ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

よしやうらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや



-室 生 犀 星-




「 遠 く に 在 り て」











寒い。




真夜中に目が覚めた。

身を捩って枕もとの時計に手を伸ばす。
まだ夜中だ。



見慣れぬ天井をぼんやりと眺めながら瞬きをした。



久方ぶりに陸に降りたからだろうか。
それとも湯あたりついでの寝間での運動が気を高ぶらせているのか。
或いは慣れない高価な宿の柔らかすぎる蒲団に。

それらに緊張して眠れないというわけでもあるまいに。




宙へ発ってからどのくらい経つだろう。
地に足を着けて暮らしていた方が長いというのにおかしなものだ。
陸の上に立つと自分が異邦人にでもなった気がするときがある。



故郷は此処の筈なのに、心は遥か彼方、
まだ見ぬ世界の果てへと進んでいるから。





大晦日、坂本に連れられ土佐へ戻った。

故郷と呼べるものがもう無い自分には、盆暮れ正月の居場所は無い。
どこかへ旅行でも行こうかと温泉宿への逗留を考えていたら、
そんな事はさせるかと無理やりに坂本の実家へと連れられていった。

嘗て居候させて貰っていた坂本の家は懐かしく、
姉上様や大旦那さん、そして旧い同僚の顔を見た正月だった。



宙へ発って初めの正月から数年経つ今日まで続く慣習である。
三箇日坂本の家で過ごし、四日からの仕事に備えて江戸に戻る。

思えばもう、そんな生活をずっと続けている。

今年、何を思ったか坂本は三日の夜ではなく、昼には坂本の家を出た。
江戸まで戻るには汽車か船しかない。
大小問わず船好きの辰馬は正月早々に船酔いするのを避けて毎年汽車で江戸まで帰っていた。

しかし今年は江戸に戻るのではなく、播磨まで行くことになっている。
快援隊の荷が播磨の倉庫にあり、年末年始の輸送の関係上そのまま同港へ留め置きになっていた。
輸送時間と費用、それから入港料を考えれば、
江戸のターミナルに一日余計に船団を繋いでおくよりも此方から出発したほうが安上がりというもの。
貨物船を一船回してもらい本隊とは地球を出た場所で落ち合う予定になっている。



郷里から出た船は播磨までの直通ではなく此処で乗換えだと降ろされた。
船を乗り継ぐのかと思ったらそうではなかった。

乗り換えるべきは鉄道であった。

思えばあそこでおかしいと思えばよかったのだ。
三日三晩あの家のペースで呑んだりしていた所為で少々朦朧としていたのやも知れぬ。
移動する最中に本隊へ一日早く戻った船番が、
荷の搬入が遅れているので半日寄港が遅れると言ってきた事も、
今となってみればおかしなものだ。
そう告げると、じゃぁ寄り道していくかと辰馬はぼそりと言った。

播磨駅までの急行電車は生憎その駅からは出ておらず、
木枯らしの吹くホームでアナウンスを聞いていた。

辰馬はやはり船酔いしたらしく青い顔でベンチに座っている。


何のつもりかと聞けばよかった。


手渡された切符の降車駅は見覚えの無い駅名で、
播磨港にはまだ程遠い場所であることは明白であった。

意味のないことをする男ではない。
坂本が吐いている間、ふと路線図を確認して、そのとき漸く思惑が判った。






ガタガタと電車が走り、穏やかな海岸線をひた走る。






どういうわけか坂本は珍しく黙ったまま、次々と車窓の外、
移り変わる冬の海をぼんやりと眺めていた。
それに倣って自分も黙っていた。
暮れ行く空と紅い色の海を見たくなくて、目を閉じていた。



私は行きたくはなかった。

駅名には見覚えはなかった。
しかしその沿線には見た覚えのある名が連なる。

子供だった頃、こんな汽車など走ってすらいなかった。
徒でずっと戦火を逃れて、海に行き当たり、
逃れ逃れて、あそこへ辿り着いた。






記憶も無い。
知る人もいない。
父を奪い、兄達を母を追い出した。


嘗ての故郷。

紀州。

その地を。





ここへ来たのは、随分昔だ。



たった一度、菩提寺を訪ねたことがある。
もう何年も、何年も前だ。

せめて母の分骨をと思い、宙へ経つ前に訪ねた。

菩提寺は跡形もなくなっていた。
荒れ果てて整地すらされず、風雨に晒された寺社の家屋の焼け焦げた残骸、
参るものが居なくなった墓石が崩れ落ちていた。

記憶を辿りながら先祖代々の墓を探した。
だが何も判らなかった。

誰に尋ねればいいのか、誰を訪ねたらいいのか、
それすらも自分は幼すぎて覚えてさえ居なかった。
覚えていたとて、訪ねることなど出来なかったであろうが。



あれから一度も、戻っていない。












ぼんやりと寝起きの頭でそんなことを考える。
鼻の奥が痛いのは、冷たい空気の所為だと手の甲で摩った。





随分静かだ。
世界に音が無い。

年末年始冷え込むという天気予報は的中で、
土佐では降らなかった雪が大平洋上ではちらついていた。


灰色の空と海。


雪に馴染みが無い辰馬は船酔いの余り、三人がけのベンチを占領しながらも、
一瞬まともに戻ったように空を仰いで綺麗だといった。
私は綺麗などとは思わなかった。


灰色の空も海も、好きではない。
雪も、灰色の空も、暗い色の海も、さむい、暗い夜も、厭だ。
大嫌いだ。








切符に記載された駅に降りるなり辰馬は黙って歩き始めた。
厭なら厭と言えばよかったのに、どういう訳かその後をついて歩いた。



辰馬の思惑はなんとはなくわかっている。
だから、いやならいやと言えばよかったのだ。




見覚えの無い景色、けれどもここはあの日と同じ場所なのだ。
無言で歩く。
十五分は歩いただろうか。いやもっとかもしれない。
頬を弄る風は向かい風で、拒むように強く吹いた。

冬の日暮れは早い。

ふっと辰馬は足を止める。
何を見ているのかと視線を上げればそこは公園であった。
周りは住宅地があり、夕方も遅くもうだれも子供は遊んでいなかった。



”嗚呼、見る影すら無い”




朧げな記憶が断片的に現れては消えていく。






「辰、早う往のう」


今日中に播磨に着きたい。
どのくらい掛かるだろう。
宿の手配もせねばならぬ。



はやく、はやく。

ここではない、どこかへ。


木枯らしはそうしろとばかりに強く吹く。
私は聞かぬ振りをした。


 辰馬の下駄がかろんと鳴る。

木枯らしの吹く日なのに素足のままだ。


「泊まって行くか」









それきり何も言わず、駅前まで戻ってタクシーを拾った。
一切の相談も無く、乗れと促されるまま車中に押し込まれて行き先を告げた。
連れてこられたのがこの宿である。



食事は上々であった。
風呂も広くてよかった。
内風呂のあるお部屋でなくて申し訳ないと恐縮した大番頭が坂本に言っていたが、
なんら気にする事は無く急に無理を言うたきにと笑っていた。




何の為に。




問いただす事もせず、ただ黙っていた。

辰馬は私が黙ると大抵怒っちゅうか等と機嫌を取ってくるのだが、今日はそれも無い。
食事の前に温泉温泉と普段と変わらず一人で喧しく部屋を出て、
箸の進まぬ私を見て美味いぞというだけであった。

長風呂をして湯あたりした私を介抱し、
そのままいやらしいことを散々して、寝入ったのが普段よりも早い十時過ぎ。






随分冷えると隣を見れば、先ほどまで眠っていた筈のものが居なかった。
手を差し入れてみればまだほんのりと温かい。

そうか、だから背中が凍えたのかと肩を撫でる。
夜中である。
どこへ、と疑問がふらりと立った。


腕を立て、寝間を抜け出そうと身を起こす。

その時漸く自分が何も身につけていないことに気がついた。
そうだ、あれは寝入ったと言うよりも。
もう体中が怠くて力も入らなくて、起きていられなくて。
終わった後、髪を梳きながら背を抱いた坂本の言葉を子守唄に寝入ったのだ。

慌ててさっき乱れに乱された浴衣を枕元から引っ張る。
下着はどこだと手で探れば、違う布の感触が指に触れた。
蒲団の中で身支度を整えながら、寝間着の帯を結びなおす。

その時、しゅという音と共に、
ぼんやりとした灯りが障子の向こう側でひとつ燈った。
燐寸を擦った音。
微かな、煙の匂い。

丹前を羽織って張りかえられたばかりの障子を開ければ、
部屋の寒さなど物ともしない寒気が足元から立ち上った。




「なにをしゆうがよ」




普段はめったに呑まぬ煙草を咥えて辰馬は外を眺めている。
庭を眺められるに仕立てられたそこには二客の椅子が据えられていた。
舶来のものらしく、背もたれに入った貝のモザイクが美しい。

「寒いのォ」

辰馬は返事にもならぬような事を言って煙を吐き出した。
灰皿を見れば吸殻がもう一本。
酒の入った湯飲みがひとつ。

「火の気が無いところに居るからぜよ」

煙草の煙は好きではない。

髪につく。
着物につく。

辰馬は寒いと云いながら庭に面したサッシを細く開けていた。
換気をしているつもりらしい。

閉めりゃぁよかろうと戸に手をかければ、ほっちょきと制される。

外の音がしない。
理由はすぐに判った。

硝子戸の向こうは雪が降っていた。
さっき風呂に入ったときは降っていなかったから、二時間程度で積もったのだろう。
衾雪、とまでは行かぬがしんしんと積もり行く様子を見れば、朝までには世界は白く覆われているだろう。



「雪を見ちゅうがかえ」



辰馬は憧憬を込めた目で庭を眺めた。
こちらを見もせず、舞う粉雪を不思議そうに追う。

「郷里にゃ降らんから、永遠の憧れかもしれんき」

深深と風も無く降る雪は世界を閉ざしながら、ただ静かに空から舞う。
陸奥は対面にある椅子にも座らず、突っ立ったまま丹前の前を掻き合わせた。
黙ったまま、降る雪の音の無い世界を二人して眺めた。


「寝やせんか」


一晩中眺めるつもりだろうか。
辰馬は微動だにしない。
紫煙は晴れて、冷たいばかりの風がサッシから吹き込み、
否が応にも手足を凍えさせる。




「此ン宿」


短くなった煙草を灰皿に押し付けて辰馬がぽつりと零す。


「むかぁし紀州の立派な武家屋敷じゃったそうぜよ」


冷たい。
足の裏からじんじんと、寒気の棘が刺す。
内側へ入ろうとする氷柱のようなその棘を、同じように凍えた足の甲へ擦り付けた。




「戦火を逃れて此処に移築されて、温泉宿に姿を変えたということやか」




なんでそんな「もの」を知っているのだろう。





新しい畳の匂い。
張りかえられたばかりの障子。
部屋の境の欄間は、藤の透かし彫りが美しい。
所々傷のある柱。
対照的に廊下の床板は真新しく、白木の匂いが未だに香る。



「大きな、お屋敷やったんじゃの」



椅子に肘をつきながら、辰馬は相変わらず雪の降る様を眺めた。
世界に平等に降り積もる雪を。


細く開けていたサッシを閉めながら、
曇り始めた硝子に自分の姿が映ったのが見えた。
一瞬、固く目を閉じ目を逸らす。


凍てつく空気に蝕まれ、
息が出来ないほどだと、つまらないことに思考を摩り替える。
内鍵を掛けながら、指先が自由にならない歯痒さへさらにスイッチバック。





なぁ、なぜこんなものを探した。
頼んでなどいないのに。
お前の心は分かるとでも言いたいのか。



否、言わない。



辰馬は言わない。
そんなこと絶対に言わない。



 自分とお前とは違う人間。
 だからすべて分かるはずもなければ、分かる必要もない。




そう言うんだ。

だから、きっと。





神仏には祈らない。
誰も助けてはくれないから。
だけど。

これは何かの巡り会わせで、
それが今日であったと言うだけで、
だから誰を恨むことなく、
成るべくして成り、巡るべくして辿り着いたのだと。

きっとそう言うんだろう。

例えばそれが誰かが引き合わせた巡りあわせでも、
その誰かと自分が出会わなければ巡らなかった縁であるのだと。

複雑に絡み合いながら人と人の縁は糸のように縺れて、
一度も途切れることない人が引きずる糸は、自分自身の足跡を辿って絡み付いて。




いつの間にかお前が一番ほしいものを、引き寄せるのだと。









 神仏には祈らぬ。
 でも運命を信じている。

 めぐりあわせだけは、辰馬が信じる唯一の「偶然」だった。









閉じていた目を開ける。
結露しかけた硝子戸に自分が映る。


音が無い世界と言うのは、不思議だ。
世界中で、起きている、いや生きているのが私たちだけではないのかと思える静けさ。
閉塞感、いや、不思議と息苦しくない。
世界は雪で埋められてこの部屋に閉じ込められていると言うのに、
まるで暖かい真綿で肩を背を包まれているようで。



凍えているはずなのに。
誰かが柔らかく背を抱いているようで。








「此処にゃ昔、サッシなど嵌まっちょらんかった」







裸足には辛い冷え込み。
指先が悴む。

「雨戸が嵌まっておった。廊下はくるりと庭を囲っちょったがよ」


腕を組みながら丹前の中の腕を摩る。


「庭にゃ木登りするにゃぼっちりいい木がこじゃんとあって。
 父上様や母上様の目を盗んじゃぁ、兄上様たちと木登りをした」

松の木、楓、楢の木。
それから客間の前には池があって、四季それぞれに咲く花が咲いていた。

「そりゃァなんともはちきんじゃの」

くすくすと辰馬は笑う。

「一遍、落ちて、未だに頭に傷がある」

「耳の後ろじゃろう、知りゆう」

陸奥は指先でそのあとを辿った。
木登りがばれて大目玉を喰ろうた、とくすりと笑った。
ははは、辰馬は笑う。


「柿ノ木ばあはいかんと庭師のじいさんがよお言うちょった」

脆い柿ノ木はいかん、枝がすぐに折れると、告げ口をしない代わりにそう言った。

「けんどどれが柿ノ木かわからず、兄上達の見ちゃーせんげに木登りをしちょったら」



「枝が折れて落ちた」



三つか四つ。
遊び相手の居なかった自分を歳の離れた兄上たちは良く可愛がってくれた。

「頭を切って泣きはせんかったが着物は血まみれ。
 たまげた二番目と一番下の兄上様が担いで母上の所へ連れて行った」

足の速かった一番下の兄上様は縁側から縫い物をしていた母上に報せて、
それより一足遅かった二番目の兄上様が自分の着物も真っ赤にしながら駆け込んだ。
母上は驚きながら、というよりも絶叫して、下働きの男に医者を呼ばせた。

「医者が呼ばれて手当てをされちゅう間に、
 兄上様二人は、学問所から戻んてきた一番上の兄上様と母上にこってり絞られたんぜよ」

血が乾いて背中が痒かった。
滲みる薬が付けられて、その時初めて泣いた気がする。

「おなごにどういう遊びを教えちゅうがかぇ、とゆうて」

兄上様二人は頭を垂れて、何が悲しいのか泣いておった。
陸奥が陸奥がと一番下の兄上様は痛とうも無い筈なのに鼻水まで垂らしていた。

「やきど登ったがはあしの意思やか言うて頑として譲らんかった。
 ほいたら、強情なのはおまん譲りじゃのうと父上が母上にゆうちょった」

父上様の顔が朧げなのは、あんまり家に居なかった所為だろうか。
だけれど強面の父上様であったが、大きな口をあけて笑うことだけはよく覚えている。

「誰かの所為にしたら誰かの命を左右するというちょったがは父や母や兄達というに。
 皆あしにすまんすまんと謝るがやき」

その日は熱が出た。
兄上様たちが水菓子を手づから持って見舞いに来た。
すまん、本当にすまんと熱い手を握ってくれた。

「おかしなもんじゃのと思うたがよ」


もう居ない。
誰も居ない。
この世界のどこにも。


私の手を握った兄上様たちも。
早く治りますようにと、お社へお参りに行った母上も。
城から御役を放り出して矢の勢いで戻った父上も。

誰一人として。

あの家が空になる日を覚えている。
どうしてここから出なくてはいけないのかと思った。

木登りも出来なくなる。
池の鯉に餌もやれない。
花を摘む事も。
庭になる石榴をもいで食べる事も。

その日は下働きの者達が皆泣いていた。
母上と一番上の兄上様が、皆すまん、息災でと頭を下げていた。
庭師の爺さんが御元気で御元気で、ご丈夫に育たれますようにと顔を覆ったことを覚えている。





嗚呼。
もう、何も残っていないと思っていたのに。





木の色の違う欄間は移築されたままのものなのだろう。
透かし彫りが美しい。
夏の日には池の水面に反射した光がそこから透けて、きらきらと天井に絵を描いた。
それを見ながら昼寝をした。


そう。
昔のことだ。

腕を組み肘の辺りを擦りながら、季節外れの記憶を捲る。

そう。
もう十年以上も前の事になるのだ。





「おんしが育った家は、こがぁに大きかったんじゃのう」




辰馬は相変わらず外を見ながら、掃除が大変じゃと笑った。
しかしすぐに神妙な顔になった。



「余計な、真似やったか」



遠くに在りて、思う場所。
それは存外近くにあった。
船と汽車を乗り継げば一日も掛からぬ場所。
異土のかたいとなる運命を、我等の背に載せた故郷。





「ここは」



帰る場所。

それはねぇ、どこ。





ここは。

ここには。

ここでは。






「もうあしが家じゃないきに」





 帰るところには、あるまじ。





「あしの故郷は、もうここには無い」




待つ人もいない。
知る人もいない。
見た場所さえない。

私を待つ人は、此処には居ない。



それは哀しくある。
誰も居ないことに、誰もいないことに。
ここには誰一人として、お帰りなさいと灯りをつけて待つ人がいない。


ほれに、とこぼす。
足の裏が冷たい。
爪先が悴み感覚が無い。

嗚呼、あの家は温かかったと昨日炬燵で寝入った事を思い出す。


「あしが勝手におもうちょるだけじゃが」


こがぁなところで寝たら風邪を引きゆうぞと、
ほろ酔いで転寝していた私と辰馬を姉上様が揺すり起こした。
起きや起きやと口煩く、布団を敷いて寝やと炬燵から引きずり出そうと立ち上がる。
まぁまぁと遠くで大旦那さんの声がした。
布団を掛けてやっちょきと自分もほろ酔いで、もう一本と姉上様に強請っていた。

「あしの故郷は、あの家だけじゃ」

あぁもうと姉上様は実家じゃァ思うてと云いながら、
肩が冷えぬようにと暖かな毛布を首までしっかり掛けてくれた。
いかん、起きねばと思えども、陸奥まで仕様の無いのぉと頭の下に座布団を差し入れてくれた。

「姉上様がおって、大旦那さんがおる、あの家だけじゃ」




もう、此処にはなにもない。
菩提寺は戦火で焼けてしまった。
墓もどうなったかわからぬ。
知った覚えの無い街。
友すらいない。



 私を待つ灯りはない。



家を出るとき、来年の正月は皆で温泉へ行こうかと姉上様が言っていた。
来年のことを言うと鬼が笑うぞと大旦那さんが言う。
辰馬はじゃぁ陸奥探しとうせと当たり前のように言った。


「人云うものは人に帰るもんじゃろう」


じゃぁまた盆に戻りますと私も当たり前のように言った。
気をつけやと外套を手渡された手が、とても温かかった。


「やき、あしが故郷は此処じゃぁない」


記憶に重なる影はただのまやかし。
本物ではない。
この明かりは私のために灯されたものではない。

だから。



「もう、此処じゃぁのうなった」



だから、此処はただの古い武家屋敷を移築しただけの温泉宿で。
今日は足止めを喰ったから我々は逗留しているだけで。
重なる影に見た幻などはただのまやかしで。
柄にもなく古い記憶が甦ったのは、もう私がそこから遠くとおく離れているから。









暫くの沈黙の後、それ、と辰馬が此方を見上げた。



「ワシもはいっちゅうろうか」



冗談のような本気のような、上目遣いの少々足らぬ質問。
なんじゃそりゃぁとあぁと天を仰いだ。

「阿呆、人知れず居らんようなるもんが何を言うがかぇ」

ああ、違いない、と得心したように頷いた。
そこは噛み付けと思いながら、
鷹揚と言っていいものか判らぬその無邪気さに呆れもし笑いもした。
辰馬は、ほじゃったらと少し考え込むように言葉を探す。

「遠い未来に」

 明日のことも判らぬのに。

「お父上も、姉上様も居らんようなったら」

 正月早々縁起の悪い。

「おんしワシの故郷になってくれるか」





恥ずかしげもなくそう言って、駄目かのうと尋ねた。
何じゃ、そりゃァ、口説きゆうがかと吐き捨てようとしたらううんと首を振る。


「いやぁ、冗談抜きで」


本気か、冗談かわからん男なのは、年が明けても相変わらず。
人生自体が冗談じゃぁ無いのだろうかとすら思ったが、
答えを待っているらしい様子に舌打ちひとつ。

「ほうじゃの、そん時は考えちゃってもえぇ」

そうとだけ言った。










「冷えたの」

「火の気がないきに」


足の感覚が無い。
こんな夜更けに長話など正気の沙汰ではない。
蒲団で温まった身体はすっかり芯まで冷えていた。

足を擦るようにしたのを見て辰馬は、あっためちゃろうかと手を伸ばす。
つい先ほどの、軽い、運動を思い出して、もうえぇと言った。

「なん、遠慮せんでも」

腰を浮かして手を取ろうとするから払いのける。
そんなには、身体が持たぬ。

「遠慮じゃぁ無いきに」

三遍やってもまだ足らんゆうか、と応戦すれば、
おぉ、あと二遍は堅いと何故か自慢げににやりと笑う。
ついさっきだって、思わず言葉を濁したら、
だって一週間ぶりじゃッたがと、理由になるのかならぬのか判らぬ事を言われた。
あァもうどういう神経だ。


「寒いなら風呂に入りとうせ、今なら露天が貸し切りろう」

そりゃぁえぇと、徐に手を引かれた。
おんしも入るかえ、と行動と動作がまるでちぐはぐ。

「いやじゃ、何ぞやらしいことをされに決まっちゅう」

手を離そうとしてもその手はしつこく離れずに、
まぁまぁと腰に手を回され、反動ですとんと膝に収まった。

「あったりまえじゃ、一緒に風呂には入れるのにやらしい事の一つも考えんと何が男なが」

真夜中だというのにあっはっはと笑った。
迷惑じゃろうと口を塞ごうとしたら、不意を衝かれて奪われたのは此方。




深深と雪が積もる。
音もなく、静かに。




口唇が離れて、子供を抱くように腕の中に閉じ込められる。
互いに冷えた身体。
辰馬の首に触れた額だけが温かい。


「明日、汽車は動くかのう」
「動いてもらわにゃァ困る」


夜泣きをした子供を寝かしつけるように、辰馬はゆっくりと身体を揺する。
私はここで、こうやって眠らされた事があるのだろうか。
覚えていないけれど。

「雪だるまが作りたいのぉ」

微かな煙草の匂い。
糊の利いた浴衣の匂い。
背中を支える腕の感じ。

こんなに近くに居ては、思うことすら出来ぬではないか。




しんしんと。

世界に平等に、雪が降る。
音もなく、ただひたすらに。





「ガキか」


辰馬はあははと笑って軽々とそのまま抱き上げた。
明日は早起きさんじゃと云いながら。





障子を閉めた。






どさり、屋根から雪が落ちた。
それきり、音は消え去る。
雪が世界をくるんでのみこむ。





すべてのものが、目を瞑る。

















end


WRITE / 2008 .2 .1
拍手を書かなきゃいけないのになんでこんな…。

冒頭始まって数行で「あ、拍手じゃ収まらない」と思い至って書き上げた。
ただ単に一緒に温泉というのに萌えただけ、うん、いいよね温泉は。

冒頭は凄く有名な歌ですね。
室生犀星。
この人の詩集のタイトルがいちいちかっこよくて好きでした。
一応墓場で運動会してそうな論文を書いても腐っても文学部(笑)

あとかなり今更なんですけど、これ書いてるときは気が狂うんじゃないですか?
と言うほどある曲をヘビロテしてました。しませんか、そういうこと。
しかし、これ一月前に書き上げていたんですが、やっぱり時間を空けると加筆修正できていいですね。
むちゃくちゃ加筆しましたよ。(笑)余裕のある運営を心がけたいと思います。


ちなみにおまけもあります
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