった。

亡くなったとの報せを受けて葬式に参列した時には既に家は傾き、廃業寸前であった。
そのときまで嫁ぎ先の現状を知らなかったのである。
気のふれた老女は、葬式を手配し参列者に篤く礼をする嫁に塩を掛け追い払った。
疫病神、疫病神とおかしな踊りを踊りながら、
恐らく同門であろう宗教家達と家の中で不可思議な文言を唱えながら護摩祈祷を始めて最早取り付くしまも無かった。


その日限り、娘は着の身着のまま実家に戻された。
俗に言う出戻りである。



矜持心も強く我の強い娘は商売を覚えたことで、
将来逼迫するであろう坂本家の財政を心配し、今までの伝を使って仕事を始めた。

山林を一分処分し資金を作り、それを元手に外国製品を輸入しそれを江戸や近隣の大都市に紹介して回る。
物珍しさと地の利もありそれが当たった。
今では此の辺りでは押しも押されぬ大店である。

そのためこうして楽隠居しているのであるが、娘には逆らえない。
坂本の家がこうして今栄えているのは総て出戻り娘のお蔭なのである。

しかし、最早恐怖政治である。

頭も切れるし、いざというときの決断力は思わず舌を巻く。
従業員からは慕われ商売の仲間内からの信用は厚く、清濁飲める器もある。
子供の頃より女だてらに武術を嗜み、
洋書、漢籍を問わず読み、歌も嗜むような子供であったが、いやまさか養われるようになるとは。


 老いては子に従えとゆうが。


ちらちらと娘と息子の顔を見比べた。



嗚呼、と父は亡き妻の遺影を見上げた。
男と女が逆ならよかったのうと思ってみるが、遺影の中の妻は凛とした笑みを返すばかりである。







乙女は先ほど言った台詞をもう一度言った。

「戦に行くゆうて勝手に家を飛び出した放蕩者が、どの面を下げて逃げ帰ってきたが辰馬」

目だけ母似と言われた凛とした乙女の目が真っ直ぐ辰馬を射抜く。
どんな小さな嘘ですら見抜く眼だ。

追及の手が余りに厳しくて目を逸らし、曖昧な返事をしようものなら
「男子の一言、鉄の如しという言葉を知らんがか」と殴られた事を思い出す。
家の中の者は一切逆らえず絶対の正法だった姉である。

いやそれは今も健在というわけだが。



「いいや姉様、逃げたわけじゃぁないちゃ」

「何とでもいえるろー」



あァ、姉様相当怒っちゅう、
辰馬は長く別れていた姉の相変わらずのきっぱりとした物言いに少々怖気づいた。


辰馬と乙女は七つ歳が離れている。二人きりの姉弟である。
兄弟揃って大柄である。
自分は背だけは人並み以上に高い。道を歩けば頭ひとつ抜きん出る。しかし上にばかりひょろ長い。
しかし姉は女というのに丈は余り変わらないばかりか太い腕と腰を持った巨躯である。
姉は自らを父に似た所為であろうと冷静に分析し、健康であればえいと豪胆に笑った。


しかし、あん腕で殴られたら相当痛いろう。
暴力には飽き飽きだが、流石にこれは一二発喰らわねばなるまい。



惣領息子だというのに家出同然で郷里を飛び出し、
便りも出せず、
挙句の果て身勝手に戻ってきた。


 家に戻って驚いた。

今までただの畑だったところに大きな御殿が建ち、
聞いた事のある貿易会社の名が連ねて書いてあった。


 父にこんな事が出来るはずが無い。


父はすこぶる人は善いが良くも悪くも並の男である。
女遊びも博打も人に誘われれば嗜む程度。
女好きは恐らく家系だが妻女が亡くなったからといって色に目覚めるわけでもなし後添いも貰わなかった。
更に能力も並みの男である。

 並が悪いわけではない。

一つ処に同じ仕事を黙々と続ける事が武家社会では必要とされていたのである。
いいことも然程しないが、商家と結託して勘定を誤魔化すであるとかの悪事もするわけではない。


 そういう点では父はまともな人であった。



とうとう坂本の家も人手に渡り終わったかと思ったが、
家はちゃぁんと存在しており、飛び出したときには荒れていた庭もきちんと剪定され増築された御殿になっていた。

事の次第を聞けば総て姉が裏で奔走していたのだと知った。
自分の不在の間に、である。



男勝りどころか完全に凌いでいる。
そして今自分がしたいことをまさに姉は実践して結果を出している。


「逃げ帰ってきたわけじゃぁないですき」


これはいい時に戻ってきたのかも知れぬ。
胆を決めた。
後は野となれ山となれ。


「戦なんぞ、しようも無い」

人が幾ら死のうが変えられぬものがある。
それを散々見て漸く判った。

「時代の流れは一瞬は堰きとめられても結局決壊してしまう」

姉は腕っ節も強く、頭の回転も早い上に口も立つが、理不尽な事は言わぬ人であった。
真剣に話せばどんな夢物語もしっかりと聞いてくれた。
何しろ辰馬に孔子を論じたように、攘夷思想の何たるかを初めに教えたのは乙女なのである。


「天人とともに生きていく術を考えての。地球と宙を架け橋して商売しちゃろうと思うちょる」






そんな事をして何になるかと別れた友の一人は言った。
奴等総てを消し去らねば此の国は守れぬと。

別の一人は言った。
裏切り者だと、腹を切れと。

もう一人は言った。
いいんじゃねぇの、好きにやれよと。



どんな罵倒が飛んでくるかと一瞬身を固めかけたが、
姉は最後まで押し黙ってそれを聞いた。
そして一言。


「さようか」



そう嘆息と共に吐き出し、ぐっと進めていた膝をなおし居住まいを正した。
乙女は顔を上げてまじまじと久方ぶりに帰ってきた弟の顔をじっと眺めた。



乙女は出来の悪い弟に対して殊更厳しく接した。



母は早くに亡くしていたから弟にとっては母代わりであった。
父は勤めで忙しく、滅多に会えぬ惣領息子には甘すぎ、
代わりに父親代わりもせねばならなかった。

子供の頃行っていた塾を不出来という理由で退塾させられたので、
読み書きに算術、漢詩に兵法を教えたのは乙女である。
強い奴に打ち負かされて道場に足が遠のいていた弟に稽古をつけたのもである。

ケンカに負けたと言っては泣き、
溝に落ちたと言っては泣き、
雨が降ったといっては泣き、
寝小便をしては泣いていた。


それが一丁前に男になり、
悪い遊びも覚えた矢先に熱に浮かされたように攘夷攘夷と言って家を飛び出した。



 それが二年ほど前である。



どこで何を覚えてきたのか、何を見て来たかは知らないが、
地に足が着かぬのは今も昔も同じ事。
ただし言う事は一丁前になりよった。
「ほやき商売ゆうもんを教えてもらいに戻ってきたがじゃ」

姉上様の嫁ぎ先は商家じゃったき、と辰馬は暢気に言った。
半年くらいで何とかならんもんかのう、そうのたまう。
見通しの甘い事である。
地に足どころか頭の方は余り成長はしていないらしい。



というか見込みもないのか。


何故嫁に行った姉がどうして盆暮れ正月明けでもないのに里に居るかの見当もつかぬらしい。
というより、気が付いてすらいないのだろう。


「おんしのその海綿みたいな頭じゃぁどうもならんろー」

二年ぶりの弟は図体ばかり大きくなり顔つきも変わったが、中身はなにも変わっていない。
乙女は代わり映えのしない弟を此処を出て行ったときの辰馬に重ねた。
輪郭はぼやけたが確かに弟だ。やれやれ。

「そりゃァ飲み込みが早いゆうことろうか?」


あっはっはと能天気に笑った。
こんな楽天家気質はいったい誰から受け継いだのか。
このどあほう。


「アホ、中身じゃ」










2






「どこへ行くなが」
「おんしが面倒を見てもらうところぜよ」

長の旅より戻ってきた翌日、乙女は早速辰馬に説教交じりに自社の流通経路などを話して聞かせた。
珍しく真面目に話を聞いていた。説明途中に所々質問をしてきたくらいだ。
興味を持つものには貪欲なくせに興味がなければ一向に頭に入らぬのは今も昔も同じのようだ。
今回はどうやら前者であるらしい。

さてどのくらい続くものやら。

二日ほど職務放棄であちこちへ連れ回し、流石に付きっ切りでは叶わぬと思い当たり
とりあえず現場を知れと営業部に預ける事にした。
営業部の部長を呼び出すと恐れ多いと畏まるばかり。
後継者として押し込むわけではないのだが、経営者の血縁と言うだけでこの体たらく。
これではと思ったのだがまぁ仕様がない。
実際の教育係にも直接遠慮なくやってくれと言ってやろうと思い、部内の応接室に呼び出した。

失礼しますと声を上げたのはまだうら若い女だ。
聞き覚えのある声に乙女は顔を上げると、あぁと顔が綻んだ。


「おまんが教えるがか」


経営者に顔を覚えられていると言うのは余程の縁があるのかと辰馬はその女の顔を見た。
女、と言うよりまだ娘である。

いいえと娘は首を振る。
「今部内で取り交わした契約書に不備があったので上へ下への大騒ぎです」
当の教育係はその契約を取ってきた人間であったから補佐である自分が来たと告げた。

「何があったがか」

「売掛金と買掛の相互利益率がおかしかったので調べたところ少々間違いがあったようです」

恐らくすぐにお耳に入るかと、娘は簡潔に告げた。


ちらと女は辰馬の方を見た。


「どなたですか、乙女様」

女は媚すら惜しいと思っているのかにこりともせず、一度の瞬きだけですぐに乙女を見た。

「あぁ、新人と思うて扱こうてくれ」
「あしの弟じゃき」
「では若旦那様ですか」

娘は表情も変えず散々言われたその代名詞を口にした。
乙女はまたかと思う。
だが、驚く素振りも見せないそのふてぶてしさが逆に新鮮であった。

「付け上がるから丁稚と思うてこき使えばえい」

辰馬はすくと立ち上がりよろしゅう頼むぜよと右手を差し出す。
女は涼やかな目で差し出された手をちらと見た後、丁寧なお辞儀をした。
その顔には表情らしいものがなく、行き場をなくした右手を引っ込めながら随分強い眼力のおなごだと辰馬は思う。

「お呼びですよ」


そう女が言うと同時に会議室に現れたのは先ほどの部長である。
何事か耳打ちすると乙女は青くなり詐欺られたかと独りごちた。
足早に連れ立って部屋を出て行く間際女に向かい乙女は、暫くそれを頼むとだけ言い捨てた。

辰馬は全く愛想の無いその女と二人で残された。
沈黙に耐えかね辰馬は女に話しかけた。

ワシはどうしたらえいがじゃろ、娘は値踏みするでもなく辰馬をじっと見上げると先に立って歩き始めた。

「恐らく今日は教育係は手が離せぬと思います」

本人が当事者でまだ出社しておりませんと、足音もさせず歩く。

薄香色の無地の着物に濃藍の色気の無い袴姿。娘らしく帯は高い位置で結んでいるがその姿はまるで少年であった。
辰馬が人並み外れて背が高いのもあるが、娘は胸ほどの背しかないので更に強くそう感じた。
蜂蜜色の髪は総髪に結い上げ、色あせた組紐で結んでいる。


「私も仕事になりません、出る幕ではありませんから」

営業部事務所はそれはひっくり返したような騒ぎであった。




「何が、あったなが」

「同品売買にも関わらず、売掛買掛双方の利益率がまちまちなのでおかしいと思い、
過去へ遡ると巧妙に利率を操作しているのがわかりました」

娘は大騒ぎをしている部内を眺めながら、自分の席と思しき机へと着いた。
一つ空いた椅子があったので辰馬はそこに断りもなく座ったが娘はなにも言わなかった。


つまり。


「当社は通常仕入先から物を受け取った時点で支払いが行われます。
現金、手形、契約極めの期日後支払いなどありますが通常は捌けなくとも支払います。
仕入れた商品は一旦倉庫などに仮置きされ売り先への搬入などが行われそこで金額の受け取りがなされます。これは商売の基本ですが。
利益と言うのは純粋な元値からそれら掛かった料金を引き売価との利率が算出されます。
その際、どういう訳かあちこちへと転売しているような操作がされており利率がばらばらになっていました」

わかりますか、と娘は尋ねたが辰馬は首を傾げた。
全く、さっぱりわからんがやけどと首を振る。
娘は何故判らないのか一瞬眉を顰めたが、非難の言葉はなかった。

「簡単に申し上げますと、九十円で仕入れた物を百円で売ると十円の儲けです。
同じ商品を百個売ると千円の儲けです」

「しかし儲けは八百円しかありませんでした」

娘はその辺りにあった帳面にさらさらと絵を書き始めた。
まるで子供に教えるように。上手い字であった。

「消えた二百円はどこへ?」

あぁと辰馬はようやく合点が入った。

「ネコババか」

思いの外大きな声だったので、娘は口の前で人差し指を立てた。

「滅多な事は言わない方がよろしいでしょう」

そこの、と今辰馬が寸借している席を目で指す。
出社していない理由がそれではと皆が思っていますから、と騒いでいる人だかりを見遣り一つ頷いた。


「おんし、詳しゅう知りゆうの」

初日がこれかと辰馬は思わずにやりとした。
危機の時にこそ人間の真価が問われると言うものだ。
面白いやも知れぬとタイミングの良さに思わず笑みを零した。


「私が見つけましたから」

娘は得意になるでもなく、先ほど書いた帳面の一番上を破り捨て廃紙回収用の箱に入れた。

「上役の人はなにも言わんかったなが」
さぁ、と涼しく首を傾げると少し離れた席の年嵩の女性に何事か話しかけた。
女性は首を振り娘は参ったのと一言漏らした。


これは、と辰馬は思った。
舌を巻く、と言うほど生易しくない。
ただただ驚嘆するばかりである。

この娘、いやこの歳若い同僚に興味が出てきた。

「おんし、幾つなが」
「十六になりますが」

相も変わらずにこりともせずただただ事務的に答えたその顔も、
こうやって見ると礼儀正しく見えるから不思議である。
先ほどの初対面の時に、なんと愛想の無いおなごじゃろうと思ったのを撤回する。


あァ、そういえば、名前を知らんかったが、辰馬は娘が笑わぬのを承知で笑いかけた。
面白そうなおなごじゃのうと言う興味の先走りであったのやも知れぬ。

「ワシは坂本辰馬。これからどうぞよろしゅう」

やはり娘は笑わなかった。
代わりに会釈した時少しだけ首が傾いでいたように見えた。


「陸奥と申します」






3


半年後。


「モノにならんと思っちょったがのやけど」


子供の頃不出来だと退塾させられた弟が興味があれば此処までやろうとするのを、
乙女は驚きを以って眺める思いであった。
初日から散々ではあったが、この半年の間現場レベルで商流や交渉を覚えなかなか様になっている。
最近ではあの愉快な男は今日はいないのか、と来客にまで言われる始末。

商いとは人間の繋がりである。

顔が利けば多少の事は融通してもらえるし、無理な条件も信用と受けが善ければ飲んでもらえるときもある。
どんなところで顔を売っているのか知らないが、老若男女に受けがいいのは商人としては得がたい資質だ。
まぁそれは昔からではあるが。

ガキのころから愛想が良くて知らぬ子等と日が暮れるまで遊んでいたり、
道行く知らぬ小父さんやら小母さんやら菓子を貰うことは数え切れぬ。
それは歳を経て女遊びにも発展したのだが一概に長所とは言えないものの、役に立つ資質なのだろう。

何しろアレは陽気な男である。

些細な事でも大仰に笑う。笑うとその声に釣られて周りが笑い出す。
それが可笑しくてまた笑う。その為あやつの周りには笑い声が耐えぬ。
現場に放り込んで二三日で慣れ親しんだようで、仕事終わりに同僚等と連れ立って遊びに行くこともあるらしい。
更には他の部署にまで潜り込んで誰彼構わず話しかけ、役に立つ立たぬお構いなしに話を聞いているらしい。
だからなのか、若旦那様って面白い方なんですねなどと何処の部署へ行っても云われる。

まぁこれからが正念場じゃと部下からの報告を受けて乙女は笑った。
経営者の教育は為さらぬので、と報告してきた部下は尋ねたがはははと乙女は笑った。

「ほがなもの、あとで付いてくるぜよ」



「大事なんはどれだけの信頼を自分が受けられるか量るところから始めねばの」







                    *








初日に起きた事件は迅速な処理にて既に終わったものになっていたが、ポストが一つ空いた。
それではと言う事でようよう仕事も覚えた半年後、そこに収まったのが辰馬である。
そして補佐としてそのまま陸奥がスライドした。

陸奥は聡い娘であった。

その上仕事も良く出来き、上役の覚えもいい。
更に言うなれば、理不尽な物言いにも喰って掛れるところも気に入った。
向こう見ずな性質なのではなく、その水面下に冷たい血を持ち、
五手先まで常に考えている怜悧な思考の持ち主だと言う事が窺い知れた。

わしなんか次の一手も思いつかんままに事をするがのう、と辰馬は彼女が遣りあう相手を見ながら感心しつつも、
逆にその物言いで敵を作らねば良いがと心配になったりもした。
だが普段常に激昂しているかと言うとむしろ感情も読めぬ無愛想な顔をしている方が多かった。
いつも黙々と仕事をこなし人の仕事を手伝い遅くまで残っている。

陸奥とはじめにまともに口を利いたのは初めに出会ってから半年以上過ぎ、自分の補佐役となって二月余り。
事務所に二人きりになった折であった。

その日はなぜか早々に退社するものばかりで、辰馬も漏れなく定時に仕事を終えた。
ぞろぞろと部屋を後にする者に挨拶を交わしながら、陸奥だけが一人残っている。

「上がらんがか」



お気になさらずお先にと机の上に散乱した書類を一つ一つ整えながら、陸奥は一つ頭を下げた。




職場と辰馬の実家は目と鼻の先である。実家の家から本社が見えるのだ。
それもその筈、田畑を潰して大屋敷を建てそこを本社にしたのである。
毎食食べに帰ったとて苦にはならぬ。

しかし住居としての坂本の家は然程賑わってはいない。
社を立ち上げた当初は部屋住みの者も幾らか居たらしいのだが、
社の機運が乗り規模が拡大するに連れて部屋を借りるように外へ出て行った。
出入りの庭師や急ぎで頼みたい修繕や掃除などは人を頼むが、
坂本の家には手伝いの婆が一人居るだけで、夕餉の支度と父の食事を世話した後は家に帰ってしまう。
父と自分と姉だけがそこに住んでいるのである。


その日は珍しく父の夕餉が遅かったのか、婆はまだ台所に居り膳を用意してくれた。
箱膳を前に一人で夕餉を取り終えた後、部屋でごろりと横になった。

家業の手伝いは思ったより忙しい。毎日がめまぐるしく過ぎてあっという間に時間が経つ。
けれども、それは寧ろ喜ぶべき事で飽きっぽい自分がこうものめり込めるとは意外なほどだった。

「またゴロゴロとしてらぁてどがな風体なが」

寄合帰りの姉が辰馬の部屋を通りかかりそう声を掛けた。

「お早いお帰りですの」

姉を見ると自然と姿勢が戻るのは最早条件反射というべきものだろう。
食事を聞くと済ませたと言う。
姉は辰馬に立てと手で促し、土産だと包みを渡された。まだ温かく、蒸した饅頭だと判った。

乙女は弟をもう子供ではないのだからと言うくせに、こういう子供が喜びそうなものを買ってくる癖がある。
まだ自分の中では弟は童そのもので、目を掛けねばならぬとでも思うのかも知れぬとそのたびに思うのだが、
包みの匂いをかぎ、酒饅頭かとにこにこする辰馬を見てその思いは撤回する事にした。

 ガキだ。

茶でも淹れてやろうかと台所へ行こうとした矢先、辰馬が声を上げた。

「おや、まだ灯りがついちゅうで」

立ち上がった辰馬は庭を囲う塀の向こう、社の部屋から一つ漏れる灯りを見つけた。
だぁれが残っちゅうじゃろ、まだ温かい饅頭を頬張りながら、光源はどこだろうと目を凝らす。
乙女もおなじように目を凝らした。

「おんしの居る部署じゃないなが」
辰馬はふうんと気の無い返事をして、そのままひらりと沓脱石の上にあった下駄を突っかけた。
かろんと下駄の歯が鳴る。

「ちっくとこれを差し入れてきゆう」


そうとだけ言うと辰馬は勝手からするりと外へ出た。






     *






静かだった部屋の扉を突然遠慮なしに開けられ陸奥は飛び上がった。

誰ももう残っていないと知っているから驚きはひとしおで、
振り返ったところに見た顔があった時はほっとしたと言うより驚かせるなと一言言って遣りたかったが
相手を見てその言葉を飲み込んだ。

「まぁだやりよったなが」

一人になって三時間余り、急な仕事を云いつけるものも余計なものを言うものはいない。
守衛が先ほど来たが、早うおかえりと言われたがあともう少しもう少しとこんな時間になってしまった。
昼間は他人に教えることが多くて自分の仕事が全くと言って進まない。
残業代は増えるが同時に疲労は蓄積してゆく。

「若旦那さん、お帰りじゃァなかったがですか」
「”若旦那”じゃぁない、辰馬だとゆうに」

陸奥は出会って半年、一向に態度が変わらぬ唯一の人間である。
経営者の弟と言うだけで持ち上げようとするような奴も沢山いるが、
陸奥は遜るわけでもなく、かといって持ち上げるわけでもなく、
縁故採用云々の陰口を言うでもなく淡々と接する態度を変えなかった。

補佐に着くとなった段でも、皆が大役が務まらないわなどと言う建前を言う中、
手が空いていますと言ってその場を収束させたのは陸奥らしい。
相変わらず愛想の一つを零すわけではないし少々つっけんどんなところもあったが、
辰馬は補佐役であるこの娘が一番のお気に入りであった。

「饅頭を持ってきてやったが」

蒸しあがって少し時間が経ち、蒸気を吸って皮が緩んでいるが中はまだ温かい。
陸奥は顔を上げありがとうございますとそれを一つ取り懐紙に包んだ。

「食わんなが?」
「えぇ、母に持って帰ろうかと」

辰馬はそうかと言うと持っていた食べ掛けを残して紙袋ごと陸奥の机に置いた。
じゃぁこれっちゃ母上に持って去ぬるがえぇ、
にこりと笑い給湯室から失敬してきたと思しき缶のお茶を懐から二つ出し、隣の机に座った。

居座る気かと陸奥は察し、饅頭には一切手をつけず貰った茶だけ封を開けて一口飲んだ。

一服する気は毛頭なく、一口お茶に手をつけただけでまた仕事に没頭し始めた。
辞書らしきものを引き引き帳面を次々に捲り、何事かを記入する。
聞けば今度入荷する商品の説明書の雛形を作っているのだと言う。
外来語が読めるのかと聞けば此処に来て覚えたのだと言う。

辰馬はそれを聞き感心し、それ以上はなにも言わずその横顔を見ていた。
まだあどけなさの残る横顔に似付かず、
視線は真剣そのものできりりと結んだ口元からは辞書を引く言葉が時々聞こえた。

「御用はもうお済ですか」

陸奥は手を止めず黙ったままの辰馬に話しかけた。
恐らく暗に帰れと言っているのだろうが辰馬は気になどしない。
そういえば話しかけられたことなどこれが初めてではないだろうか。
伏せられた睫が手元の灯りで濃い影を頬に落とす。

「陸奥はこっちの生まれじゃァないがか?」

問いかけとは無関係の質問を返した。
陸奥の手が止まり、初めて此方を見た。
何故そんな事を聞くのかと尋ねもせず、紀州の生まれですとだけ言った。

「ほうなが?イントネーションがちくと違うの」

時々ちゃんぽんになっちゅう、齧りかけの饅頭を頬張り視線を合わせた娘に尚も問う。
社には乙女がヘッドハンティングしてきた他所の者も居るが大方は土佐の人間である。
幕府が一斉リストラをしたお蔭で城勤めをしていたものが一斉にあぶれた。
それを拾うように乙女は人材を確保したのである。

言葉と言うのはどうも混じるようでどこから来ようが段々と皆が同じ言葉を話す。
唯、陸奥はそうとは染まらぬように努めているように思えた。

「こっちに来て長いがか?」
「二年になります」

一問一答、簡潔至極である。

「のう、なんでそんな四角四面な言葉なんなが」

頬杖を着いて首をかしげた。
最近では皆砕けた言葉で話しかけてはくれるが陸奥だけはそうではない。
ただ、陸奥の馬鹿丁寧な言葉は誰に対してもなのだが、
何しろ辰馬は歳は少々上だが此処では後輩である。
営業職と補佐役と言えどもう少し柔らかい言い方があってもよさそうなのだが。

「いえ、若旦那様、でしょう」

あまぁまたそれだ。

だが、陸奥は他の者が若旦那と言う時に発するあの厭な感じがしない。
大概そう言う人間は辰馬の事をワンマン社長の二代目、
世間知らずのぼんぼんと思って侮りを込めたニュアンスで以って呼びかける。
乙女は無論そう言うし、辰馬も同じく感じていた。
侮られているうちはいいのだ。馬鹿にならねば成せぬ事もあるというもの。

「辰馬でええがやき」

もう何度目だろうか。
そろそろ諦めた方がいいのではとも思うのだが、諦めが悪いのが性分である。
陸奥は頬杖を着く同僚に一瞬眉を顰めたように見えた。

「そういうわけにはいかんです」
「生真面目なおなごじゃの」

辰馬は一辺倒な陸奥の答えを何度も聞きながら、此の娘の頑なさの原因を考えた。
頭にクソがつくほど真面目で冗談も言わぬ。
性分だろうか、それとも皆が言うとおりの理由なのか。


陸奥は諦めたように机の上を整頓し始めた。
去ぬるがかと聞けば、流石にと細い声で言う。もうそろそろ眠ってもいい刻限である。
こんなに根を詰めぬでもいいだろうにと思った矢先、
外語字書を書架に戻そうと立ち上がった陸奥の体がゆっくりと傾く。
床に手を着くでもなく崩れ、鈍い音がしキャスタつきの椅子が大袈裟な音を立てた。

「む、」

辰馬はその名を読んだが声にはならず、
お茶に伸ばしかけた手を泳がせたが間に合わぬ。

「陸奥!」




         *




玄関で物凄い音がしたのを乙女は聞いた。
何事かと立ち上がろうとした瞬間、血相を変えた辰馬が女を両腕に抱いて駆けてきた。

「姉上様!これ、陸奥が!」

息せき切ってそれだけ言うと医者をと急く。
血の気の失せた顔をした女で、見知った顔であった。
乙女は既に延べてあった自分の寝間に寝かせるように指図した。

聞けば立ち上がった瞬間に倒れたという。
椅子を蹴飛ばす様に傍に膝を着くと紙の様に真っ白い顔をしていた。
何事か言おうと、恐らくなんでもないと言っていたのだが口唇が動くだけで声にはならない。
四の五の言わさず両腕で抱き上げ、真っ暗な廊下を抜け実家まで走ったのだという。

「どがぁしよう、おかしな病気じゃったら」

辰馬は同じように青い顔をしている。貧血の一つや二つ女なら一度か二度は経験するもの。
肝の据わらん男じゃと乙女は思い、陸奥陸奥と呼びかけた。
陸奥はすぐに目を開けいつものように気丈に申し訳ありませんとようよう聞こえる声で言った。

「大丈夫なが」

乙女は温くなった茶を差し出し、陸奥に飲ませた。
その姉のうしろでおろおろしている辰馬は恐る恐る陸奥を覗き込む。

「立眩みが」

乙女は楽にさせようと袴の紐に手を伸ばしかけた時、
うしろで手持ち無沙汰のまま覗き込む不埒な弟に、ぼんやりしておらんと医者を呼びに行かんかとどやしつけた。
そう言われてはっとした辰馬が部屋を出ようとしたとき、陸奥が声を上げた。



「乙女様、医者はえいです」



辰馬は寝間から手を伸ばした陸奥が薄明かりの中でも赤い顔をしているのが判った。
陸奥は乙女に何事か耳打ちする。
と、乙女は一つ額を叩き自分の為に用意されて手を漬けなかった膳を弟に持ってこさせたあと、
おんしは向こうへ行っていや、仮にも婦女子の寝間ぜよと部屋から抓み出し襖をパタンと閉めた。

二人になった部屋で乙女は天井を見上げる。





「腹が減って目を回したじゃと」

恐らく辰馬は外で聞き耳を立てているであろうので小声でそう苦言を零したが、陸奥は沈黙し俯いた。
膳の上には冷え切った魚が一つ、乾いた青菜の和え物に漬物だけである。
さすがにと部屋の火鉢に沸いていた湯で、飯を湯漬けにしてやった。
布団から降り、陸奥は恥ずかしそうに俯きそれを食べ始める。

「倹約もほどほどにせんと」
「先月、薬代が思いの外掛かりまして」

ふむと乙女は湯飲みに茶を注いでやる。
「お母上は悪ぃがかえ?」

先月、少々調子を崩しましてと陸奥は答えた。
生計は殆ど総て陸奥の稼ぎで賄われている。
食費に家の借賃、わずかな雑費、それだけでもかつかつなのにその上薬代の捻出は少々苦しいであろう。
その為病気の母の食事と薬代を回し、自分は黙って食事を抜いていたらしい。

「朝も昼も夜も食わねば倒れるのは当たり前じゃき」

はいと心細く陸奥は頷きながら湯漬けを掻きこみ箸を置く。
正直朝晩は食べるようにしていたのだが、
今日は朝から早朝早くに出勤した為食事を忘れ、夜まで忙殺されていたのであると陸奥は言う。
しかしそれも方便であるやも知れぬ。
此の娘にはそういった他人に踏み込ませぬ部分があることを乙女は知っていた。

母御は既に回復しており、今週は手習いの師匠を努めているという。
温かいものを食べ、少し落ち着いたのか陸奥の顔色は少し戻っていた。
使いを出すから今日は泊まるかと聞いたのだが、母一人にするわけにはと頑なに辞退した。
しかしながらまた往来で倒れられては叶わぬ。


「辰馬殿」


よく通る声で襖越しに呼びかけると、はいと即座に返事が返った。
抓みだされたが心配だったのかそれとも唯の好奇心なのか、聞き耳を立てていたのであろう。
思ったとおりである。

「おんし、ちくと送りとおせ」

辰馬は是が非もなく了承すると、すぐに支度をと部屋にすっ飛んで帰った。
羽織の一つでも羽織るのだろう。
表口で提灯に火を入れてもらい家を出た。

外は生憎月などもなく、暗いので星が降るように光っている。
足元は暗いが見知った道なので苦は無い。

辰馬は陸奥より少し先を歩きながら、時折後ろを振り返る。
陸奥は遅れぬように歩くのだが何しろ背丈が違う。
コンパスの差で殆ど走るようにしなくてはならなかった。
辰馬は二度目に振り返った時漸く判ったようで、歩調を少し緩めた。
下駄の歯が夜道に柔らかく響く。

「陸奥、おんしどっか悪いなが?」

いえ、調子が悪いのは母のほうですがと陸奥は言う。
聞き耳を立てていたわけではないのかといぶかしんだが特には問いたださなかった。
辰馬はううんと少し考え、立ち止まり腕組みをした。

「アレじゃ、若い娘は減量に励むらしいがおんしはちいと肥えたほうがえぇがで」

少々言いにくそうな言葉尻である。
しかし余計なお世話である。
それはどういう、と陸奥が顔を見上げたとき辰馬は至極真剣な顔をして言った。

「抱いた時どっちが前か後ろかわからんかったが」

今度は陸奥の足が止まる。


 いま、なんと。

 言った。


ぴたりと同時に二人の動きがシンクロして、視線が合わさる。
ただしその後の動きは共鳴しない。

「なんちゅう、ことを」

陸奥は小さなモーションで見事に辰馬の鼻っ柱を拳で見舞ったのである。

辰馬はぎゃぁと言う声を上げ、陸奥も同時にしまったと思ったがやってしまったものは仕様が無い。
というかこれは正当防衛であろうとさえ思う。

年頃の娘に向かってその一言はないだろう。
しかしその年頃の娘が大の男を殴りつけることはどうかということは棚上げにするとしても。

辰馬は尻餅を着き、陸奥はその前に拳を振り上げ仁王立ちであった。
事と次第によっては行きがけの駄賃とばかりにもう二三発見舞わねばならぬかも知れぬと陸奥は物騒な事を考える。
辰馬は一瞬放心していたが、ぷっと吹き出し高らかに笑い始めた。


「あっはっは、おんしほがぁな顔も出来るながか?」


奇跡的に火の消えなかった提灯を目の前にすぅと差し出された。
照らされた顔がどんなものか判らないが、辰馬は灯りに照らされた陸奥の顔を見てまた笑い始めた。

「えぇもんばぁ見さしてもろうたのう」

膝に手を置き立ち上がり、いやぁ重畳とまた歩き出す。
殴った本人はしまったと思ったのだが謝る隙すら貰えない。
光源を持つ辰馬の顔は殴られたの笑っており、陸奥が追いかけるのを待っている。

「皆ワシをおっかなびっくり触りよる」

後継者だの、乙女の弟という肩書きは彼にとって何の意味も持たぬようであった。
けれどもそれはどこでも着いて回る。宿命といっても然るべきものだがそれでは困るのだという。
しかしながら回りの反応も判らぬでもない。

「皆は坂本殿を乙女様の間者だと疑うて居ったのですよ」

陸奥は漸く若旦那と言う名称を改める事にしたらしい。
不満は残るが辰馬はあえて訂正はしなかった。
何よりさっきの殴りつけた顔が、歳相応の恥じらいを持った娘に見えたのだ。
まあ見事な右のストレートの一件は娘相応かという事はさておき。

「間者ァ言うたらスパイの事がか」

皆は辰馬の出現が先の事件と関連しているのではないかとか、
乙女自身が間者を放ち、産業スパイや横領の発生を未然に防ぐのでは等と好き勝手な事を想像していた。
まぁ、田舎であるので話題が少ないのも理由の一端を担うのかもしれないが。
辰馬は陸奥の意外な言葉に驚き、唸った。

「しかし、陸奥よ。スパイゆうのんは賢いものがするんじゃァないなが」
「えぇ、だから疑いが晴れたのでしょう」

間髪入れずそう返した。
しれ、と答えるとその答えに満足したのかまた辰馬は愉快そうに笑い出す。

「おんし、なかなかいいよるのお」


陸奥はその答えに満足して笑う辰馬を見て微かに笑った。













4








「最近、弟君とあの娘は仲が宜しいようですね」

執務室、午後の昼下がり。
取引先との昼食から帰ってきた乙女を秘書が出迎え、お茶を出した矢先の話である。
男伊達らに茶を入れるのが上手い秘書はきりりとした涼しい眼を乙女に向け、
留守中あった用件などを手短に伝えた後そう云った。

「あァ陸奥の事なが?」

最近二人はよくつるんでいるのか、話をしているところを見かける。
時折だが、食事も一緒に出かけることもあるようだった。

「釘を刺されたほうがよろしいのでは?」

何の為に、と碗の蓋を開け茶の匂いをかいだ。

「いずれ後継者となられる方が一職員と親しくなるのは余り喜ぶべき事ではないのではと思ったまでです」

乙女は秘書の物言いに高笑いで返した。

「それを聞いたら陸奥が気を悪くするがでよ」

乙女は辰馬を後継者にするとは誰にも言っていない。

寧ろアレを何故後継者に皆が押すのか、
血縁という理由がその一番を占めるのであろうが今の所そういうことは考えてはいない。
何しろ、死んでいるものと思っていたのでそんな考えすらないのが乙女の中では大きい。
そして辰馬自身も後継者の役など考えてもいないだろう。
アレのやりたいことは、他の事なのだ。

ただ、公言しないのも撤回しないのも、
成り行きに任せてみるというのもいいかも知れぬと思っているだけである。


「おんし、最近あの部署の雰囲気が変わったとは思いやせんか?」

乙女の考えは時折読めぬ。
時折天才的な読みを発揮するが、それも過去の経験に基づく経験則というものであることは秘書も判っていた。
さらに人間を観察する事に関しては女だからなのか第六感としか思えぬような事を言うが、今回はそのどれであろうか。

「あの事件以来ピリピリしよったが、薄まってきちゅうにかぁらん」

確かに先の横領事件は表立った事件にはなっていないものの、社の中に不穏な空気を振りまいたのは事実である。
特にあの部署では一人の計画なのか複数なのか、疑心暗鬼になった事は言うまでもない。

「アホが一人おるから和んじゅうのかと思ったがぜよ」

最近はいつ行っても皆にこにこして仕事をしちゅう、乙女は秘書にそう云うとお茶を一口飲んだ。
萌える抹茶が喉から鼻に抜けていく。

「おんなじ様にの、陸奥も変わってきちゅう」

いっつも仏頂面だったのが十回に一回くらいは笑いよるのよ、
見たことあるかと尋ねたが秘書はさぁと首を振った。

「乙女様は、あの娘の事を少々気に掛け過ぎでは。贔屓目に見られて居られませんか」

秘書は神経質そうな眼光を乙女に投げかけた。
眉間に皺が寄り快く思っていないことを隠そうともしない。

「ほうなが?」
「えぇ、私の目は他の者の目と言う事をお忘れなく」

堅苦しい男じゃのうと乙女は思わず口に出した。

秘書は嘗ての乙女の嫁ぎ先、お店の次期番頭になるはずの男であった。
筈、と言うのはそうなる前にお店が廃業した為である。
実家に戻って家業をしていた元同僚をこの世界に再度引きずり込んだのは乙女自身であった。

男の癖に着痩せする身体付き。役者のように美丈夫で仕事は飛びぬけて出来たが堅物である。
歳は乙女と同じくらいだが、どういうわけか嫁も貰わず今此処で秘書という仕事に甘んじている。
眼が悪い所為かいつも眉間に皺を寄せ、口は乙女より悪く、舶来物の眼鏡の奥の眼光は鋭い。
経営者への苦言も辞さぬこの男を乙女は嫌いではなかった。

「アレは、あし自身のような気がするがで、目を掛けてしまうのかもしれん」
「陸奥と乙女様は似ても似つきませんが」

間髪入れぬ、というタイミングであった。
確かに陸奥は背も小さければ華奢で十六になろうかというのに痩せぎすで娘らしさの欠片もないほどである。
一方乙女は背丈も尋常ならざるほど大きいが、恰幅のよさも抜きん出ている。

「口の悪い男じゃの、おんし」

流石に女心が傷ついたのか秘書を睨んだ。

「正直者で御座いますので」

秘書は悪びれもせず頭を一つ下げた。
毒舌など屁とも思わず、乙女は話を続けた。


「おんし、紀州のお家騒動をしりゆうか」
「お取り巻きが先代の隠居を画策し、御従弟様を当主にしようとした事件ですね。
 御三家の揃い踏みを崩そうと画策したと言う話ですが」
「そう、結局目論見は大目付の知る所となって家老の一人が詰腹を切らされた話じゃ」

それが何か、秘書は尋ねた。

「その詰腹を切らされた家老が陸奥の父上じゃ」



「なんと」



紀州と言えば嘗ての徳川御三家の一つである。
もうそのものには威光も無い唯の麗しき過去に過ぎないが、やはりその名を聞けば今もかしこまる程度の威力はある。
陸奥の父は嘗て紀州の家老を勤めていたが、攘夷戦争の始まる前夜、
御国の有事と言うのに三百年の太平の世で戦の何たるかも忘れた家臣たちの手で起こされた謀反に巻き込まれた。

「御一新の時、江戸城を開場するか否かで揉めた時、御三家は揃い踏みで戦に向けての準備をしておった」

しかし、当主は戦には乗り気ではなかった。

「戦になれば民草が焼けるゆうての」

家老の一人はその当主の声を伝えるべく奔走したという。
如何ともし難い国力の差を何で贖うのかと、人の命で贖うのかと戦への準備を続ける家中の者を一括した時、
そんな弱腰でどうすると、誰に焚きつけられたか紀州の革新派がその家老を非難した。
だがその裏には三百年越しの戦による武勲での出世や立身の目論見もあったという。

そんな中、当主が不意の病を得て寝付き代行職として従兄弟がその任に着き、そのまま代替わりしてしまった。
当主は子供の頃から病気一つした事の無い健康体であったのだが、病を得て一月後帰らぬ人となった。

真偽の程は分からない。

しかし、有事の際このような事態を招いた責任は大きいと、家老の一人が監督不行届きという名目で詰腹を切らされた。
それが陸奥の父上である。

お家断絶と言うまでには至らなかったが、碌はなくなり家は困窮を極めた。
幸い働き手の兄上三人がいたので苦しいながらも食い繋いでいたが、戦は開戦。
陸奥の兄は三人居たが武勲での名誉回復を願い次兄三男が相次いで出征した。
しかしながら圧倒的な力の前に一年後に戦死を遂げる。

長兄は尚も母と幼い妹を守るべく家長たろうとしたが、
憂国の志が捨てきれず母と妹を母の実家へと送り届けたあと出征。

しかしながら詰腹を切った夫の名は嘗て「ご立派なご家老」でったのに対し、
今では「当主を弱腰に唆した大悪党」となっており親子は実家に居ながらも針の筵であった。
開戦後、幕府は総力を挙げて蜂起したが結局敢え無く開国。
戦争を放棄して事実上終戦となったが、実家での生活はさらに困窮を極めた。

母子は戦火に追われたのと同時に実家を出なければならなくなり、
各地で勃発する戦火を逃れ、母子はあちこちを放浪したが暮らしは一向に楽にはならなかった。

土佐に流れ着いた頃にはお菰さんと呼ばれても可笑しくない身なりで、裏口から各家を回り食べるものをといったことは数知れなかったという。
扉を閉められるだけならまだいいほうで時には台所から物を投げつけられたりした事もあったのだと後に聞いた。

乙女が母子に出会ったのは、その道程の乞食行さながらの途であった。


「あの日はそう秋も深まっておって、昼間と言えど肌寒い日じゃったが」


嫁ぎ先から投げる様に離縁され家に戻っていた乙女は、困窮する我が家の窮状を打開すべく商売を始めようとしていた矢先であった。
商売をしようと思ったのは戻ってすぐである。
父一人の家は荒れており、田畑を処分してもそれには追いつかぬようであった。
その日は商いの為遣り様と資金繰りを相談しに旧知の商家に相談へ行っており、かなり遅い昼食を台所で一人取っていた。

御免くださいという声に振り返ると、御勝手から声がした。
母子二人連れの旅人のようであった。

「御母堂は気の毒なくらいにやつれちゅうし、子供の方はどこを見ちゅうのか判らぬようなぼんやりした顔をしよった」

しかし何処か気品のある顔で、深々とお辞儀をするとそのままこの子に何か食事を頂戴できませんかと細いながらもきちんとした言葉で言った。
その物言いは今の姿に似合うような卑屈なものではなく、礼儀正しく何処かで教育をきちんと受けた女性のものだった。

「昔はきれえじゃったろうにと思わせるような面立ちやった」

乙女は回想するように首を傾げ、天井を見上げた。

「お上げになったので」

あぁと頷き続けた。


何もないがと湯漬けと漬物を膳に出すと、
子供は合掌してそれを貪り食ったが、母親はそれを嗜めみっともない真似をするものではありませんと一括した。
御母堂は一向に手をつけず一飯の恩を深謝した。

やはり、と乙女は察した。


「どちらから来られちゅうか。この辺りの人じゃないがにかぁらん」
「紀州で御座います」


戦でと聞けば、戦火に追われ追われとだけ述べた。
窮状を具体的には口にはしなかったが、その細い声は生活に疲れ果てただけのものではないと感じた。


何処か、あてはと尋ねれば、妹の嫁ぎ先を尋ねたのだがと心細く笑った。
後に続く言葉は無く、それが無駄であった事を物語る。
此のご時世、母一人子一人で何故遠い土佐まで流れている理由は判らなくもなかった。
戦火にお上が変わるという時期、夫が戦に取られたか、或いは亡くなったか。
心細い身の上である事は言うまでもない。

踏み込むのは少々躊躇われたが何か話がしたかった。

「これからどうなさるがかぇ」

答えは無く、その沈黙が死を予見しているようで乙女は息を止める。
母御は子を見ると口唇を震わせ一瞬目を伏せた。

「他言無用にございます」

やつれた面を上げ、乙女に向きなおった。

「紀州の、お家騒動をご存知ですか」



御母堂は洗いざらい話した。
もしかしたら誰かに聞いて貰いたかったのかもしれない。
夫の罷免、詰め腹を切らされた経緯、息子達の戦死、一族からの離縁。
波乱万丈とも云える数年間を、波が打ち寄せるように訥々と話した。
乙女は口を挟まず、ただ黙って聞いた。

話し終える頃には赤い西日が差し始めていたことを、強烈に覚えている。

話が終わった後、子のお代わりをついでやり母御に白湯を出した。
これを最期の食事にする気だったのやも知れぬと乙女は想像し、
ぞっとしながら明日の事を聞くのは躊躇われた。

二人が箸を置き、深々と礼をして辞そうとしたときその背に声を掛けた。


「風呂、いかがですろー」





「風呂までですか」
「そのあと一晩泊めたなが」

呆れる秘書を尻目に更にそう付け加える。

「どうして?」

同じことを訊かれた事を思い出す。

「あしの母が」


此のお勝手を出た後、母子はどうする気なのか。今日の宿さえ判らぬ身の上で、明日のことすら判らない。
母御は振り返り何の期待もしない虚ろな目で此方を見ていた。

「母が生きておれば同じ歳くらいであろうかと思っただけですき」







「もしかしたら此処が戦場になって、
 母がまだ生きておってあぁして連れ歩かれちょったがのは自分じゃったかもしれんと思ったら、
 なんとも二人が気の毒になったがやか」
「それだけの理由で」

理由などそれで十分だった。
此処で二人救ったとてなどと云われやも知れぬ。
坂本の家も逼迫しているし、此処で何の縁もゆかりもないものを抱え込んでどうするのかという思いが無いわけでもなかった。
だが此処で「それでは」と別れたならば。

追想することでしか母の顔を見ることは叶わぬ乙女は、二度母を失うような気さえした。

「それだけじゃ」





「ほき坂本の家に部屋を用意して、母御に手習いの仕事を見つけたがやき。
けんどその娘が来てこうゆうた。自分もなんちゃーするき、何か仕事を世話してくれんかと」

子供は風呂に入り髪を整えれば女の子であったとそこで始めて判った。
歳は十二と聞いたが発育不良なのかまだ七、八歳程度にしか見えず、娘らしさの欠片も無いほどであった。
取りあえずまぁ女中でよければと初めは家の事をさせておった。
しかし乙女の仕事が忙しくなるにつれ、家の事だけではなくちょっとした遣いや留守番なども頼むことにした。

「おんしを口説き落とすちくと前に、あしの仕事を手伝うてくれたのはほかでもない陸奥やか。
此の仕事を始めちょったがばかりじゃったがで、まぁ子供の遣い程度と思ってな」

ほんの数年前のことなのだが、今思えば遠い昔の事のようだ。
此の数年で事業の拡大に収益は何倍にも膨れ上がった。

「女中を一人雇う程度と思えばいいかと思ったがぜよ。けんどあの娘は、なかぇか聡いところがあって」





「取引先の家族構成やら好物やら皆頭の中に入っちゅうんぜよ」


連れ歩いて手土産を買うたが、いっさんゆうた事はそのまま頭に入るらしいきに、
乙女は始めてそうと判った日のことを思い出す。
気難しい取引先への詫びの好物の土産のメモを無くした折、
陸奥の前で社名とその名を口にするとすらと答えたのである。
メモの在り処を知っているのかと聞けばそうではないと言い、
以前乙女様がお持ちした時大変慶ばれたとそう仰っていたではないですかと言った。
とはいえ一年以上前のことである。

乙女はその利発さに舌を巻き、女中では勿体無いと思い始めたのはその日である。


「乙女様仕込、というわけですか」

秘書は意外な接点と、陸奥というあの娘に対する印象が大きく変わったことを自覚した。
なるほどなと、上司が今まで黙っていた理由も判った。
売名のような気がして今の今まで黙っていたのであろう。

「それならばあの娘の有能さやらには合点がいきますな」
「口が上手い男は嫌われるぞ」

乙女はくるりと椅子を回して秘書に背を向けた。
豪胆なくせにこういうところはシャイなのがこの人の人好きのする理由だろうか。
恐らく自分がそこに惹かれるのと同じように。




「正直者でございます故」





5






「被害者五十名を越す、か」

誰も居らぬ談話室のソファに腰掛けていた陸奥の背後からそう声を掛けたのは辰馬である。
陸奥は持っていた新聞の一面の見出しを、そうと読んだだけの同僚に声に驚き振り返る。

「なんじゃ、坂本殿か」
「辰馬じゃ」

日に一度は訂正するのはもう皆が知る遣り取りである。
事実部署の皆は辰馬さんとか坂本さんとか軽く呼び合えているのだが、
陸奥だけは相変わらず堅苦しく「坂本殿」と呼び続けている。

十時半に一度ある十五分の休憩に、新聞を読むのが陸奥の日課である。
社内にいくらかある談話室の内、社長室に程近い此処は禁煙であるがゆえ人が寄り付かぬ。
自分の部署にも程近いので陸奥は重宝していた。

その隣に辰馬が居る事は珍しい。
大抵此の男は女子社員を捕まえて他愛の無い話をしていることが殆どなのである。

紙面は京で規模の大きいテロが起こったと伝えられていた。
江戸に遷都されたと言えど、1千年以上もの首都での暴挙は大きく写真入で取り上げられていた。
どうやら新政府主催の式典が行われており、それに出席する要人を狙ったもののようだった。

辰馬は陸奥に座り紙コップのお茶を差し出した。
自動販売機の熱いだけが取り得の安いお茶だが、一服するだけなら事足りる。
辰馬は陸奥の隣に座り新聞を横から一瞥すると、視線を逸らしお茶に口をつけた。

「戦なんぞしよったらこん国は荒む一方じゃ。
田畑も荒れる。食うもんもそれを作るモンも居らん様なってますます国力は下がる一方なが」

式典に参加していた幕府要人の内三十名が死傷、民間人五人が犠牲。
尽忠報国と叫び雪崩れ込んできた浪人は五十名程度。十名の死亡を確認、身元の特定は困難。
火気等を所有しており入手経路の特定を急ぐ。

「今更言うたち天人を退けられはしやーせんろうしお上もバンザイしまっちゅう」


 身元の特定は困難。


陸奥は紙面の死傷者名が列挙されているところから目を逸らした。

「あん戦に行く様なのは命を捨てに行くようなもんろー」

陸奥の眉がぴくりと動き、新聞を掴む手が震え真っ白に染まる。


「辰馬殿」

その時、不意に声を掛けたのは乙女であった。すぐ後ろにいつも従えている秘書の姿も見えた。
ここに居る事はなんら不思議はない。
彼女の執務室は廊下を隔てた斜向かいである。
陸奥は新聞を畳み、すぐに立ち上がって一礼した。

「陸奥、ちくと此の馬鹿と話をするがで席を外してくれやーせんか」

休憩時間は後十分以上あったが失礼しますと陸奥は立ち上がり、乙女の脇からするりと外へ抜け出た。
辰馬は座ったまま乙女を目だけで見上げた。

「辰馬」

乙女は秘書に入口に立っているように目だけで合図し、彼もそれに習った。
姉は弟の目の前に座ると、きっぱりと言う。

「此処でそういうことをゆうのはやめや」

辰馬は持っていた紙コップをテーブルに置き、姉の目を見た。
姉がこういう言い方をする時はガキの頃は決まって恐ろしかったものだが、今はそう感じない。
ただその目があまりに真摯で、哀しい訴えをひしひしと感じた。

「お父上や兄上様、弟君が戦に行ちゅうもんもおる」

あの陸奥もな、と先ほどまで陸奥が居た場所を辰馬は見た。
畳まれた新聞が先ほどの見出しを憚ることなく伝えている。

「兄上二人がはや戦死されちゅうが。一番上の兄様は今も行ったきりだそうやか」

辰馬は新聞を取り戦死者の欄を見た。
列挙される名を目で追うが、幕吏の欄だけで続きを追うのは止めた。

「お父上は?」

姉の真意を漸く察し、声を落とした辰馬は表情も変えず尋ねた。

「亡くなられちゅう」

余り大きくは無い目を見開き、息を呑む。
一度だけ瞬きをして、深呼吸。

「戦で、ではないが。間接的にはそうなのやもかもしれんちや」

戦の話は毎日のように新聞で伝えられる。
戦死者の名が載らぬ日はない。
どんな思いで、毎朝新聞を眺めているのか。

「しもうた」
「まっことじゃ、馬鹿者」


陸奥が口もつけなかったお茶からはまだ暖かい湯気が出ている。
白い霧のようなそれは、冷えた空気に消えていった。





*





陸奥は相変わらず冷たい顔のままであった。

先だっての事で辰馬は陸奥にそれとなく謝る機会を窺っていたのだが、
良くも悪くも陸奥は平常時となんら変わらず愛想も無い世辞も言わぬ「陸奥」のままであった。
生憎、辰馬自身も取引先へと連日顔を出す事になったり、
不意の来客に忙しく陸奥とは顔を合わせない日が続いた。

大抵社に戻ると陸奥は居らず、机の上に残っている几帳面な字のメモが残されている。
不在時の電話連絡、懸案事項を纏めたファイルの在り処、報告書の訂正箇所。
事務的な記号の羅列を眺めながらその字を目でなぞる。

間違ってはいない。
戦場を離れたのは理由がある。
寧ろ自分が今から赴く場所こそ、自分にとっては新たなる戦場になるのだとさえ思っている。

 けれど。

間違っていないからと言って人を傷つけていい免罪符にはならぬ。


「困ったのう」







そう考えていたある日。

取引先との会合を終え、遅すぎる昼飯を食い事務所に漸く戻った矢先である。


ただいまぁと暢気に部署の扉を明けようと扉に手を掛けた瞬間、
何の抵抗も無く扉が開きどんと誰かが胸にぶつかった。
その勢いによろめきながら、その塊が陸奥だという事にすぐに気がついた。

「なんじゃ熱烈な歓迎ぶりじゃの、嬉しいぜよ」

そんな軽口を言った。
しかし辰馬を仰ぎ見たその目はどういうわけか怯えに満ちており、
即座に目の前にある胸を押しのけると陸奥はぶつかった事を謝りもせず長い廊下を駆けた。

「どうしたが陸奥、今日ははや終わりなが」

走り抜ける背にそう声を掛けたが振り向きもしない。
なんじゃぁと廊下を曲がり消えた背に呟いた辰馬は、
首をかしげながら事務所の中を見ると何故かしんとしておりいつもと空気が違っていた。
普段なら事務職の女性の何人かはお帰りなさいと声を掛けてくれるが今日はそれも無い。

「どうしたがなが、みな」

皆は微動だにせずその目は哀しくそぞろで、幾人かは俯いて鼻を啜り上げた。
その中で唯一動いた者を見た。姉であった。

どうした訳でここに居るのかは判らなかったが、唯一まともに口が利けそうな風であった。
姉上さま、陸奥はどうしたながと尋ねれば、屹した目が此方を見る。

「丁度えい、おんし、あしの仕事を手伝いや」

そのまま猫の仔を掴むように襟首を持たれて事務所から引っ張り出された。
なにゆえ、と尋ねる暇も無い。

「今からはあしが直々に教えちゃる」

今先程の皆の目のそぞろだった事など吹き飛んだ。
足先から頭の先まで一瞬で粟立つ。

「い、いややか、姉様はすぐぶん殴るき」

幼少の頃のあの恐ろしい記憶が甦り地団太を踏むように抵抗するが、
乙女は全く意に介さずそのまま部屋から辰馬を連れ出した。

「陸奥も他の奴もおんしを若旦那と思っちゅうから、殴るのはあししか居まい」

いやじゃぁいやじゃぁとまるで子供が医者に行くのを嫌がるか如く叫び声が、
まどろむような午後の長い廊下に響いた。








定時を少し過ぎた頃、来客のお蔭で姉の下から漸く逃げ果せた辰馬は、
今日はもうえいと言われ放り出された。
これ幸いと部署に戻ったが既に誰も居らず仕事をする気も起きず、
精神的疲労も相俟って今日は上がる事にした。

「姉上はほん超スパルタじゃきかなわんちや」

家に帰ればまた小言と未だに覚えきれぬ仕事の様式やらの事で不様な事をと言われるに違いない。
出来ればもう少し何処かぶらぶらして帰りたいと、家とは逆方向をそぞろ歩いた。
よく考えれば何処かで飯でも食べて帰ればいい話なのであるが、
うっかりいつもの癖で財布も持たずに来てしまった。
懐にあるのは小銭が少しだけである。

暮れかけた夕日が美しい日であった。

鱗雲が西の空に畳むように続いている。
河川敷沿いをふらふらと歩きながら、秋の夕暮れを眺めた。
彼岸花が道端に咲き、薄がゆっくりと風に揺れている。

 夜が来る前の一日の終わり際。

黄昏に舞う蜻蛉の群れを目で追いながら、おや、と河川敷に一人居る人物に目を留めた。
陸奥だ。


おおいと叫ぶが、ごうごうと流れる川の音に掻き消されているのかこちらを振り返りもしない。
土手から滑るように陸奥の元へ近寄った。
何しゆうがかよ、と呼び隣に並ぶ。

「坂本殿」

辰馬でいいがやき、そういつもどおりの応酬。
少し俯いたまま此方を見もしないので、ひょいと顔を下から覗き込み驚く。

 昼間の事を不意に思い出した。

突然飛び出して言った陸奥は、出勤の時に下げている風呂敷包みすら持っていなかった。
怯えた眼が此方を仰ぎ、一つに結った髪の毛がぴしゃりと鼻先を掠めて振り返りもせず駆け抜けた。
今の今まで忘れていたが、あの時の目は一体何に怯えていたのか。

ただ、今それを問いただそうとする気は起きなかった。
目の縁は赤く、瞳が濡れていた。
今しがたまで泣いていたのだと、辰馬にさえ判った。


「どうか、したがか」



顔を覗き込むのを止め、辰馬は陸奥が見ているものを見た。




 血のように赤い落日。

 帰り行く人たちの長い影。

 葦がなびく。

 濠とうねる川面。

 風に流れる雲。

 揺れる薄。

 赤い彼岸花。





秋の風は少し冷たく乾き、互いの髪を揺らし袖を翻めかせる。

陸奥は
じっと何処かを凝視しているようで、どこも見ていない。
それを探すように辰馬は彼女が探しているものを求めた。

うちへ帰る人たちの影にか。
西の空で啼く鳶にか。
赤蜻蛉の羽ばたきにか。

けれど見つからなかった。


随分長い事黙っていた。
秋風が頬を冷やし、髪を弄り、その眼が乾いた頃、小さな声が辰馬の耳に届く。

















「兄上様が」


「死んだ」

















はたはたと着物の裾が靡く。
旋風がすぐそこに舞っている。
笛のような風の音が、背中を通り過ぎた。

ゆっくりと瞬きをすると、目蓋の裏に緋が燃えた。
燎原を飲む火の熱にも似た赤。




あしが家は終わりじゃ、そう陸奥は俯き肩を震わせた。
横顔を長い髪が叩きはらはらと風が攫い草はらに消えてゆく。


「おんしが居るがやかないか」


辰馬はごく静かに言った。

「あしは女じゃき」

後は継げん、陸奥は小さな拳を握り口唇を引き結ぶ。
まるで震える肩を見られたことを後悔する様に。

「関係ないろー。命が続く限り血はのうならん」

辰馬は草原に座った。

川面は赤く染まり無遠慮に唸り流れる。
この先の海へとすべてを押し流している。
堰きとめようが、その強い力に何もかもが飲まれるような圧倒的な流れとうねり。



「兄上は戦へ行ったがかぇ」
「はい」

赤い西の火が網膜を焼く。
思わず目を眇めた。



いつか見た景色。

いつであったか、それをはっきりと思い出すことが出来る。



 訃報欄、戦死者名、その名を。



目を閉じたい。
この世界から眼を伏せてしまえば。




 けれども辰馬は目を開ける。
 乾く眼球に焼き付ける。




 赤い夕日を。


 薄の焼け野原を。


 戦友の長い葬列を。








       もう、やめてくれ。









「あん戦ははや死にに行くようなもんじゃ、あがなものの為に死ぬのはアホじゃ」




秋の風の狭間に聞こえた声に陸奥の血が沸騰する。
すぐ後ろに居た辰馬の襟首を掴み拳を振り上げ振り下ろす。
反動で後ろに反った男に即座に跨り、落ちた頭を乱暴に持ち上げるよう衿を掴みあげた。


「戦からおめおめ逃げ帰ったような奴にうちの気持ちがわかるんか、わからんやろ」

 至近距離、十センチ。

「父上は戦に反対されて家中から罷免されたんじゃ」

 相手の目の中に己が映る。

「兄上達は腰抜けと蔑まれ、汚名を雪ぐために戦へ行った」

 私の目の中に相手が映る。

「うちは連れてっては貰えんかった。うちだってどこへだって行けたのに、女だから、子供だから」







 毎日載る戦死者の名。

 兄の名を探し、いない事を知り安心する。

 同時に明日載る恐怖が襲い来る。

 今どこでどうしているのか。

 何も知る事の出来ないはがゆさ。

 それでも祈り続ける事しかできぬ無力さ。
 






「皆言うとる」



陸奥は息を吸い込む。
胸の奥の底なし沼から這い出す黒い言霊が、身の内を焼くように迸る。




「坂本の馬鹿息子は意気揚々と飛び出して行ったけど戻ってきおったゆうて」

  あなたは何がしたいのかと問えば、此の国を守ろうと思うと言った。

「根性なしじゃ、戦場から逃げ帰ったゆうて」

  私はそれを信じなかった。

「なんじゃ、お前は悔しゅうないんか!」

  どうやってと聞いたら、笑って言った。

「戦にも行かずこんなところで管巻いてるような連中に後ろ指指されて」

  誰も傷つかずに済む方法で、と言った。

「安穏と暮らしている奴等に笑われて」

  私はそれを信じなかった。

「お前は口惜しゅうないんか!」






 何も見せて貰っていない人間の何を信じろというのか。

 口先だけなら何とでも言える。

 お前が持つ何かを見せろ。






「お前のような奴に」


 声が震える。


「死んでいった人間の気持ちなんぞ分かってたまるか」


 ずっと長い間堪えていた。



 はたはたと。
 大きな真珠の粒のように、
 辰馬の顔にゆっくりと降る。




 見えない手に、握りつぶされる様に奪われた父と兄の命に。

 このような供物など要らぬと知ってはいても。



喉の奥から、込上げる塊が堰を切る。
奥歯を噛み、息を止める。
ひっ、と小さく息を吸い込み、
辰馬の襟首を掴んでいた手に、顔を埋める様に首を下げた。






止めようとしても止まらぬ涙が。


溢れた。









陸奥の手が放れ、辰馬の頭はそのまま草原の中に落ちた。
空がとても高い。蜻蛉が飛んでいた。


 どうして。


寝転びながら茜色の景色を眺める。
見えるのは空と、蜻蛉と、俯き泣きじゃくる陸奥だけ。






 一秒たりとも同じ形で無い雲。


    風で千切れては、姿を変え。


 一日の終わりを彩る夕焼けの赤。


    紫紺と橙、赤から黄色のグラデーション。


 嗚呼、薄い月の影。


    東の空、迫る夜から来る。


 秋の花、萩、女郎花、弔いを。


    金木犀の香り、枯れ草の匂い。






 なぁ、どうして。














 「誰か」の大事なものを失った日なのに。




 世界はなぜこんなにも残酷に、今日も美しいのか。










右腕を伸ばした。
指先に俯いた陸奥の背が触れる。
その肩に圧し掛かる重みを貰うように、小さな頭を自分の胸に押し付ける。
一瞬、陸奥は身体を堅くしたが、お構いなしに引き寄せた。
陸奥の声が一瞬押し潰され、その後弾むような嗚咽が勢いを増した。













殴りつけられ、馬乗りになられて、暴言を吐かれて。
しかし辰馬は今しがたのその暴挙よりも、息を止めた陸奥の顔に驚いて声も出なかった。

まだ十六だとゆうちょったが、なんと気の強いおなごろう。




陸奥の肩は震えている。
嗚咽にふるえ、怒りに奮え、父を、兄を奪った世界に震え。

陸奥は俯き、一度放した衿をもう一度きつく握り締める。
揺さぶられようが構いやしない。

だが陸奥は掴むだけでそれ以上何もしなかった。
ただ、寄りかかれる何かを探しているようにも思えた。





辰馬の手は陸奥の小さな頭をしっかりと包む。
長い陸奥の髪が、指に絡まり擽った。
それを梳く様に撫でてやれば、ゆっくりとその嗚咽を宥めてやれるような気がした。
胸の上に温い涙と、彼女の吐く息の熱さが零れる。



どのくらい、そうしていたのだろうか。
激昂の嗚咽が収まり、小刻みに震えていた肩が次第にゆっくりと上下する。


「まぁ」


陸奥の頭を抱いたまま、肩を撫でた。
その動きに呼応するように、震えは収まり漸く陸奥は嗚咽を止めた。



「ワシはなに言われてもえいがやけど」



指の間を滑る髪が風に攫われた。
惜しむように、何も掴めていない手を眺めた。










「往来で男の上に跨るのは、ちくとはしたないき」


ぴくり、と肩が動き飛び退くように起き上がる。

陸奥が初めて辰馬の顔をまともに見た。

女の涙が美しいなどと誰が言うのだろう。
涙と鼻水に濡れて、お世辞にも美しくは無い。
だが、先ほどのような胸を掻き毟られるような哀しい顔では無かった。


「ほがぁに跨りたいなら、今度わしの閨に来て跨っとおせ」


追い打ちを掛けるようにそう云うと、慌てて辰馬の腹の上から飛び降りた。

此の間のように拳骨の一つでも飛んでくるかと思ったが、流石にばつが悪いのかぺたりと座り俯いた。
辰馬はいつものように大仰な笑い声を立てて立ち上がり、懐から手拭いを出して陸奥の前にしゃがんだ。

「別嬪が台無しぜよ」

垂れ流した涙と洟を拭ってやろうと手を伸ばす。
自分で出来ると洟を啜りあげたので、それを渡して立ち上がった。

くるりと周りを見渡すと、道行く人々となぜか目が合った。

こりゃあ、噂になるかもしれんなぁと首を掻いた。
まぁその時はその時かと渡された手拭で鼻やらを啜る陸奥を見た。


「人が見ちゅうがやき行こう」


屈んで手を伸ばすと、陸奥はその手を取った。
いつもなら結構、とでも言って自分で立ち上がろうとするだろう。
小さな手を掴み背を逸らして彼女を引き上げる。
立ち上がった瞬間手を離されたのを名残惜しく思いながら辰馬は先に立って歩く。

「家まで送ろう」

人も空も流れ始めた。
秋風に背を押されるように河川敷を少し離れて歩いた。
長い影を踏まぬよう、陸奥は夕日に縁取られるその背を眺める。


「二度も、ごめんなさい」


聞こえぬかとも思ったが、辰馬は足を止めて振り返る。
顔をあげ、目を細めた。


「まぁ、半分事実やき」

ほがな事ははやえいがやいかと、
柔らかそうな笑みを浮かべ懐手で顎を一つ掻いた。


「ワシもじゃ」

謝る、すまん、許しとうせ、そう云って頭を下げる。

侍は人には謝らぬものでは無いのかと思うが陸奥は黙ったまま頭を下げた辰馬を見た。
何を謝るのか。
陸奥は首を振り、いいえと言ったが声にはならなかった。

「じゃがのう」

少し困ったように首を傾げ鼻先を掻く。
一度目を伏せもう一度陸奥を仰いだ時、
いつもの腑抜けた顔は何処かに消え失せ妙に吃とした声を投げた。

「陸奥も間違っちゃーせんし、ワシも間違ってはいやーせん」

真摯な眼差しは陸奥を揺さぶる。
いつものへらへらとしただらしの無い口は閉じられ、
夕暮れを背に真正面から見る姿はまるで別の男のようであった。



「ほやき此の話はもう仕舞いじゃ」


陸奥は返す言葉に詰まり、ただ頷いた。
不意に人好きのする顔に戻り、それならええと同じように辰馬も頷く。
いこうと辰馬は陸奥を促し、彼女が近寄るのを待った。
彼女の足がゆっくりと動き、隣に並ぶのを待ちまた歩き始めた。



眩しいのぉと辰馬が夕日に目を眇める。
陸奥の涙は、もう乾いていた。




*







此の間、陸奥を送った時は大通りで別れたので辰馬は家を知らなかった。
もう此処で結構と言われたので辰馬は陸奥が細い路地を入ってゆくのを見届けただけである。

市井のごみごみとした裏店の長屋が、陸奥とその母の住まいであった。

彼誰時、忌中の札が張られてはいるが入口には灯明も燈ってはいない。
扉を開け、只今戻りましたと告げると線香の匂いが鼻を打つ。
喪の家の匂いだ。

土間が二畳、手前に三畳、奥に一間ある粗末な長屋住まい。
半分ほど開いた色褪せた障子の奥から御母堂らしき人が顔を覗かせた。

「こんなに遅くまで、どこへ…、」

少々非難めいた声は陸奥の後ろに立つ大男に目を留めたことによって止んだ。
するすると音も立てずささくれた畳を歩き、鷺のような所作で座る。

「陸奥、どなたでしょう」

御母堂は美しい人だった。

若い娘の誰しもが持つ迸る様な美しさではなく、滲み出る品のある面立ち。
顔色は青白く病がちそうで此の度の件で少々面窶れはしていたものの、
髪をしゃんと結いあげ藍墨茶の着物を着ていた事で清貧さに磨きがかかり美貌がいっそう際立つ。


陸奥が紹介する前に辰馬は首を下げた。

「陸奥殿の同僚の、坂本辰馬と申します」

御母堂はほっそりとした首を上げ、美しい姿勢のまま来客に楚々と礼をした。

乙女様の弟君、でしょうか、鈴の音のような声でそう問う。
陸奥のきりりとした眉と目は母譲りなのだなぁと思いながら辰馬ははいと頷いた。
わざわざ送り届けてくださいましたかと、母御は恐縮するような礼を述べた。

「このたびはお気の毒な事でございます」

最後の息子を亡くした事を知りながらも悲嘆を表面に出さぬ。
陸奥の訛りが此方のものでない事を不思議に思い以前姉から少し聞き及んでいたがいていたが、
母御は武家の女らしく落ち着き払い、凛としたまま辰馬の口上を聞く。

「宜しければ憂国の士の御霊に線香を上げさせては頂けないろうかと思い参上いたしました」

母御は恐縮至極と云った体で礼を述べ、お構いなど出来ませぬがと促した。
陸奥はすと其の身をよけ辰馬を通し、自分も続く。

白い布を被せた小さな台に灯明が一つ灯されており、線香がゆっくりと燃えている。
白檀の香りが傍を通り抜ける。
遺骨も無い、唯一戦地で託された脇差がひとつあるだけの祭壇であった。
その前に辰馬は座り形見の脇差に手を合わせた。

陸奥と母御は其の後ろで頭を下げ、辰馬が面を上げるのを待った。
辰馬がは黙祷を終えたとき、陸奥は立ち上がり部屋を出た。
其の背を眼で追った辰馬に母御が話しかける。

「先ほど、姉上様がいらっしゃって下さいましたよ」

祭壇にある香典らしき包みの字は確かに豪快で雄雄しい字である乙女の手蹟であった。
来客の後すぐ此処に来たのであろう。

「色々ご心配頂き、過分なご配慮を頂きました」

ようくお礼を申し上げてくださいませ、と頭を下げる。
そういえば此の家は姉が世話をしたと聞いた。
以前母子は坂本の家に暫く住んでおり、
だがこれ以上ご面倒をお掛けするわけにはと母御が願い出て此処に家を借りたのだという。



「今日は、お通夜をなさるがか」
「えぇ、形だけは」

此の辺りにはご親族なども居られぬと聞いた。
来客も殆ど来ぬだろう。

「御坊を呼んで経のひとつでも上げてもらいたいのですが、お礼も叶わぬ身ゆえ」

喪服ももう御座いませぬので、このような略式で申し訳ないと心細く言う。
沈黙の多い会話であった。
そのとき丁度陸奥が障子を開け盆に茶を持って入って来た。
色の褪せた碗の薄い番茶であったが、辰馬はありがたくそれを頂戴した。
一口それを飲み、湯呑みを持ったままぽつりと言う。



「ワシでよけりゃァ」




「上げさせては貰えんろうか」



母御は少し驚いた顔だったが、其の儘表情も変えず尋ねる。

「辰馬殿は信心が深いのでいらっしゃいますか」

あァいやいや、と首を振る。
湯呑みの中のお茶がゆらゆらと揺れ、天井と自分の顔が映る。

「いうたち、ワシ一つしか知らんのじゃがの、意味も余り分かっちゃーせんき」

湯呑みの中身を飲み干し、出された盆の上に置いた。
頭を一つ二つ掻きながら困ったように呟く。

「門前の小僧経を覚えるいう奴じゃき」

辰馬は失礼じゃのう、これじゃぁと恥ずかしげに云った後、座を辞そうと腰を上げかけた。

「辰馬殿」

母御はそれを制す。
陸奥によく似た涼しい瞳がまるで尊いものを見るかのように歪んだ。


「よろしければ、お願いできませぬか」














 朗々とした声が低く響く。



上げる経の意味など陸奥には分からなかった。
父は死に、兄達は死に、自分と母だけが生き残った。

現実味の無い死。
亡骸も無い、最期の際も判らぬ。託された形見の脇差が一振。

これからどうするのだろうという明日が頭をよぎる。
しかし母は「経の意味は分からぬ」と言った男の詠み上げる声に頭を垂れ音も無く涙を零している。

何の為に此の経を上げるのだろう。

安らかに眠れとでも云うのだろうか。
眠れる筈の無い魂を、何が救ってくれるのか。

けれども辰馬は朗々と謡う様に続ける。
陸奥は気が付かぬ内に一粒涙を零した。

兄が、死んだ。

あの脇差の持ち主が、もう此の家の前に現れるなどと言う幻想は存在しない。
もう一度家族揃って暮らすと言う幻想は存在しない。

そう知りながら此の夜を抜け、明日を抜け。



決別の為の儀式のようだ。
明日を生きていく為の、イニシエーション。



辰馬の背を見た。


淀みなく読み上げる其の声には惑いなどは感じられず、身に染み付いた所作のように謡っている。
此の男は、どれほど此の経を上げるのを聞いたのだろう。
何人の人間を、こうして見送ったのだろうか。

陸奥は視線を落とし目を閉じた。
今や亡き父を、兄達の顔を思い浮かべようと。

目を閉じ、祈った。







  *
















経を上げ終え、母御は丁寧な礼を云ったが、
辰馬は恐縮しお気を落とされやーせんようにと頭を下げそれではと陸奥の家を辞した。
そこまで送りますと大通りまで陸奥は辰馬と歩く。

「兄上に、経をどうもありがとうございます」
いやぁ、あれは、と口の中でもごもごと取り繕う。

「ご母堂の気が休まるかのうと思うただけじゃき」
「ですが、あんなふうに詠めるとは思わんでした」

頭を掻き、どぶ板を踏み抜かぬよう下を向きながら二人は歩く。
長屋を抜け、ほの暗い夜道。
澄んだ秋の空気に虫の声が鳴いている。

「昔の」

ふと漏らす声。
考え考え、言葉を選ぶ。

「昔の仲間で寺の倅が居って、そいつが先頭に立って唱和するのを」





「…覚えてしもうただけじゃき」




そう、ぽつんと零した。


陸奥は辰馬の歩調から一歩遅れて歩く。
彼の顔が見えぬように。
見てはいけないような気がしたのだ。


「母上様は心細いにかぁらんね」

秋風に首を竦めながら辰馬は少し下を向いて歩く。
陸奥はその背中を見て歩く。

「兄の事は、はや諦めておったと思います」

母の実家に二人を連れ母と妹の事を頼みますと伯父に頭を下げた兄は、そのときもう死ぬ気であったのではないかとさえ思う。
どこへ行かれるのかと尋ねても、お前のような子供を作らぬ為だと言ってすぐに戦場へ発った。
あの時兄は笑っていただろうか。
思い出せない。

「いや、ほれっちゃぁあるが、あん家ぜよ」

ちらりと振り返るように今来た道を仰ぐ。
連なるように小さな長屋が幾つもある。
家々からは細い灯りが燈り夕餉の匂いがしていた。

「陸奥ん家系は昔は家老じゃったがやかってね、姉上から聞いちゅう」

自分達は彼の姉に拾われた様なものだ。
感謝しても足りないほどに感謝している。



「ご存知で」


 あの日のことを陸奥は時々思い出す。


「ちくと」




二人の兄は腰抜けと言われるのがいやで出征して、一年も経たぬ間に訃報が来た。
一番上の兄上様は母の面倒をと思ったのだが、義憤と名誉挽回の為に義勇軍に参加した。
その年に母の実家へと身を寄せたがそこも戦火に焼き出され各地を放浪した。

今日の宿が無いならまだいい。
今日食べるものが無いというあの惨めさ。
明日も宛てがないというあの孤独。

何度女衒に話をしようと思ったか。
だが、母がそれだけは泣いて止めてくれというのでそれも叶わなかった。

最後の綱の母の妹の嫁ぎ先を最後の宛てにしたが、敷地に踏み入れることさえ出来ない。
見知らぬ地を宛てなく歩き続ける事の心細さ。




土佐に来て何日たった頃だったのだろうか。
母が海を眺めるようになったのは。
随分高い絶壁を幽霊のように見下ろしていた。

その顔にぞっとして何も判らぬ子のように先を急がせた。



「戦へ行っても良かった、と言うとったの」



このような生き地獄を味わうくらいなら、
いっそ、戦で死んだ兄達のように死ねればいいと何度思ったか。




「兄上達と一緒に行ければよかった。一緒に死ぬねるのなら怖いことなんか、」










「恐ろしいぞ」








言葉を遮り低く漏れるようにきっぱりと言った。
その冷たさにぞくり、足が止まる。


「あそこはな」


どんな恐ろしいものを見たのだろう。
普段へらへらして誰にも彼にも懐を開いて見せる癖に、
こういうときの声は至極真面目で心を遮断しているようだ。


「死んだらつまらん。そこで終わりじゃ」



あの日、『終わって』いたら此処でこうして此の男と話をする事もなかった。



「死んだ人間には、何もしてやれん。悔やんでも、泣いても。ワシら、何も出来んがよ」


それが意味は分からぬ経を上げた理由だろうか。


「生きちゅう人間になにかせんと」


 それが。

陸奥は思いついた言葉を飲み込む。
見知らぬ男の為ではなく、あれは目の前で泣いている私の母の為だと云う。
どうしてそういうことが出来るのだろう。
過去を振り返りさめざめと泣く事を放棄して、此の男はどれほど歯を喰いしばっているのだろう。



「酷いことを言って、」
「ゆうたに、その話ははや終わりじゃ」


きっぱりとそう云って振り返る。
朧げな街灯の下で見た顔は確かに笑っていた。


「ここでいいぜよ、おんしも早よう去なんと母上殿が心配されちゅうがよ」

角を曲がれば大通りである。
その大通りの中ほどに坂本の家はあった。
明日も宜しくお願いするがでと手を上げる。

「坂本殿、今日はどうも、あり」




「再々ゆうちゅうでが」

急に目の前に顔が来た。
彼は人との距離が酷く近い。
何かを教えてくれという時も膝がくっつきそうになるほどに近寄る。
それが苦手だ。

男は全くそれを意に介さず、胸ほどにしかない陸奥の視線に合わせわざわざ腰を屈めた。

「辰馬と呼びやー。あとその生真面目な言葉もの」

もう何度そう言われてきたのだろうか。
直すつもりもないし、このままで善いと思うのだが此の男は執拗だ。
理由を聞いてもそうして欲しいからだとしか言わない。
理由にならぬ。

距離を離そうと後ろに一歩よろめくように下がった。
男は何が可笑しいのかその姿勢のままぷっと吹き出し、急に背を逸らして笑い始めた。

「ワシに殴りかかる時の顔の方がおんしゃ活き活きしとーど」

あっはっはと底抜けの笑い声でほいじゃぁのうと後ろ向きに歩き出す。
一メートルほど行ったところでくるりと向きを変えた。
けれどもまだ手を振っている。



なんてことを、女に向かって言い放つのか。




 殴りかかる顔。

 泣きはらした顔。

 罵倒した顔。

 噎び泣いた声を。




私はどんな顔を見せていたのか。
みっともないと思う。
感情を易々と外に向けてはいけないと教えられてきた。
なぜなら私達の癇癪一つで誰かの首が飛ぶかも知れぬと子供の頃から言われていたから。

けれどもその禁じられた顔を此の男は生き生きしているという。

そうか、そう思ってくれるのか。
段々と小さくなる背中を見つめた。

陸奥は息を吸う。









「辰馬!」








ぴたり、足が止まりゆっくりと振り返る。
驚いた顔が段々と人懐っこいいつもの笑い顔に変わっていく。



「何じゃァ、陸奥」


何が嬉しいのか嬉々とした声で名を呼んだ。
アホ面だ、それにつられるように陸奥も微かに笑う。


「明日、また」



おうと辰馬は手を振る。
陸奥もぎこちなくそれに応えるように手を振って、同時に背を向けそれぞれの家への路へ着いた。












6








春になった。

社には新しい顔ぶれが増え、陸奥は今の職を後輩に引渡し乙女が直轄で管理するチームに配属された。
昇給を約束された大抜擢である。私事での心配事はあるが給料が増えるのは有難い。
その分仕事は増えるだろうがと陸奥は思いを巡らせた。
これで教育係はお役御免となり、やれやれと云う思いで任命書を受け取った。

思えば坂本辰馬と云う男と出会って一年余り、色々迷惑を掛けられっぱなしで散々な目に遭った。
しかしチームの配属が変わるということは社の中で余り顔を合わせるようなことも無くなるだろう。
事務所のデスクを片付けながら此処での日々を回想した。
明日からあの能天気な陽気な声が聞けなくなることは寂しい。


 などと絶対に思うものか!


事ある毎にセクハラするし、どうにも話しかける時は距離は近いし、平気で失礼な事を云ってくるしあァ清々する。
机の上の私物の整理をいったん止めて任命書と新チームの構成表をもう一度眺める。
リーダの名はよく知る人だったし、事務職の者も顔見知りであった。
今度は自分は営業職として任命されたのである。
務まるだろうかと十数名の名が連なった末席に眼が釘付けになる。


一瞬絶句した。

「なんで、」

辰馬は瞬間凍結された顔の陸奥を目敏く見つけ音もなく忍び寄ると、陸奥の耳元で囁く。

「これからも宜しくお願いするがで」

至近距離の囁き声に陸奥の悲鳴のような声。

「なぁんでおんしも一緒なが」

なぜか辰馬も同じように配属されていたのである。
乙女直轄のチームは海外および外星からの仕入を担当している。
今度新規でもう一チーム作られる事になりそのための人事であった。

「おんし、何が出来るながか」
「人間何が出来るかはやらねば判らん」

何を格好をつけているのか。
乙女に問えば、一人くらい雑用係がいるろーと辰馬を指差した。

「ほやき、お頼みするがで、陸奥」

乙女が笑っていた。
これの面倒を見るのはおまんしか居らん、と視線を他所に投げた。
事務所のメンバ全員がニヤニヤと笑っている。


こりゃァ。




此の姉弟に嵌められたと陸奥は思い、小さな舌打ちをした。







   *






「姉上!」

姉上さまぁとばたばたと廊下を走る音がした。
新チームが始動して三ヶ月、前々からの準備の甲斐もあって、
新規契約の締結等が一通り済み一段楽したのはもう夏の盛りも暑い時期であった。
それまでの三ヶ月皆休日返上で働いていたから、明日からの盆は漸く休めるな等といっていた折である。

ミンミンと油蝉が煩い昼前。
ただでさえ暑さでイライラしているのにそこに来て此の喧しさである。

声の主は言わずと知れた人物であった。声を聴いた瞬間に皆判ったであろう。
恐らく社長室に目当ての人物が居らず行き先を秘書にでも聞いたのだろう。
乙女は今後の商流と取引先について陸奥と話をしていた矢先であった。
なんながと煩わしそうに顔を上げる。

暑苦しい頭がぐっと傍に来て机をばんと叩いた。



「昼から休みをもらえんか?艦が来ちゅう!」


何のことやら判らぬと尋ねれば、外星船籍の艦が港に入港しているという。

此の辺りは商船が入港はするが、艦の入港はそう無い事である。
恐らくトラブルかなにかあったのかもしれぬ。

無類の艦好きの此の馬鹿は、どこから聞いてきたのかそれを知り居ても立ってもいられなくなったのであろう。
情報の出所は倉庫係で港に常駐させている辰馬の飲み友達であろう。
しかしながら此の興奮状態は一体なんだ。
ダメだといっても昼からは仕事になるまい。
乙女は時計を見る。
十一時半、新チームのメンバ半分は半休を取っているもの居た。

仕様がないと遣いついでに午後から休みをやろうと皆に通達する。
仕事が終わった者から総仕舞いでえいと社長命令を下す。
辰馬他メンバ全員がいょぉしとガッツポーズ。
現金な奴らじゃのと乙女は首を傾げたが、三ヶ月休日返上の苦労を汲んだまでである。


「よぉし、お許しが出た。行くぜよ陸奥」
「なんであしが」

机の上にはもう既に休み前の仕事は片付け終え、休み明けに必要になりそうな書類を拡げていた。
無論もうすぐにでも帰ろうと思えば帰れる、が。
急に名を出された挙句ペンを持たぬ手を引っ張られた。

「陸奥も見たいと言いやー」

一人で行くと非難を浴びそうだからだろうか。それとももっと別の理由だろうか。
そういえば最近辰馬は何をするでも陸奥陸奥と呼んで憚らぬ。
陸奥も影響されてか以前のような角は取れて、丸く…はなってはいないが人当たりが少し柔らかくなり、
表面的には余り判らぬが随分朗らかになってはいる。


 動と静、水と油。


正反対のような此の二人はなぜか一人の足らぬところを埋めるように影響しあっているのかも知れぬ。
恐らく陸奥は気が付いていないだろう。

だが弟は。

時々小賢しいことを思いつくからの、乙女は行く行かないと問答をする二人を見て、
もっともそんな色っぽいものではなく仲良くケンカしな、というものかも知れぬと考え直した。

「のう、えいろう、姉様」
「あァ判ったわかった、かってにしちょき」

行け行けと追い払うように手を振る。
いよぉし、と辰馬は陸奥の風呂敷包みを左手で、右手で陸奥の手を掴んで廊下を駆け出す。
陸奥の意思などお構い無しである。
引きずられるように部屋を後にした二人の後、一瞬静寂が戻る。

「あっはっはっは」

まるで喜劇映画のようだと思わず乙女は笑い出す。
つられるようにその場に居た人間は残らず笑い始めた。


「ばっかじゃなかろうか」














早う、はようと急かされ仕事場から徒歩でゆうに一時間は掛かる港近くまで走らされた。
勘弁してくれと思いながらも、何故自分は走っているのか。
辰馬は下駄履きの癖にいやに足が速く、デスクワークばかりで鈍っている陸奥が遅れるとすかさず往来で何度も呼び続ける。
それも勘弁してくれ。

クソ暑い炎天下、飯も食わずに全力疾走。
日陰もない砂利道。
漸く一つ見つけた木陰に手を付いて肩で息をする。
辰馬は痺れを切らせたのか百メートルはゆうに向こうにいたのに、取って返して陸奥の手を引っ張る。

「出航してしまう、はよぅ」

子供の駄々のように言い、ちくと待てと呼吸を整える。
それも待ちきれなかったのか、あぁもうと言って汗ばむ手を取られた。
つんのめりながらそれに導かれ辰馬の背を追う。

辰馬は空を蹴るように走る。
地面から数センチ浮いているのではないかと思うほど浮き足立っている。
手を引かれながら陸奥は妙に可笑しくなって、苦しい癖に吹き出しそうになる。
此の男は何に向かって駆けているのやら。



緩やかな坂道を駆け登る。

真っ白い砂利の道。

両原の草原。

ぽつんと赤い自動販売機。

一人きりのバス停。

誰の影もない。

足が軽くなる。

ランナーズハイ。



辰馬が握る手を後ろへ振り払い、陸奥は速度を速めた。
その反動で辰馬は少しよろめき陸奥が一馬身前に出る。
やりよる、後ろからそんな声。
前には誰もいない。



視界は青だけ。




港へ降りる最後の坂道の頂上。
あと少し。


そう思った瞬間着地した右足の違和感。しまったと頭で考えるより早く地面に前のめり。
いい歳して全力疾走などするからだ。
後ろから駆けてきた辰馬がどうしたながと尋ねる。
鼻緒が切れたのである。
ぶらんと用を成さなくなった草履を持ち上げた。

「おんし一人で行きや」


坂道を降りれば目的地である。
目的を遂げずに戻るのは歯痒かろうと陸奥は道の向こうを指差す。
えぇと辰馬が辰馬が口を尖らせた。

一瞬凄い風が後ろから吹き付け砂嵐が舞った。
そして突然の轟音。
振り返り、息を呑む。

太陽を遮る大きな何か。


「艦じゃ」


雲ひとつない青空。
突然の影。
空を遮る巨大な。


艦。




「あれが」










耳を劈くジェット。
遅れて届く砂嵐。
頭上すぐ上に巨大な鋼鉄の塊が唸りを上げて飛んでいる。







「宙を飛ぶ艦」








二人は息を止めた。
宙を飛ばんとするその艦の真下から、その艦が彼方へと消えるまで。
飽くことなくその行方を砂埃の中見つめ続けた。










         *







大平洋に浮かんだ艦が次々と宙へ浮かぶのを見送る。
陸奥は足袋を脱ぎ、草原の中に座っている。
辰馬は木陰にごろんと寝転びながら、一隻二隻と飛び立っていく様子をじっと眺めた。
傍らには鼻緒の切れた陸奥の草履が転がっている。


「あれに乗りたいのう」


辰馬は結局港へは行かず道を離れそこからすぐの小高い丘へ上った。
陸奥は草履を持ってそれに続き、丁度港が見渡せるそこへ二人して腰を降ろした。


「乗って必ず宙の果てまでいっちゃる」


艦はそれぞれ爆音を立て浮かび上がった。
まるで冗談のような光景で、何故あぁも大きく翼すら持たぬものが宙を飛べるのかが不思議で仕様がない。
けれどそれはも自分が知らぬだけのことで、理由はちゃんとあって実現可能であるから目の前にこういう景色が拡がるのだ。

 世界。

今いる自分達がいる世界の極小さ。
隣の男はそれを知っているのだろう。



「ほんで商いをするんじゃ、宙を巡って、世界を見て回るんじゃ」


世界を見て色んな人と知り合って、商いという繋がりで「世界」を繋ぐ。
それが此の国を守る誰も傷つかぬ方法という訳か。
此の男らしい。


「ほうか、じゃぁ報告書やら純利益の計算の一つもまともに出来るようにならんとのう」
「なんじゃと!?」

辰馬はがばと起き上がり陸奥を見る。
世界に行くのはいいが赤字ばっかりの会社なんて上手く行く筈なんて無い。
夢想家はいいが誰か手綱を取ってやるものが居らねば夢で終わりそうだと、
陸奥は危惧しながら飛び起きた世紀のほら吹きの驚きぶりを笑う。

「間違いだらけじゃったき」

そう冗談ぽく嘲笑いふいと顔を背けた。
辰馬は口を尖らせ、あァ書き直しながとまたごろんと横になった。
木蔭は比較的涼しく下が草原なのもあってひんやりとしていた。
噴き出ていた汗がゆっくり引いていく。


「宙に行ったことがあるがかぇ」


そう尋ねた。
宙がどういうものかは知らない。
映像で一二度見たことがあるだけだ。
陸奥の家にはテレビはないし、社の休憩室でも積極的に見ることはない。
だから此の男がそれの何に惹かれているのかはわからなかった。

「一度だけ」

真昼の星は目を凝らしても見えぬ。
晴れ晴れとした空の向こうを辰馬はじぃと眺めた。

「江戸にちくと居った時に面白いおっさんと仲良くなっての、月を見せてもろうた」

はるか果てにはいっぺぇ星があるんだぜ、
自分以上に面白きもの新しいものが好きな人で自分は先生と呼んで慕っていた人が、
特別に潜り込ませてくれた宇宙艦。
あの日見た暗い海の底の様な闇に浮かぶ星々、それらに手を伸ばしても届かぬ果てを見た。

真昼に出た月、見えぬ影の中にも確かに存在する裏側。

「まっこと凄かったぜよ」

一瞬で判った。
これが世界なのだと。




辰馬は何か思いついたようにいきなりそうだと飛び起きた。
同じように空を見上げていた陸奥の目の前に両手をつく。


「おんしも一緒に行こう、宙はえいぞ」


いきなり何を言うのか、と陸奥は一蹴した。
至近距離でさらに暑苦しいもじゃもじゃの頭を避けるように右手を伸ばして退ける。


「無理やき」

草履を手に取り、懐から手拭を出して細く裂く。
鼻緒を挿げるのだ。

「どうしてなが」

辰馬は判らぬというように首を傾げた。
今にも宙の魅力を語ろうとしてくれた矢先にきっぱりと言う。

「母が居る」


此の一手で辰馬は完全に沈黙した。


「そう、か」

布を裂き何本かを捻って草履の穴に通そうとするのだが上手く行かぬ。
見かねたのか辰馬がそれを取り上げ、器用に挿げ始めた。

「心細いろうな」

陸奥は黙ってその手先を眺めた。


「お悪りぃがかぇ」

兄の死から一、二月、気丈に振舞って居た母だったが、
此の何ヶ月かは体調を崩している事が多かった。
気を張っていたのが緩んだ所為なのか、それとも時候的なものなのか。
冬のいきなり寒くなった日に風邪をこじらせた。
漸く春になって調子が戻り手習いの師範役にまた復帰したのだが、
梅雨の終わりからの此の暑さの所為でまた寝付いた。
師範役を休む事も多くなっていた。

「ああ」

もともとそう体の強い方ではない。
ここ何年かの心労が一気に表面に出ているのではないかと思う。
此の何年かは安定した給料を貰い屋根のある生活をしているが、倹しいことには変わりない。
けれどもそれに愚痴も零さず、母娘二人でかつかつながらも暮らしている。
あの頃に比べれば天と地の差であると身に滲みていた。

「今となってはあしの嫁入りばあが楽しみだとは云っちょったが」

以前、内職で母が刺繍をやっていた折、花嫁修業の一環ですよと指に針を刺す陸奥を笑いながらそう漏らした。
陸奥は針仕事などさっぱり出来ぬ。半衿などは自分でつけるが着物の仕立ても出来ぬし浴衣も縫えぬ。
お嫁に行かれませんよと母は笑ったがそれは相手がまずありきの話。
母の時代ならば今の自分の歳などもう適齢期で、そろそろ年増と呼ばれてもよさそうな勢いである。
それを聞きながら陸奥は笑って誤魔化した。

「何時になる事やら」

辰馬の大きな手が器用に動き解けぬ結び目を作りものの五分で応急処置は終わった。
ははぁと聞き入っていたがごろりと転がりそっぽを向いた。
ほうかぁ、とうぅんと唸りもう一度陸奥の方へ顔を向ける。
じぃとその顔を見上げた。
あんまりにも長い事凝視するので、なんじゃと見下ろし尋ねる。


「陸奥にゃ誰かいい人がおるがかぇ」


突拍子もなくそんな事を言った。
どう考えれば自分にそんな相手がいると考えたのだろうか。
仕事仕事で、休みの日は母の面倒を見て家の仕事を一切する。

「まさか、ほがな者などいやーせん」

どこにそんな色恋が入り込める隙があるというのだろうか。
しかし辰馬は、色恋ゆうものは寝る間を惜しんで煩う事やかと一端の口を利いた。

「じゃーワシなどどうなが」
「てんごうはやめとおせ」


辰馬はにこにこしながらどういう理由か自分を売り込み、陸奥は顔色も変えずに一蹴した。
馬鹿馬鹿しい、冗談にも程がある。

「おんしのようなもじゃもじゃは願い下げやか」

もじゃもじゃ以上に尻は軽いが頭も軽い。
女と見れば言い寄るし変なところで甘えたれである。
それに歳も少し離れている。
確かに辰馬は少々楽天家でおつむは軽いが、もう立派な成人である。
戦に自らの意思で赴き、戻ってきた。
次の「何か」を行うために。

陸奥はまだ何も始まっていない。

自分達は近くにいるようで随分な隔たりがあるのだと確かに感じる。
それを。
何を小娘相手にそんな冗談を言わねども。


あっはっは、口がわりぃのうと笑い飛ばした。
何が可笑しいのか笑い転げている。
あんまり暑いんで少なめな脳味噌が耳から溶け出してしまったのやも知れぬ。
しかし至極真面目な顔でそしたらお母上は安心しなさらんかと尋ねた。

どういう風に自分を過大評価すればそういう考えになるのか。
楽天家にも程がある。

「逆じゃ、気を揉むに決まりゆう」

いや、ほんとうはその逆。
母はどういうわけか一度辰馬を見て気に入ったらしく、折々に尋ねてくる。
そう聞かれれば、日々あった此の男の間抜けな話などを聞かせてやるのだが、その度に笑ってくれる。
恐らく辰馬は自分が思っている以上に、母に醜聞を聞かれている事を知らぬ。

「ワシ評判悪ィのう」

あーあと言ってまた宙を見上げた。
見えぬ星にまた目を凝らしているに違いない。


「日ごろの行いの所為やか」


少々不貞腐れた辰馬をちらりと見た。
涼しい風がどこからか吹く。
それを髪に受けながら果ての無い海を見渡す。



どうして二人してこんなところにいるのだろう。
遠くへ向かう艦を見ながら。
辰馬は黙ったまま空を見上げている。
目を閉じているわけではないから眠っているのではない。
陸奥はそれを盗み見て、なんともなく落ち着かなくなった。

沈黙は葉擦れの音で彩られ、完全な無音ではない。


不意に辰馬がふふと小さく笑った。
何が可笑しいと尋ねたが笑うばかりですぐには応えぬ。
いやらしいやつじゃと鼻息と共に吐き出せば目だけで此方を見上げた。

「言葉が移ってしもうたのう」

にやりと笑って今度は目を閉じた。
目は閉じたがにやけた口元は閉じられもせずへらへらと笑っていた。

「取り澄ましておった頃よりずっといいぜよ」

最後の艦が空へ飛び上がった。
爆音がしその反響が消える頃、漸く静けさが来た。

 波音。

此処はこんな風に静かな場所だったのか。

さわざわと風が木をざわつかせ、草原を撫でてゆく。
ついでに様に二人を撫でた。


「そう、か」


油蝉の声が戻る。
夏の暑い日。

此の男とつるんでほぼ一年。
腹が立つ奴なのになぜか憎めない。
いちいち煩しいがその煩さがないともの足りぬ。

如何した訳だろう。
今は静かなのにこのまま黙っていてもいいとさえ思える。





「ああ、ワシ断られてばっかりじゃ」

不意に辰馬が頭を掻き毟りながらゴロゴロと転がった。
まるで犬が原っぱで一人遊びにじゃれているようだ。
ひとしきり暴れて気が済んだのか、腕も足も伸ばして間抜けな口を開けた。

「おんしで二人目ぜよ」




「何じゃ、もう一人おったながか」

辰馬は思い出し笑いをしながら、おぉと云う。

「面白い男やったがのう、地球が好きゆうて断られてしもうたぜよ」

 二番目。代打というわけか。

「じゃぁあしはその代わりか」

何じゃやきもちか、と尋ねられたがアホをゆうやないと返した。

「安心せい、男じゃ」

なぜかにやにやする辰馬に何故見も知らぬ者に妬かねばならぬのかと言ってやりたかったが、増長しそうなのでやめておいた。
というより、妬いて貰えるとでも思っているのだろうか。

冗談ばかりだ。

しかし、その後妙に真面目な顔で、商いゆうものは一人でするもんじゃぁないちや、
色んな人材が必要やきと言うからあながち一人目の存在はなかなかのものだったのかも知れぬ。
だが、それも知らなくともいい話ではある。
少し、その人物に興味はあるが。

冗談のように簡単に宙へと誘い、落胆した顔は珍しくがっかりとした表情だった。
真面目な顔など殆どしない辰馬のこういう顔は、普段目にしない代わりに時折出会うと驚かされる。


「ほうか、陸奥もダメか」




念を押すように辰馬はぽつりと言う。
陸奥はそれには応えず、黙って空高く舞う名の判らぬ鳥を眺めた。







7


「随分早いですね」

長屋に帰ると母が珍しく起きて迎え火を焚いていた。
今朝は眩暈がするというので臥せっていた筈だ。
調子を尋ねると涼しくなったので良くなったといった。

あの後腹が減ったと辰馬が言うので相当に遅い昼食に蕎麦をたぐって帰った。
明日からの休み前にと細々と買い物をしたので夕暮れ時になってしまったが、
陽のあるうちに家に帰るなどどれほどぶりだろう。

「寝ていられませんからね」

明日から盆だ。

確かに、ここに戻る先祖はいないが兄達の魂だけは戻るだろう。
尋ねてくる親族などはいないし墓参りも行けぬ身ではあるが、それでも盆は盆だ。

陸奥は部屋に入り着替えた。
汗を掻いた着物を脱ぎ涼しげな藍の浴衣を着た。

母の寝間は片されており、机の上には陸奥の買ってきた薬が残っている。
今日で飲みきる筈だと思いわざわざ町医者の所まで行ってきたというのに。
帯を結び終え背中を向けた母に声を投げる。
薬を飲んでいらっしゃらないのでは、しかし母は大事に呑んでおりますよ、と。

しかし薬は七包以上残っている。
一週間前に貰ってきたのに。
今日貰った分は手持ちの金が乏しかったので盆明けまでの分しか貰わなかった。
薬包紙を大事に包んである油紙を見つけ、母は首を振った。

「こんな高い薬はいいんですよ。お前の為にお遣いなさい。」

母は以前よりずっと痩せた。
元々背も高くはなくほっそりした人であったが、この一年で更に痩せた。
医者は滋養のあるものを食べ、療養すればよくなるだろうという。

しかし気の病であるからとも言う。
元々丈夫ではないし生活の無理は祟り、さらにいうなれば慣れぬ地での暮らしは以前の暮らしとは程遠いものだ。
下女も居らず、喧騒の長屋住まい。

「いいえ、母上がお元気になってくださる事が私の為にもなるんです」

高い薬を出して貰い、食事に気をつけたとて母の調子はよくはならぬ。
転地療養を勧めるがと医者は言うがそう出来ぬ事は両者ともよく分かっている。

そのため陸奥は此の期に長屋を出て一軒の小さな家を借りようと思っていた。
出入の営業職が聞いてきた話で、元武家の妾が囲われていた小さい家の借り手を捜しているという。
町から少し離れているが眺めも良く静かで、小さいが庭もあるという。

借り賃は此処の二倍はする。しかし仕事場での評価が上がり生活は以前ほど苦しくはなくなった。
以前の倹しい暮らしを続ければ借りられない事もない。
それに少しずつだが貯めた金もある。
乙女がボーナスを弾んでくれた事もあり、この盆が明け月が変わったら契約しようと話をつけた。

まだ母には言っていない。
贅沢ですよというに決まっているのだ。
薬を飲んだり飲まなかったりするのもその所為。
贅沢は百も承知、だが命の代えはきかぬ。

「夕餉の支度をします」

陸奥は襷をかけ、はいはいという一気に老いた母の背から目を逸らした。






*







「母上、今日辰、あァいえ坂本殿に一緒に宙へ行こうと誘われました」

夕餉の片付けも終え、茶を母に勧めた。
陸奥の手元には辰馬に引きずられて社を飛び出した時の書類がそのままある。
盆明けには提出したいと思っていたので一旦戻って取ってきた。
三日の内には仕上げられるものだ。



普段ならもう母は寝間に入っても良さそうな時刻であるがどういうわけかまだ起きて陸奥に付き合っている。

「面白いお方ですね」


母は辰馬の事を「辰馬」と呼ぶと怒る。
理由は乙女の弟君だからである。
一族への恩義を持ち出す母はやはり古い世代なのだろう。
主人、恩人に忠義を尽くすというアレだ。

「はい」

それが悪いとは思わぬ。
だが辰馬は否定するだろう。
自分と姉とは違う人間なのだと声を大きくして言うだろう。
だが母にはその理屈は通じぬ。

「赤子のように無縫な奴、あァいえ「方」です」

慌てて付け加えながら能天気ないつもの笑い顔と、辰馬と呼べと執拗に言った理由を思い返す。
何も持っていないけれど、此の名だけは自分のものだからそう呼べといった。
私から見ればたくさんの物を持っているように見えるのに、いいやと言った。
これから何を掴もうというのかは判らぬ。
だが何も持っていないと言ったのに、空っぽのその身を誇らしそうに言う姿は不思議と清清しく見えた。

「行くのですか」

ことりと湯飲みを置いた母が唐突に言った。
普段は冗談など言わぬ人だがこれには驚く。

「行きませんよ、宙など何があるか分かりません」
「それを見に行けばよろしい」

意外な言葉だった。
きっぱりと母が言う。
嫁に行くのが最後の楽しみだと微笑み、裁縫下手の陸奥を嗜めた。
余りのギャップに陸奥は驚き書類から目を離した。
母は意外なほどきりりとした目で今のが冗談じゃではないということを教えた。

「いいえ、母上を置いては行けません」

その母の目に言葉が出遅れながらも否定する。

「母が居なければどうです」

どういう理由なのかは判らない。ただ。
母は本当に行けばいいと思っているようだということしか判らない。

「それは答えるに値しません。母上がこうして居られるのだから」
「ですから仮に、ですよ」

母の目は優しい。
まるで懐かしいものを見るように。


 宙へ行く。


途方もないことに思えたが母にとっては私が嫁に行こうが宙に行こうが変わらぬのかも知れぬ。
いずれは母の手を離れる事を思えば然したる違いはないのかも知れぬ。
そう思ったら不思議とその次の言葉が浮かんだ。

「そう、ですね」

暗い闇の中に宝石のような小さな光が数多と浮かんだ景色。
いつか見たその景色を辰馬はとても美しく果ての無い拡がりを教えてくれたという。
果ての無いその場所のその更なる果てを、一緒に見たくはないかと言った。

「あの此の上も無い阿呆が見ようとしているものを、一緒に見てもいいとはおもっちょります」

母はそれには何も言わず微笑んでいた。
その顔はまるで観音堂の如来のようで、酷く神々しくどういうわけか陸奥は酷く動揺した。

後ろめたさかもしれない。
母が居たら出来ぬと暗に言っているようかのようである。しかし母はそれを聞いて笑った。
陸奥は話題を変えようと、件の辰馬の話をした。

「そういや今度坂本殿は長崎へ行かれるそうです」

長崎、というのは九州の造船の盛んな地で外国との取引も盛んだという。
彼の地には支社の一つを置いているがそこへの出張だった。

「今度うちの社で新しい船を買うらしいのです。海運も自社船を使うようになるというのですよ」

坂本が以前江戸にいた頃世話になった人の口利きだという。
元軍艦奉行らしく、辰馬いわく随分面白いおっさんらしい。
面識もあり指名の話だったので此の盆が明ければすぐに立つといった。
十日ほど船と支社の視察を兼ねて行くという。

土産のリクエストを聞かれたが消え物にしろといった。
えぇぇと言ったが後に残るようなものなど貰っても困るというものだ。

「香水がえいかのう」

そんな女くさいものは要らぬと突っぱねたのだが、
おなごににゃ美しいもんが似合うきにと取り合わなかった。
しかし、部署全員の女性に同じことを言ったらしいので社交辞令の一つだろう。

母は珍しく声を立てて笑った。

どういうわけか母は辰馬が随分お気に入りで、
このように貶めるような事を度々言うのだがそれについては窘められたことはない。
母が笑うのが嬉しくてあの男の事をよく話すのだが、声を出して笑うのは珍しくてつい陸奥もつられる。
それが収まった頃、母は呼吸を整え不意に尋ねた。

「陸奥は、辰馬殿がお好きなのですか」

笑っていた事も忘れて母の顔を二度見した。
しかし母は冗談を言う風でもなくどういうわけかにこにことしていた。
言葉を失うというのはこういうことを言うのだろう。
首から上が一瞬で火照る。

「だぁれがあん毛玉のような女好きを!?」

小さな卓を右手でドンと叩き、湯飲みの表面が大きく揺れた。

「あ、母上、すみません」

暴言を謝罪した。
武家の女が乱れた言葉を使うものではないと、
子供の頃から兄達以上に躾けられてたので母と喋る時はきちんとした言葉を心掛けるのだが、
余りの事に普段喋っている辰馬の口調がつい口から飛び出た。
子供の頃なら叱責の一つでも飛び、説教されるところだ。


「言葉」

思わず身を縮めていた陸奥に柔らかい声が投げられる。

「え」

一瞬青ざめた陸奥は顔を上げる。

「移ってしまいましたね」

どういうわけか母は微笑み、少しだけ頷いた。
母は暴言も言葉遣いも咎めもせず、なぜかそれを嬉しそうに言った。
そうか。

自分は母と居るより仕事場で彼と一緒にいる時間の方が長いのだ。
そうと気が付いた時、なぜか先ほど引いた火照りがぶり返した。
どうしてかなど、よくは分からないが。
ただ、原因はあの男にあるのだということだけがはっきりしている。
あァ、余計なことなど話さなければ良かった。

半分ほどになった湯飲みの中のお茶を飲み立ち上がる。
奥の間へ入り押入れ開けて母の布団を延べた。

「もうお休みください母上、お体に障ります」

枕をきちんと置き、動揺を悟られぬように普段よりもきびきびと寝間を勧める。
はいはいと母は立ち上がり、陸奥とすれ違うように部屋に入る。
陸奥は卓の前には座らず、台所へと立ちお茶のお代わりを注ぐ。
障子を半分閉めた向こうから母が陸奥と言った。

理由の判らぬ恥ずかしさからか、なんですかと背を向けたまま答えた。


「陸奥、          」



「え、なんでしょうか」

水切り籠に母の湯飲みを置いた所為で聞こえず問い返す。


「いいえ、なんでもありません」


部屋を隔てる障子がすぅと閉められる。


「おやすみなさい」



「はい、おやすみなさい」







8






盆明けの三日後、旅支度をした辰馬を見送った。

港まで来とおせなどという甘えたことを言っていたが、社の玄関から見送るだけだ。
子供じゃァあるまいし、と社長である姉上から一発貰っていた。
物見遊山半分という気持ちで行くなよと姉上からも釘を刺されていたようだがあそこには三代遊郭がある。
わかっちゅうと言ったが無駄だろうということは百も承知だ。

十日間の旅。

此処から下関を通り九州北部を回り長崎への旅である。
社の定期便に便乗しての船旅であるから快適とは言えないだろうが、無類の船好きの彼は妙に嬉しそうであった。
昨日はどうやら寝ていないらしい。


「じゃァ」

行ってらっしゃい、気をつけて。
口々にそう貰いながら手を振る。
姿が小さくなり角を曲がったところで誰かが言った。

「これで暫くは静かかのう」

皆がどっと笑った。






    *






長崎。




「オレッちは押し付けられたんだよ」

二日の船旅。
着いた直後は辰馬は船酔いで使い物にはならなかったが、夕方、宿に懐かしい顔がわざわざ迎えに来てくれていた。
このたび辰馬を長崎に呼んだ張本人、勝であった。

船の買い付けと交渉は本社ではなく支社が主導でやることになっている。
だが此の話自体はどこでどう話が巡ったのか坂本辰馬を指名した一通の手紙から始まった。
幕府の払い下げの船があるが買わねぇかい、そんな軽い一言。
江戸からのその手紙が辰馬の手元に届いた瞬間から此の話は始まっている。
差出人は元海軍奉行の名であった。

「元軍艦奉行なぁんて、天人様様、最新技術様様の世の中でなぁんの役に立つってぇんだ」

支社のお偉方と旧幕軍の勝の部下、それから造船業者の偉いさんたちの顔合わせの際での宴の席である。
一番上座の勝はそう言い放った。
辰馬は勝におめぇここ座んなと自分の隣を指されその隣である。
旧幕軍の戦艦を買い受けるというのが今回の話である。旧幕軍はことごとく解体され戦艦の多くは最新式の物に買い換えられた。今や実権を握る核の天導衆の各星政府に相当な借金を背負わされて、である。

しかし旧式の艦といえど財産である。

払い下げという形で民間に放出される事になったのだがそれ一切を仕切っているのが勝である。
一時は軍艦奉行職を解かれ隠居でもしようかと思い、庵まで建てさせていた頃呼び戻された。
元軍艦は客船なり貨物船なりに形を変えさせ民間に払い下げよ、更にはそれに乗っていた人員の整理まで命じられた。
天人様の手伝いかよと不平不満はあったが、これ以上浪人を増やすわけには行かぬという思いもあった。
ただでさえ侍達は行き場をなくし山賊夜盗を働くものもいる。盗賊団を捕まえてみれば旧幕府の子息達であったという話もよく聞く。

つまりは船とその乗組員ごと引き取ってくれる相手が必要というわけである。

「てぇわけでよ、出来るだけ高く買ってくれりゃァ嬉しいが、話をこじらせてくれんのもアリだぜ」

へへと笑いながら皆を見渡すとぽかんとしている。
わかんねぇかねと首をかしげ、まぁいいやィ、始めようぜィと挨拶でもないような口上で宴が始まった。







翌日からは視察を兼ねての造船所巡りである。
支社の偉いさんと営業職がその話を聞く傍ら、辰馬は船を眺めるだけであった。
払い下げられる船は今回は二十隻あまり。
それらが民間船へ姿を変えられるのを順番待ちである。

艦好きを自称する辰馬は小型船くらいなら簡単に扱える。
星間商社を立ち上げるなら大型船舶の航行に必要な免許や資格も必要だろうと珍しくこつこつ勉強をしている。
お蔭で技術職の人間が素人の商社マン相手に話をしているのを傍で聞いているだけで何となく船の仕様は頭には入る。
好きなことなら幾らでも頭に入るが、その値段やら納期のことになると営業職が物を言う。
商談はそちらに任せきりで辰馬は勝と共にその話を脇で聞いていた。

勝も最高責任者である癖に商談については一切口は出さなかった。

それどころか、ちょいと出かけてくらぁと辰馬を連れて鰻を食べに行ったり、土産でも見に行くかと繰り出す始末である。
無論夜は皆を連れて飯を食いに行く。
物見遊山半分どころか完全な物見遊山である。

「しかし先生、一週間も滞在せいというのはどういうことろう」

今日の昼飯は天麩羅でも食いに行くかと会議の終わりかけに辰馬を連れ出した勝は、
真っ白い麻の羽織を引っ掛けてぶらりと通りに出た。
これで六日連続である。
話は段々と形になってきている。
値段と船の納期交渉は兎も角として、勝が求めていた乗組員込みでの話は上手く行っている。
乙女が前もって近隣の海運業者にも声を掛けていた。少し遅れて彼らとの話も始まったらしい。

外は残暑が殊更厳しく、真っ白い入道雲がぐんぐんと山の手から昇ってきていた。
辰馬は目の上に手を翳し陽を遮る。

長崎に来たれという一文で締めくくられた書簡には、一週間の期間を求めるという一文が添えてあった。
口を聞きに行くだけなら二三日の滞在でも良かろう。

「そりゃァお偉方になかなか話が纏まんなかったってぇいう体裁が必要なんだよ」

実際途中経過を幕府中央に報告するとなぜか話が一旦途切れる。
中央からの返事は人員の処分は然て置き、船の処分を早くしろというのである。
しかし造船所はもう手一杯で中央が言う納期など守れるべくもない。
財政は散々たるもので火の車サ、はははと勝は大口を開けて笑う。

「なァに、天人連中に言われてせっついてきやがんのよ」

行き着けなのか下世話な天麩羅屋の暖簾を潜る。
いよぉと店の娘に声を掛け、小上がりの席に陣取った。

「テメェらじゃァ出来ねぇっつーて隠居しかけたオレを呼んだくせによう」

勝手な奴等でぃ、吐き捨てるようにそう行って娘が運んできた冷たい麦茶を飲み込んだ。
娘に見繕ってくんなと雑把な注文した。しかし店はそれに慣れているらしく、すぐに胡麻油のいい香りが店に漂う。
まるで待っていたかのようだ。

辰馬は此の勝という男が好きであった。

海のものとも山のものとも知れぬ若造が、
いきなり昼寝をするその目の前に人斬り包丁をぶら下げて現れたのが出会いであった。
自分はお前に天誅を下しに来た、そう言ったらはははと笑った。
奸賊と聞いていたからさぞ凶悪な男であろうと思ったら小柄な親爺であった。
よっこらせと起き上がりにこりと笑う。

「オイラを殺してどうすんだい、お若ェ方」

奉行というのに博打打のように立膝。

「それでも明日は来やがるぞ」

ずいと前に身を乗り出して言い放つ。




「おめぇさんは明日も斬る気かい」




謎掛け。

答えは上手く口には出来なかった。
けれども背中を粟立たせた一言を放った直後、その親爺はにやりと笑った。

「上がんねぇ」

どういうわけかそんな物騒な珍客に手づから茶を淹れた。

「まいったにゃぁ」

これが二人の交わした初めの言葉であった。
あれも確か、暑い夏の日。

それ以来の親交である。随分昔の話だ。


「おまちどうさんです」

天麩羅が来た。どうにも衣が黒っぽい色をしておりはてと辰馬は首をかしげた。
娘は冷酒の硝子杯を二つ、塩と抹茶をとんと置いた。
勝は来た来たぁと子供のようにはしゃいで箸を取り、しゅわという歯触りのいい音と一緒に齧る。

「それによう、おメェ。せっかく土佐くんだりからきたんだろうよ。観光の一つもしな」
「観光とゆうたち、会議そっちのけでワシは連れ出されてばあですき」

此の何日か昼過ぎに勝にふらりと連れ出されていった先は珍しい切子細工だの焼き物だのの工房であった。
土産の一つでも買って行きなと選んだのは帯留と涼しげな切子杯。簪をいくつか、それから香水瓶。
いい人にかいと冷やかされたが誤魔化した。

舶来の品が集まる市場に異星人専用ホテル群、港に点在する海運業者、造船所。
さすが幕府直属の奉行職。
威光もまだ効くと見え勝の口利きで名刺を取り交わす事十数軒。

顔を売ってくれているのだと気がついたのはつい最近である。

食いねぇと言われ辰馬は海老に手を伸ばす。
黒い衣は胡麻油の所為である。
鼻に抜ける胡麻の香が食欲をそそる。

旨めェだろうがよ、なぜか誇らしげにそう言い、昼酒を喰らう。
昼から仕事を端からする気がないのであろうか。
男の酌で申し訳ないと冷酒を注げば、どういうわけかにやにやして目配せした。

「なら、夜は別嬪に酌をしてもらおうじゃァねぇか」

きょとんとした辰馬は一瞬の間。
すぐに思い至って、にやり。

「長崎って云うたら、丸山ですかのう」
「おめぇと行きてぇなぁって思ってたのさ」

男二人はいやらしい顔を互いに見合わせて鼻の下を伸ばす。
卓越しに辰馬の肩を叩き、その申し出に辰馬は手を打ち鳴らす。
酒の追加じゃと娘に声を掛けた。





  *






夕方、支社の用意した元旅館の会議室では相変わらず話が膠着していた。
膠着するのも当然である。
お上からの指示と現状が一致していないのである。
幕府は下方への命令一通で総ての物事が進むと信じている。
しかし物理的に無理なものは無理なのである。商社側はそれを承知している。
無論その上からの指示を受け、会議室にいる軍艦奉行の部下達もそれに頭を悩ませていた。

見かねた勝が漸く重い腰を上げてオレが言うよと面倒くさそうに言った。

幕府が資金回収へと早っ突く納期の不可能な理由を説く為に漸く仕事をする気になったらしい。
少なくとも此の三ヶ月の内に船を総て納品させ資金の回収を急げとある。

「現場はもう既に三交代で昼夜問わず無理してんだ。ホワイトカラーが無理しねぇでどうするよ」

一同の憤りをなぁと見渡して治める。
ごたごたと面目ねぇと商社に頭を下げた。
軍艦奉行じきじきに頭を下げられれば引くしかない。

船を実際に運行させようという時期は実は再来年の事である。
それまでに新航路や新流通経路を各港湾関係者や他商社や
他海運業者との港湾使用権についても擦り合せをせねばならぬ。
急いでいるのは資金に喘ぐ中央だけというのも此の話を面倒な事にさせているのだ。


「まぁ腐る話だらけだがよ、今日はちょいと息抜きに行こうじゃぁねぇか」


勝は皆にそう言うと開け放った廊下から外を見た。
ついさっきまで遠くの空は不思議なほど晴れており、夕暮れの赤い空と紫へと変わる色が見えた。
それはまるで乙女達が選ぶ襟のように美しいと思った。

しかし今はそれらを覆い隠すように鼠色の雲がじわりと拡がる。
随分空が暗くなった。

「一雨来る、か」

ごろごろという雷が鳴り始めた。
庭石のあちこちに黒い染みが現れた。

ごうといいながらいきなり降り始めた篠突く雨は、先ほどまで乾ききっていた庭石を草花を折らん勢いで降り注いだ。
お湿りやぁ丁度いい、勝は縁に座り扇子で袂に風を入れる。
白雨は熱気を一瞬にして奪い、向こうが見えなくなるまで地を叩き屋根を叩く。
樋から勢いよく水が迸りながら、庭に即席の川を作った。

雨のカーテンは分厚く世界を覆い景色を暈していた。

止んだら行こうぜいと部屋の中の渋面達を見渡す。
どういうわけか気温が下がったと同時に煮詰まらぬ話の苛々も緩和されたようで、
一人が下女にお茶を淹れる様に席を立つ。
他の者も煙草を咥えたり、書類を纏めたりと本日の仕事納めとばかりに何やかやと言いながら寛ぎ始めた。

辰馬は勝の隣で雨を見ていた。
遠くでどぉんと大きな音がして暫くして稲光が光る。

 ちりん。

風鈴が鳴る。
みやびじゃねぇかと勝は云い、雨の幕に滲む庭を見る。

 ちりん、ちりん。


そのときごうと夏の夕暮れにしてはいやに冷たい風が吹いた。
吹き込む風に思わず顔を背け、霧雨のような滴から身を避ける。

「坂本様」

庭伝いに足音が駆けた。
女の足音である。
茶が来たかィと勝は腰を挙げ卓に着こうと部屋へ入る。
しかし女は盆のひとつも持たず、手に何か書簡を持ち足早に辰馬の元へまっすぐ来た。

「坂本様、急の郵便ですよ」

雨に濡れる前であったのだろう。
湿気を吸ってはいるが墨の滲みなど無い。

宛名は見慣れた姉の字であった。
古風なその様式は厚い梳紙に畳んだ書を包むというもの。
裏書は「をとめ」とだけあり、はらりと開けると一筆箋に短い文面が添えられていた。

 〈急を要するものであってはいけないと思いましたので、至急お送りいたします〉

「姉上様からじゃ、なんろう」

中身は別の人物からのもののようで長の留守の弟の為にわざわざ転送したのであろう。
雨に濡れぬようにと外に背を向け、中に入っている畳まれた手紙を手の甲に沿わして開く。

書簡を持ってきた下女はするりと頭を下げてそのまま下がった。
入れ違うようにお茶がきて卓に着いた全員がそれを受け取った頃にも、辰馬は同じ姿勢のまま書簡を凝視していた。

「どうしたィ」

勝は呼ぶ。
辰馬は動かない。


 ちりん。



雨は一層激しさを増し、風が風鈴を鳴らす。
湿った風が脚と脚の隙間を通り抜けた。


 ちりん、ちりん。



霧雨のような滴は辰馬の裸足の甲を濡らしたが頓着しなかった。
吹き込む雨が袴の裾を濡らし、背に雷鳴が轟く。

「坂本」

辰馬ははたと顔を上げた。
ざわざわする。


「どうしたィ」



無意識下の警鐘。
風鈴の音と相俟っているだけなのか。
体と外の狭間の薄いところを見えざる手で撫でられている。
振り払えども、振り払えども。


ざわざわと波打ち。


「先生」


ようよう顔を上げたその顔に勝は一瞬たじろいだ。
亡霊を見たかの如く、青褪めたまま。




「帰らねば」



そう、云った。













9





空は群青色に塗られていた。
日が落ちて気温が下がり、夜が一足先に一つ先の季節を連れてきていた。

街灯が燈る道、家々の明かり、見慣れた帰路。
夏の終わりの覚えのある風景。

長崎を発って一日と半分。
港から俥を雇い急がせた。

ごとごとという車輪の音。
道を舐めるように走る俥の揺れが現実だ。

ざわざわする正体を見破る為に心だけが逸る。

それがただの杞憂であってくれと願いながら。
だが、それはあっけなく淘汰される願いであるという事を知っていたのかもしれぬ。



なぜ。

そう問うのは余りに愚かだ。

悪い予感というのは当たるものだ。
勘というのは今まで自分が経験してきたものの積み重ねによる統計である。
だからこれも当たっているのだとぞっとした。
当たってくれるなと思いながらも。






どうして、と問うのは余りに愚かだ。
我が家の表門がこんな時間まで開け放たれている理由や、黒い幕が門に張られている理由。
ゆらゆらとそれが風に吹かれた。
そこから潜るように出てきた者は皆同じ色の着物を着ている。

詰めの一手。



俥を降り、場違いな旅装束で門を潜った。

帳場だったらしき長机が隅に追いやられている。
暑さに萎れた仏花。
見知らぬ家のように鼻につく喪の香。
玄関には客と思われる履物が一つ二つ。

やはり。


そう口走りそうになりながら、遠くから静かに衣擦れの音がしたので顔を上げる。
奥から出て来たのは、姉と此の辺りの地主の老人であった。

「坊か」
「辰馬」

旅装束の笠を脱ぎ一礼した。
頑固な親父で昔は悪さをしては往来で怒られていたが、今日はそんな様子は無い。
それではと頭を下げてその場を辞した。

「手紙を見たがか」

乙女は挨拶もそこそこに帰ってきた弟に尋ねた。
気疲れしたような顔で険しげな面差し。

「姉上の転送してもらった書簡なら受け取ってここに」

懐にずっとしまっていたのでそれは皺が入り、雨に濡れて墨が滲んでいた。
裏書を見るといや、それではない、と首を振る。
行き違いかと頭を垂れた。


「陸奥のお母上が」



もう、此処に来る前からそうではないかと思っていたのに、それを打ち消そうとした。
だが。

それだけでもう判った。



 これが、正体。



「いつ」


爪先から上る寒気。
右手が震えた。
大事に此処まで持ち帰った書簡に更に皺が入る。


「一昨日」


盆が開けて随分暑い日が続いた。
辰馬を送り出した日は此の夏一番と思える暑さで随分往生するほどだったという。
しかしそれが三日ほど続いた頃、いきなりの長雨が三日続き秋のような冷え込み。
そこで一気に体調を崩したのだといった。

「あっけなかった」

乙女は吐き出すようにそう呟く。
いつもの気丈さなど微塵も感じさせぬ心細いものであった。

「葬式は今日済んだ」

はためく鯨幕。
それも下ろされた。

「皆帰った」

何もかも終わった後に。







「陸奥は」

辰馬はごく静かに尋ねた。

乙女は見送りようにと自分の履物を表玄関に置いていたらしく、一つだけ残った履物を突っかけた。
弔事用の黒い草履。足元は裸足であった。
萎れかけた仏花を再度生けようとでも云うのか、小菊の入った花瓶を持ち上げる。

「流石に一人で居らせるのはと思うての」

暑さの所為で冷たい水に入れてやってもすぐに萎れてしまう花を気の毒げに見た。
花弁は散る事もできず芯に被さるように、醜く紙縒りのように千切れる。
けれども捨てる気にもなれず乙女はそれを持ったまま上框に腰掛けた。

「今日、いや暫くうちで」

そうと聞くなり辰馬は吃と顔を上げた。
背に背負った荷物を玄関先へ放り投げ、手甲を解き、足元の草鞋を解いた。
どんと言う激しい足音をひとつ。
旅支度をそのままに廊下を行く。

「辰馬どこへ行きゆうが」

乙女は問う。
辰馬は答えず、一瞬の一瞥でまた視線を行くべき方向へと戻す。


「今はそうっとしておき」



それを振り切り、手に持ったままの書簡を懐へと差し込んだ。













 「拝啓、坂本辰馬殿」





そう始まった書簡は美しい女の字で綴られていた。
武家の妻女だっただけあって丁寧に書かれてはいたが所々墨の乱れがあった。
いつ書かれた物かはわからぬ。
だが、あの日。

盆前の二人きりで艦を見上げたあの日よりも後ということだけ判る。





 「先日貴殿よりのお誘いを娘から聞きました。
  母あっての身ゆえ断ったと申しておりましたのでこうして恐縮ながら一筆啓上させていただきます。

  自分が居てはあの強情な娘は絶対に首を縦には振る事はないと思います。
  しかしそれも間もなくのことです。」





辰馬の歩調は弱まらぬ。
大小の部屋を通り抜け、廊下を歩き、その姿を探す。





 「時期、私は死ぬでしょう。」






何故自分にこんなものを書き送ったのかはわからない。
自らの死を予見しながら、只の若者の戯言を何故信じたのだろう。






  「そうすれば枷もなくなります。
  どこへなりとお連れ頂き、貴殿のお役に立てればと存じます。
  貴殿が何を為されるか私などには想像もできません。
  恐らく貴殿自身も為される事の大きさには気がついておられぬのでしょう。
  その未知なる道程に、必ず我が娘は御役に立てると思います。」






今自分が思い描く事など何の根拠もない絵空事だと云われても仕様がない。
いや、事実そうだろう。
夢なら寝て見ろと云われるのだ。
夢のように描く商売を鼻で笑われても叶わぬ。

だがどうして彼女等はそれを信じたのだろう。







  「塾なぞに行っていた兄達よりもずっと覚えが早く、機転も利きます。
  今は亡き夫は此の子が男なれば家名を継がせたもののとよく言っておりました。」





どうして自分の大事なものを人に託そうとする。
自分で懐の中に入れておけばいい。
片時も離さず、目の届く場所で。







  「我侭を言わぬ優しい娘です。
  贅沢もさせてやれず娘時代を過ごさせてしまいました。
  けれども貴公の誘いには心が揺らぐようでした。
  そう、とは申しませんでしたが、私にはそう思えました。」






そんな事は端から知っている。
他人の為の仕事も惜しむことなく手を抜かぬ。
目が回りそうなのに母のためにと饅頭を貰って帰った。








  「これをあの娘の、そして私のひとたびの我侭として頂き、」






中庭に面した廊下。
庭を挟んだ離れの前にしゃがむ小さな影。
此の家で見慣れぬ唯一の者。

星の見え隠れする群青色の空。
銀色の北極星。

露の如く。






 「どこへなりとお連れください。」




目を離せば消え入るのではないかと。









「陸奥」





駆ける様に陸奥のいる庭に面した縁へ向かう。
足音に気がついたのか陸奥は顔を此方へ向けた。
近寄れば近寄るほど陸奥の顔は青白く思え、只どういうわけか些かの表情の変化すら見えない。





「辰」



喪服ではなく地紋のある柳鼠色の単を着ていた。
髪は後ろで一つゆったりと結び、飾りッけも何もないいつもの陸奥である。
しゃがみこんでいた陸奥はすぅと立ち上がり、顔に掛かる前髪を耳に掛けた。




「お帰り。戻りは来週じゃァなかったがか」


いつもどおりの、無表情に近い瞳で此方を見上げた。

あの日のように陸奥は泣いてはいなかった。
普段どおりの声で振り返り、いつもの労いをかけた。
余りにそれが何もなかった日の終わりのようで。



「すまん、遅れた」





場違いなほどに冷静で。
余りに、穏やかで。





「許しとうせ」






  余りにそれが。








陸奥は相変わらず味も素っ気もない顔と声はそのままに尋ねた。





「何故おんしが謝る」








あの日。
兄が死んだといったあの日。
激昂した面差し、涙、彼女の見ていた赤い景色。

 覚えている。
 覚えている。

なのに。







「おんしが」




 お前が目で探すものがまた自分には視えないのか。









 「ほがぁに平気な顔をしちゅうからぜよ」










辰馬の口唇は震え、思いの外大きな声に陸奥はたじろぐ。
縁に立つ辰馬をそのまま見上げた。
沈黙はほんの数秒。







「ほがな」



陸奥は一歩後ろによろめき、一度だけ口唇を震わせた。



「大きな声で怒鳴らんで、も」


声が震える。
語尾は掠れた。

砂糖菓子のような脆さで表情を崩す。
口唇のわななき、子供のように青味掛かった目は見えぬ雨にでもうたれたかのように。

 滲んだ。



辰馬は縁側の縁を足の指だけで蹴る。
沓脱石に着地して、三歩目には陸奥の目の前にいた。
崩れ落ちるそれらを掬うように右腕を伸ばす。

あの日のように。




「来月には、家を借りようと思うちょったのに」


膝の力が入らぬのか陸奥の身体は今にも地面に着きそうで。
そうはさせまいと辰馬は腰から彼女を支えた。


「ほいだら身体もようなるゆうて」


被さるように自分へ身を預けさせ。
引き寄せるように強く抱いた。



「なんで」


一年前より長くなった髪の毛。
抱いた頭を撫でもせず、支える事しかできぬだけの己の手。


「なんで」


縺れる長糸のように指に絡まる。
絡まるけれどもすり抜けていく。

大事に抱えているのにどうして。
此の腕から、
手の平から、
指の隙間から。

音もなく、滑り落ちるのだろう。



声を上げずに泣いている。
あの日と同じように。
何もかも、同じだ。
違うのはいなくなった人と場所だけ。

単の胸に涙が落ちた。
染みを作りながら、拡がってゆく。
か細い声はもう声にならず意味を失い嗚咽に変わっている。
殺すように奥歯を噛み締め息を吐く。


時間は縺れ合いながら此処まで繋がっている。
ひとつが途切れたなら今はない。

だから何故と問われても答えなど出ぬ。
答えられたとしてもそれを陸奥に言う気はしない。
ただ頭を撫でてやるだけだ。

そうとしか出来ぬ小さな自分を呪いながら。
如何ともし難いうねる大波に、溺れぬ様にと祈りながら。













陸奥が泣いている。


庭を挟んだ場所で乙女は陸奥を見た。
出遅れながらも辰馬を追い、叫んだ弟の声に気圧され声を掛けそこなった。
今はもう動く事もできず、足が縫いとめられているようだ。


陸奥が、泣いている。







母の死を目の当たりにした時も。

ここへ駆けてそうと教えた時も。

通夜の夜も。

葬式も。

野辺送りも。


気丈にしゃんと喪主を務めていたのに。



泣いているのは確かに十七の娘で、
それを支えているのは自分の弟だった。





「独りじゃァ、泣く事すらできんかったがか」





夜がすぐそこまでやってきていた。
星が今日も瞬き、秋の星座を映している。
昨日と何も変わらず、今日も世界は明日を待っている。



庭はもう目を凝らさぬと二人がいるところが見えなかった。



乙女は二人から目を逸らした。
床に張り付く足を引き剥がしゆっくりと背を向け、今来た方へと戻った。







*











カアン、カァン。




澄んだ鉦の音が響く。
暑さはもう過ぎ去り、乾いた秋風が着物の裾をめくる。

兄の一周忌と、母の四十九日の法要を同時に行うのは合理性というよりも、
立て続けに怒った彼女の家の不幸の象徴である。
読経の声が朗々と響き、合掌と唱和。
最後に鉦が鳴らされた。

縁者も少ない寂しい法要だった。
辰馬と乙女。陸奥の同僚が何人か。
手習いの師匠をやっていただけあって子供らとが幾らか。
あとは長屋の連中がちらほらといただけ。

精進落としは坂本の家で振舞われたが、ひっそりとしたものであった。
兄の時よりは寂しゅうない、そう陸奥は云ったがこの一年余りの出来事に疲れの色が見え隠れする。

葬式から陸奥はずっと坂本の家にいる。

葬儀の翌日、新しく引っ越そうとしていた家の契約を破棄に行った。
向こうも事情を知っていたらしく、これからを聞かれただが判らぬと首を振り、
それを知った乙女は暫くはここに居ればいいと離れの部屋を一つ宛がった。

陸奥を一人にさせまいとした。

数日離れの近くの部屋で乙女は寝起きし、夜中に陸奥の様子を見ていたらしい。
時折眠れぬ様子で夜中起きていた彼女に声を掛けてやり、話をした夜は幾夜もあるという。


初七日を過ぎて陸奥が元の家に戻ろうとしたら暫く居ればえいと陸奥を説き伏せ、
四十九日を過ぎた今日も陸奥は坂本の家にいる。
実は暫くというのは方便で、借りていた家は乙女がもう引き払ってしまっていた。
そう知った陸奥が尋ねると、

「お母上におんしの後見人を頼まれちゅうき」

若い娘を長屋で一人住まいなどさせるのは以ての外と言うのである。
そう決まった日に、辰馬は釘を刺された。

「悪さしなや」






客に礼を言って帰しきり近隣の手伝いも三々五々坂本の家を辞した。
細々とした片付けも終わった頃には四時を回った。

夏はもう終わり、日が落ちるのが一月前より随分早い。

朝から立ち働き、漸く一息着けると陸奥は客の飲み終わった湯のみ一式を持ち自分にもお茶を淹れようと立つ。

「おんしも飲むか」

橙色の陽が射す縁側で転がっていた辰馬にも声を掛けた。
もう既に紋付は脱ぎ捨てていた。
堅苦しいのは嫌いなが、そう云いながら客が帰った後普段着に着替えており、
袴もつけず風ももう冷たいというのに煤竹色の袷を一枚きり。
声を掛けたらおうと応えた。

台所へ行くと随分賑やかであった。
乙女が居残っていた近所の女衆数人と話し込んでいるのである。
どこへいっても女というのは姦しい。

だが女が元気な土地というのは人の風通しのいい住みよい町だと生前母は言っていた。
此処はそうだったとでも言うのだろうか。

「皆帰ったながか」

聞かれ頷けば女衆の一人がおまんも此処で飲んで行きいやと声をあげた。
皆が陸奥の座るところを明けようと大きな尻を少しずつずらす。
押し合いへし合いとやるのを押し留め、
向こうで辰馬がいると告げるとどういうわけかははぁんとにやにやされて、
あっという間に湯飲みと急須が用意された。

「こん菓子を持って行きいや」

これもこれもと菓子を持たされお茶請けで盆は一杯になった。。
女暦が陸奥より二倍三倍の女猛者共である。
無論有無を言わさず、しゃんしゃん行きやと尻を叩かれる。

追い払われたというのが正しい気もするが。


冷めぬ内にと台所から追い立てられて、するすると廊下を抜けて先ほどの部屋に戻った。
縁側にはさっきと全く変わらぬ姿勢の辰馬が居り、隣に座り起きやと急須から茶を注ぐ。
萌えるような玉露の緑と香りは、今日だけの贅沢である。

「あぁ、どら焼じゃ」

子供のようにそう云うと、起き上がって胡坐を組み盆の上に載った菓子の一つを抓みあげた。
封を解き一口齧り、熱いお茶を一口啜った。

陸奥も籠の中にあった同じ物を取る。ずっしりとした重さのどら焼であった。
粒餡の感触が歯から伝わる甘い菓子。
西日を頬に受け、同じようにお茶を啜る。

暫しの無言。

辰馬はぺろりとそれを平らげ指についた餡を舐めている。
行儀が悪いと姉上殿が居たら怒られる所だが、今は二人だけで誰も居らぬ。


黄色から橙へと日の色が変わる。
頬に受ける陽が温かい。
暑いと思わなくなったのはいつ頃からだったろう。

夜はもう涼しく、明け方肩が冷えて目が覚める。
朝の洗顔の水、足袋を履かぬ日の足裏に接する廊下の冷たさ。
日の短さ、夕暮れの色。

季節が捲られてゆく。

どういうわけか傍には誰かが居た。
顔を洗っておれば後ろで大旦那さんが湯が欲しい頃じゃのうと笑い、
季節の狭間で足袋を履かずにおれば乙女が明日は冷えるがやきと新しい足袋を呉れた。

そして夕暮にはここに辰馬が居る。



東の空で烏が鳴いている。
風が段々と冷えてきているのに、日だけが暖かいから此処から動きたくない。
穏やかななんでもないこの時間。
夕飯前の何もしなくていいという気儘さと、そろそろと逸る様な。



「陸奥」



辰馬は不意に声を掛けた。
懐から懐紙を出して指を拭いながら、此方を向いた。


「あの話まだ覚えちょるがか?」

懐紙を四つに折りたたみ、盆の上に置いた。
手持ち無沙汰なのか右手で左手の親指を擦っている。


「なにを急に、云い」
「宙へ行く話やか」


言葉を繋げさせまいとするような言い方。
なのに、迷うような声。
お茶を啜った陸奥は自分を見た隣の男の声の表裏に戸惑いながら慌てて視線を逸らす。
顔だけは妙に真摯で普段の冗談を言う顔とは明らかに違っていたからだ。

そういう陸奥を見て辰馬もふいと眩しい方を見た。
陸奥は西日が眩しいのか目を眇め、小さく口唇を引き結んだ。

「おんしは自分の事ばぁやき」

デリカシーのない、陸奥は大げさに溜息を吐きながら手に持ったどら焼を齧った。
だがそれは本当に怒っているのではないのだろうと辰馬は何となく判った。
最近漸く判り始めた。
無表情の中にも表情があり、それは些細な変化だが喜怒哀楽をちゃんと示しているのだと。
ほんの小さなサインだが、目を凝らせば見える。
真昼の星のように。


「あれ、いっさん考えてもらえやーせんか」


今日言おうと随分前から決めていた。
陸奥の母御から受け取った手紙は自分の心を確かに揺さぶった。


  「どこへなりと、お連れください」


あの文面は一字一句違わず思い出せる。
長崎での雨の冷たさ、ざわざわとした胸騒ぎ。
何もかもを。

まるで結婚の許しをもろうたみたいじゃ、後になって読み返したときふとそう思った。

陸奥の母上には一度会話をしたきりである。

往来で出会ったときなどはゆっくりと頭を下げて此方を見送った。
武家の女というものは往来では男とは話をしないというものらしいと聞いていたから、自分も会釈をしただけにしたのだが暫くして振り返るとまだ頭を下げていたのには参った。
良くも悪くも、「昔」の女であったのだろうか。

 なのに何故。

お家再興や名誉の回復を願わず、
どういう者か分からぬ若造にどうして大事な一人残った娘を託そうなどと考えたのだろうか。
それを云わずにこの世を去った。

 謎掛け、そうに違いない。








「母上は浄土に着いたかのう」







押し黙っていたままの陸奥がふいに口を開いた。
食べかけのどら焼を持ち、夕暮れに目を眇めている。
もっと遠くを見たいと思っているのかも知れぬ。

十万億土離れた、母と兄達と父の居る場所を。
目を凝らしたとて見えぬその場所の欠片でも見えはしまいかと。

四十九日を過ぎれば死者の魂は浄土に辿り着けると信じられている。
もう彼女の隣には死者の魂は居ない。
隣に居るのは。



「あァ、きっと着いちゅうろう」



辰馬は陸奥の方を見た。
陸奥もどういうわけか辰馬を見た。

巡りあわせの様な。
誰かが手繰っているのやも知れぬ見えない糸に引かれた様に。






「辰」





 口唇が動く。




「あん、申し出」




 動き出す歯車、その答え。




「どこへなりと連れて行け」






 嗚呼、この女はこういう風にも笑うのか。






「おんしの見るもんをあしも見たい」








10





ちくとえいかと忙しく支度する陸奥に乙女はそう云い部屋に来た。
陸奥は座布団を出して上座を勧めこうして二人で春の庭を眺めながら座っている。

「陸奥、あん馬鹿と本当に行くがか」

今からでも遅くはないぞと乙女は言った。
決めた事ですき、といいながら陸奥は最後に残った行李に少ない荷物を詰め終え、乙女と向き合っていた。

離れの部屋はこの数年、陸奥が使ってきた。
しかしこの部屋とも今日で別れである。

「頭はスカスカじゃし思いつきで行動するし女癖はそうそう悪い」

自分の弟をこうも悪し様によく言うものだ。
しかし陸奥は否定はしなかった。

「でも何処か人好きのする男ですき」

ほりゃぁ金で買われん、そういってやるとむぅと乙女は渋い顔をした。
否定はしないところを見ると長所を言い当てられたようだ。

乙女は嗚呼と溜息を吐き、どうしてこうなってしもうたんろうとぺちんと額を叩いた。
そして不意に諦念の顔を以って、居住まいを正し「陸奥殿」と凛とした声で言う。
坐っていた座布団から降りた。
陸奥は腰を浮かせたが、乙女は「そのまま」とぴしゃりと云い深々と頭を下げた。



「出来も悪くろくでなしの弟ですが、どうかこれから永きに渡り宜しくお願い申し上げます」



これは居候に対して言うべき別れの言葉ではない。

 まるで、それは。


「小さき頃より甘やかして育てましたので奔放自由の放蕩者です」



 辰馬が此処に帰って来た日。



「だがこの世で唯一あしの弟じゃ。愛しゅうて敵わん」


何処をどう来たものか、袴は薄汚れ泥がこびりつき、衿は垢染みて、
頭は此の二月ほど櫛を入れていないように見えた。
日に焼け、背もまた少し伸び、顔つきは少年だった頃の面影を残しながらも精悍になり一人前の男の顔をしていた。

しかし、愛嬌のある目で「姉上様、息災で居られたか」とにこにこと笑いかけたとき、
放蕩者と殴りつけたい衝動と同時に、不覚にもよくぞ生きて還ってきたと抱き潰してしまいたかった。
しかし、その言葉を飲み込まねばと自分を律した。
そうする人間は他にもいる。

だから自分はそう、とはしてはいけないのだと。

「恐らく陸奥殿には多大なご迷惑をおかけする事と存じます」


 姉であり母であり父であり。
 そう在り続けなければならなかったのだと。


「じゃがどうか広い心を以ってあしの代わりにあやつを、こん世の果てまで見届けてやってくださいませ」



姉弟。
この世で唯一、同じ血の流れる者。



「宜しくお頼み申し上げる」



畳に額を着かんばかりに手を着き身を小さく屈めた乙女の声は、
いつもの凛とした声ではなくところどころ掠れていた。
そのままと動きを止められた陸奥はそれを震えるような心で聞いた。


乙女はすぅと後ろに置いていた細長い袋を目の前に置き、開けて見られよと陸奥に促した。
受け取ればずっしりと重いそれは刀である。
陸奥には見覚えがあった。
山賊に襲われた折、もう人は斬らぬと此処に戻った夜、辰馬が姉へと返した小太刀が陸奥の目の前に置かれた。
一度、これに守ってもらった事がある。

「これは坂本の家に伝わります小太刀。銘はないが長い年月を経て我が祖がきっとついておられる。
どうか守刀として長き旅路にお連れください」

どうしてこんなものをやろうというのか。

幾ら陸奥の父が昔家老職などを勤めていた旧幕の重鎮であろうとも、もう陸奥には家すらも残っておらぬ。
素性云々言うような気性の女性でない事は知っている。
けれどもこれは、家宝というべき代物の一つに数えられるのではないか。

「乙女様、いやこげなもんは貰えんです」

陸奥は首を振り、それを丁寧に乙女の前に押し返す。
いや、乙女はその手を制し陸奥の目を見た。

「辰馬にはもう守刀が一振り遣わされておる」

それは爛々と輝き妙に確信と自信に溢れた目で、陸奥もよく知っている。
海千山千の猛者共をあの手この手で説き伏せてきた目であった。

「おんしじゃ」

眼力というものがあるならばこれはきっとそうなのだ。
射抜かれた瞬間言葉を失う力を持っている。

乙女はそう云うとふっと笑い、陸奥の手元へと小太刀を推した。


「じゃが陸奥、おまんにはそれが無い。辰馬では役不足というもの。
嫁にもいっちょらん娘を足らぬ弟が預かるのであるから、あしにできるのはこれくらいじゃ」

どうかお持ちくださいとまた手を着き頭を下げた。
陸奥はそのまま言葉もなくそれを受け取る。

胸の前でしっかと持って、返す口実もやり方も一瞬で消えた。
乙女さんにゃぁ呑まれるのう、と以前気難しい取引先の老人がそう笑った事を思い出した。
こういうものなのだとようやく分かった。


「なぁに、あん馬鹿が悪さをしよったらこいつで切り落としちゃれ」


はははと冗談交じりに云ったのは陸奥の気を軽くするためだろうか。
もう乙女の声は掠れてなどおらず、普段どおりのざっくばらんな女性に戻っていた。
誰よりも信頼でき、情に厚い、そして誰よりも頼もしい尊敬すべき乙女にだ。

「それでは私からもお願いが」

陸奥は行李に仕舞わず置いていた袋を出した。
代わりといっては申し訳ないが、これをと取り出す。

乙女は流石に顔色も変えなかった。

「長兄の脇差でございます」

戦場から持ち帰られた兄の脇差。
唯一の形見である。
しかし先祖代々の菩提寺はもう戦火で跡形も無くなっていた。

「私はもう既に帰る家も親も居らず、この世に寄る辺無い者にございます。
此処を出ますればいずれ宙の果てで朽ちるやもしれません。
しかし出来る事ならばこれは此処に置いて行きとうございます」

実家は跡形もなくなり故郷と呼べるものは何もない。
唯一この街と母が最期に過ごした此処が自分の故郷と呼んでももういいのではないかと思う。

「兄達が、父が守ろうとしたこの国。母が眠る、此の地へ」

もう郷の言葉など殆ど忘れてしまった。
すらすらと口をついて出るのはこの地の言葉。
故郷を裏切ったのではなく、染み付いてしまった。
それほどにこの地で恩恵を受けた。

命を貰い、仕事を貰い、屋根を貰い。




 出会いを貰った。




「それでは、私が責任を持ってお預かり致しましょう」


乙女はにこりと笑い陸奥の差し出したそれを受け取った。
塗りは刀傷で剥げてはいるが、美しい装飾がところどころに施されている。


「貴女が戻られる事を信じて」


女達は互いにそれらをしっかりと胸に抱き、強い視線で互いを見た。
鈍る事の無い眼はその互いを信頼するに足る強さ。
小さく二人は頷いて同時に発した。



「謹んでお預かりいたします」











「おぉい陸奥、そろそろ発つぜよ」

暢気な声と足音が廊下に響いた。
それだけで誰と分かったようで二人はふふと顔を見合わせ笑いあう。
ひょいと顔を覗かせたのは辰馬であった。

「なんじゃ、姉上様と二人して」

頭を掻きながらへらへらとしまりの無い顔で覗き込む。

「女同士の話じゃ、男のおんしにゃ関係ないろー」

乙女はそうぴしゃりと言った。
すぅと立ち上がり陸奥からの預かり物を大事に抱えた。
思わせぶりな視線を陸奥に投げて小首を傾げる。

「のう陸奥」

まるで共犯者のような合図。
同じように陸奥も下から見上げるような視線を投げた。

「そうですのう」


行李に乙女からの預かり物を仕舞い、紐でしっかりと結わえた。
辰馬が連れてきた新隊員の一人が後ろからすぅと現われ運びましょうとそれを玄関先まで運ぶ。
乙女はついでにこれも運べと彼を連れて部屋を出た。

何もなくなった離れの部屋はがらんとして、あるのは庭の桜の木から舞い散る花弁ばかり。



「何を話しとったが」

辰馬は鴨居で頭を打たぬよう屈みながら廊下へ出て陸奥に尋ねた。
陸奥は微かに笑いながらふいと顔を逸らした。


「女同士の秘密じゃ」


そう、言えない。
決して言えぬ。


 「永きに渡り、この世の果てまで」

あんな風にこの男を託されたなど。
まるで結婚の許しを貰ったみたいではないか。


「なぁん、いやらしいのう」


辰馬はワシは除け者かぁと渋い顔をして見せた後、やらしいやらしいと云いながら暢気に言った。






 *







港に停泊させていた船の前には、壮行式かというほどに人が集まっていた。
馬鹿なことをやりに行くらしいと聞きつけた近所の人たちである。
昨晩散々飲み散らかしたというのに、皆青い顔一つせず口々に別れの言葉を言う。


涙もなければ別れを名残惜しく飾る言葉も無い。
乙女も二人に身体に気をつけろとだけ言った。


陸奥は帯の間に挟んでいた懐中時計を見る。
そろそろ港への出発の刻限である。
暢気そうにあちらこちらの人と喋る男を捕まえ、辰馬と呼び時計を示した。
おぉ、ほうかと頷く。

「そいじゃぁお父上、姉上様。それから皆々様」

殊更大きな声で言う。

「そろそろ時間じゃ」

嬉しそうに沢山の人を見渡しながら、船を見上げた。


「皆様、御達者であられますよう」


一瞬しんとなった。
けれどもそれを打ち破るかのごとく陽気な辰馬の笑い声。
ほいじゃぁと行ってくると手を上げ別れの一歩を踏み出す。



これが永訣の朝になるやもしれん
けれども坂本は軽やかに手を振る。

じゃぁなと手を振る。


船のタラップに足を掛けて皆が乗船するのを待つ。
陸奥は殿でそれを見届ける。
自分の番となり金属製のステップに足音を響かせた。

そのとき。




「おぉ、狐の嫁入りじゃ」


初めに乗り込んだ辰馬が手を宙に翳してそれを受け止めた。

よく晴れていた空から、ぱらりぱらり。
あたたかい雨粒が落ちる。
これは誰の涙雨。

空を見上げる。
小鳥が舞う静かな春の日。
雲がゆっくりと流れている。



「陸奥殿」


不意の声に振り返る。
沢山の人たちの中からたった一人を見つけ出す。


「よろしゅう頼む」



 誰かが叫んだ。
 誰かなんてすぐに判った。



振りかえり声の主をみた。
涙などその人には似合わない。






陸奥は手を振る。

軽やかに手を振る。







 そう、彼女の愛しき弟の真似をして。








END


WRITE / 2007.11.3
長々とお送りいたしました永訣の朝、お楽しみいただけたのなら幸い。

宮沢賢治の同名タイトルの詩とは何の関係もなく…。
タイトルだけはお借りしたようなものですが。

「永訣」というのは本当は死別を意味します。永久の別れというやつです。
様々な死と最後は全く想像もできぬ未来への微かな不安と希望。
そういう意味も絡めてこういうタイトルにしました。

しかしながら久々に長編書いたので達成感があります。
ちなみに一番書きたかったのは

「ワシはなに言われてもえいがやけど」
「往来で男の上に跨るのは、ちくとはしたないき」
「今度ワシの閨に来て跨っとうせ」

このたった三つの台詞の為だけにこの長編を書いたといっても過言ではない。
書けて満足。
えぇ、総ては自己満足のためです。

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