お前はそんなものを盗むのですか
それはねうちがあるのですか



「ねうちがあろうがなかろうが、そんなことはかんけいないのです」


それはまことに、好き好きで









「蓼  盗  人」




ラ  ヴ  ・  レ  タ  ー
−長崎との往復書簡−



1



異国のようだと思った。

港には見たことの無いさまざまな船が停まり、新しい建物は一々異国の様である。
その狭間に古い建物がひしめき合うように建っている。
仕事を終え夕飯もそこそこに土佐を発ち、都合一日半掛かった旅路を思い返す。

「まっこと此処は異国じゃぁ」

出立した桟橋とは比べ物にならぬほどの近代的なポートだった。
江戸に間もなく完成されるターミナルほどではないのだろうが、
それすら見たことの無い陸奥にはひどく新鮮に映った。
客船が接岸されると乗客たちはゆっくりとタラップを降り始める。

陸奥も小さな風呂敷包みと革張りのトランクを持って人の流れの中にいた。

正午を回った日差しは強い。
太陽に手を翳しながら目を眇めた。
下船する客、見送り、出迎え、船の見物客、それらで港はごった返していた。
迎えの人間が来ているはずだが此の人手では会えずじまいかも知れぬなと陸奥は喧騒を見渡す。
もしも誰も来なくとも下宿先の住所は知っているから不都合は無い。

そのとき、人ごみを掻き分けながらおぉいと見知った男が手を振った。
陸奥はちょっと目を眇めて、その人物の姿を確認するとそのまま手を振りかえす。
岩崎だ。
先だって辰馬が長崎にて同郷だと言う理由で仲良くなり、一度酌み交わしたことの或る間柄である。

「ようおいでに、陸奥殿」


肩っ苦しい挨拶は止めとうせ、
陸奥がそう頼めば久しぶりと互いに握手をした。
辰馬とそうは歳の変わらぬ男だが、非常に礼儀正しい。
初めてあったときも陸奥殿と呼ばれてこそばゆく、
呼び捨てでかまんですき、と恐縮した。

「やったらそう呼ばせてもらおうかの」

アレに噛みつかれんかのと岩崎はその顔に似合わず脅えたように首をすくめた。
出口へと二人並んで歩きながら、陸奥はちょっと周りを見渡す。

「ところで、あしを呼んだ本人はどこですかの」

来いと言われて、行くと伝えた。来いと言った者が迎えに来るのが道理であろう。
けれどもその姿は見えない。

「遅れちゅうんかのォ」

空とぼけたな、と陸奥は岩崎を見た。
出先での、ワシは別で来たと頭を掻いたがあからさまに言葉を探している風であった。

「何時出たがか、昨日かぇ」

間髪いれずに問うてやったら、岩崎は更に言葉を探したがどうにも見つからなかったようだ。
一昨日じゃ、そう言った。
玄人か素人かは知らぬがよくよくまァ遊学の身の上で、
と溜息混じりに呆れ返れば帰して貰えんのかもしれんのぉと笑った。

「贔屓の妓のことなぞどうでもえぇが、借金はいかんのォ」

おまんの言うとおりじゃと岩崎は大袈裟に頷いた。
人の群れが途切れ、漸く空いた。
ターミナルのある建物近く、からんころんと暢気な下駄の音がする。

陸奥は顔を上げた。
此の雑踏の中で唯一つの足音を聞き分けた己の耳。

「いよぅ、陸奥。久方ぶりじゃの」

岩崎は間の悪いと言いながら一歩下がった。
さっきの会話の後ではどう見たってお楽しみの後、昼日中に一風呂浴びてきたのだろうか。
白粉の匂いを落とそうとしたのかどうかは分からぬが逆効果だ。
どうにも芳しい石鹸香りがした。しかも珍しく小ざっぱりとした形をしている。
いつもはぼってりとした黒っぽい紬によれよれの袴が定番のスタイルであると言うのに、
今日は生成りの掠れ縞の単に博多献上、袴こそつけては居ないが休日と思えばおかしな姿ではない。


陸奥は坂本をじっと見上げた。
坂本はどういうわけか弁解も開き直りもせず、よう来たとその背中にそっと触れただけであった。

「迎えに来るが遅いちや」

陸奥はちょっとだけ怒らせた肩を下ろした。
坂本はあぁすまんすまんと彼女が持っていたトランクを取ろうとした。
えぇ、かまん、そう言いながらも彼女は坂本に荷を任せその隣に並んだ。



岩崎は坂本が今日の今まで女のところへ入り浸っていたのか理解できぬ。



此の「陸奥嬢」が来ると決まった頃の坂本の浮かれ様ったらなかった。
坂本は愉快な男である。
ちょっとおつむが軽そうで馬鹿ばかりやっていてつるむと愉快だ。

だが深遠な考えの持ち主である。ちゃらけたように自分を見せているのか、
あるいはどちらも本物で見たままなのかは分からぬ。

ただ、思いの外切れる男である。時々驚くような鋭いことを言う。
普段から冗談ばかり言っているような男だが、
郷里にいると言う「相棒」の陸奥という人物の事は随分と高く評価していた。
新事業の為の準備を頼んでいるのだと嬉々として長い手紙を書き連ねながら、
度々同送する品を悩みながら買い集めていた。
その送る品は男に送るものではなかったからおやとは思ったのだが、会って驚いた。
歳若い本当に小柄な女性であった。

少々口の悪いところが珠に瑕ではあったが、聡明で利発で、頭の回転も速く博識。
坂本が信頼していることを聞いていた事を差し引いても、印象のいい会う価値ある人物であった。

年齢で人を判断すべきではない。
無論性差でも、である。

長崎に戻り坂本に印象を思ったとおり伝えたら喜ぶと同時に、
あんまり褒めるなやとちくりと棘のある返事を最後にした。
どうにも解せぬ。
それは陸奥の方にも言えることだった。

おかしな二人だ。

こうして初めて二人で居る所を見たが、
互いに喧々とやりあいながらもどこかその後姿はなぜかしっくり来る。

だが、自分も坂本も大柄だから特にそう思ったのかも知れぬが、こうして並んで見ているからだろうか。
随分とまァちぐはぐな相棒ではないか。

おかしなもんじゃと岩崎は二人の背中を見ながら首をかしげた。

しかしまぁ、あの嬉しそうな顔、贔屓の妓の前ですら見せねェ様な優しい顔をしやがって、
岩崎は口にこそ出さぬが友人のその変貌ぶりに首をふり、
やっかみ半分、からかい半分。
邪魔者は消えるとするかと夏空の下、呟いた。












2




宿は、と辰馬は陸奥に尋ねた。

それなら此処にと一通の手紙と供に陸奥は坂本に手渡す。
『乙女』とだけ署名されたその手紙は弟宛のもので、
坂本は歩きながら短い文面を読んだあと先手を打たれたのぉと力なく笑った。

どうしたと岩崎が尋ねれば、ひょいと寄越した。
そこには時候の挨拶すら抜きに宿の名が書かれていた。
そして、非常に達筆で力強い手蹟にて、

「私の目は節穴ではありません。お二人とも勉学に励まれますよう」

そう書いてあった。
逗留先の名と連絡先、それから地図がしたためられている。
聞く処に拠ると彼の姉は非常に恐ろしい女性で仁王さんのほうがまだ優しげだと聞いてはいるが、
なるほどこれは悪さ防止の為かと合点が行った。

岩崎はその住所を其の侭頂戴すると、坂本の手にあった荷物を取り上げた。
積もる話もあるだろうとポーター宜しくそれじゃぁなと二人を取り残す。


「先生ン処へ行かんのか」


岩崎は陽気に笑い、若い娘が行く方が先生は喜ぶと冗談交じりに笑った。
何しろ色の道衰えぬクソジジイである。
自分の娘といってもよさそうな妾に身の回りの世話をさせている。
それに、と岩崎は目を眇め微かに首を傾ける。
その意図は坂本にだけは伝わったようで、奴も微かににやりとした。
陸奥には見得ぬ位置で。その遣り取りは、些かの共謀。
けれども他愛の無いものに過ぎぬ。

恐らく先生は驚くだろう。

噂の女傑。
坂本が頭の上がらぬ女。
いそいそと小間物を送る相手。
そのくせ絵姿一つも見せたがらぬ。

ほいじゃぁのと手を振った。陸奥は会釈して坂本の隣に並んだ。
肩を抱くでも、手を繋ぐでもない。
ただ隣を歩くだけ、か。

これ以上の観察は悪趣味だなと、
岩崎は一人言ちて陸奥の逗留先に足を向けた。




*


勝の長崎での逗留は長いものではない。
今はお役目半分、休暇半分という体で逗留している。
間もなく軍艦奉行のお役を解かれるということで、江戸に居てはさてもやかましく言われるばかり。
今の内にとばかり公費で長期出張に来ているのである。

道すがらその話を坂本から聞かされた陸奥は、役人というのはまっこと気の負う商売じゃと呟いた。
真似出来んし、しとうも無い、そんとおりじゃのと坂本も頷く。

そうこう話している内に、目的の家に着いた。
長崎での逗留先は酷く立派な屋敷である。
ごめんください、坂本辰馬が参りましたと玄関で呼ばえば、
はァいと歳若い女の声がして二人を迎えた。

下女かと思えば、二人を座敷に通したあと手づから茶を淹れた。
まるで御内儀がするように。
先生は間もなくお戻りでございます、と拙い武家言葉で深々と礼をした。

陸奥は淹れられた茶碗の湯気を見たあと、坂本に一瞥を呉れる。

「これはおんしゃァ真似したいろうの」

辰馬はハイと聞いてない振りをした。



勝が帰ってきたのはほんの五分程度後のことである。
おォすまねェと入ってきた男は小柄で壮年の紳士然とした風貌であった。
これが坂本が心酔するという勝と言う男か、一礼しながら陸奥はじっと観察する。

値踏みはやめとくれよ、ばたばたと扇子で風を送りながら陽気に笑った。
なるほど、辰馬とはこういうところでも気性が合うのかも知れぬなと勝手に思った。

「いやぁ、こいつは驚ェた」

陸奥を見た勝の所見である。

その一言にどういう意味が乗って居るのかは陸奥には分からぬ。
坂本からの紹介で頭を下げたが勝は江戸訛りの早口で捲くし立てながら、
合いの手を入れるように坂本が喋るといった具合に会話が流れる。
元々喋る性質ではないから聞き役に徹していた陸奥であった。
暫しは操練所での話に徹したが、だんだんと方向が逸れて、
何故か江戸に居る奥方に此処での生活が露見してしまい、
自分の娘よりも若い妾に身の回りの世話をさせていることまですっかり漏れているらしい。

盆明けに戻るのが恐ろしいぜと笑いながら言う勝に、
いやぁ戻る場所があるきに遊びに出られるいうことをゆうて謝るしかないですのォと笑う。
そりゃァ駄目だ、と勝は言う。

「四度目の浮気で使っちまった」

一体何の話をしに来たのか知らないが、二人してあっはっはと大笑である。
あぁろくでなしで下半身に節操が無いところも似た者同士か。
そりゃァ仲も良くなる筈だと呆れもしながら、陸奥は手水に立ち席を外した。








「オメェの趣味にしちゃァ、随分とまァ、可愛ィらしいな」






不意に笑うのを止めて勝が坂本に水を向けた。
どんな色気の塊が来るかと思ったらよう、勝は坂本が連れてきた客をそう示した。
坂本が大きい所為で特に小柄に感じたのか、背は小さく形は少年のようだった。
一見したとき、正直思ったのは件の陸奥という女性が来られぬのかと思った。
しかし紹介を受け深々と頭を下げてその名を告げたので驚いた。
女性というよりも、まだ少女といっても差し支えは無いだろう。

「坊主の方がまだ色気があるぜ」

色気の無い男袴で髪は高く結い上げて、少々強すぎる眼力、あっさりとした顔。
しかし、地味ではあるが造形は決して悪くは無い。

「オメェさん、あぁ言うのが好みなんだねェ」

歳の割りに落ち着いた話し方と少々ぶっきらぼうにも取れる口調。
安くはないとばかりに、にこりとも笑わぬ。

はァ、先生。何を言うがですか、辰馬は師の言葉に合点が行かぬと言う風に尋ねたが、
空っとぼけるねィと勝はぴしゃりといった。
卓から離れ庭を見るのに立ち上がる。
じわじわと蝉が鳴き、陽炎が立つ。そろそろ日も翳ってくれないだろうかと西の空を見た。

「聞いちゃァいたが、頭も切れンだろィ。
 投資すんならって策出したのもあの娘ってなァ驚いたね」

末恐ろしいね、将来が、煙管に煙草を詰めながら、
果ては官僚、入閣、政治家先生ってかァ、とおどけて見せた。

「あぁ言うのを傍に置くと、役には立つが息が詰まりそうだねェ」

ほうですか、辰馬は事も無げに笑い飛ばしながら、思うたことも無いですきと言った。
ほんとかィと勝は言ったが辰馬はいつものように陽気に笑った。
それは誤魔化しかどうかは勝にはわからぬ。

「ゆうたち、あれも時々可愛げのあるときもあるがです」

「ほぉ、どんな」

のろけて見せろィ、と煙草に火を付けた。
辰馬はえぇとと首を傾げて、宙を見た。
もう一度、えぇとと呟く。


「思いつかねェのかよ」
「年に一度あるかないかですき」

幻の珍獣かよ、或いはそうまでして教えたくないのか。
安くはねぇってかと、勝は辰馬の背中を蹴った。













3

長崎に着いた翌日早々に辰馬は陸奥を操練所へと案内した。

操練所には経歴不問で矢鱈滅多ら若い男がぎゅうぎゅうに押し込められている。
出身は様々だが、辰馬が古い仲間や郷里の有志を説いて回ったり、或いは伝え聞きのような形で参加したもの、様々居る。
何しろ操練所に入ったら海風の香りももちろんだが、火薬やエンジンのオイル、それらに混じって妙な匂いがするのだ。
その匂いがなんであるかは陸奥にはわからない。男臭いというのだろうか。辰馬も無論気がつかぬ。

辰馬は矢鱈と広い操練所の正門から続く道を大股でどんどん歩き、若い娘、つまり陸奥がその後を着いて歩いた。
そこ此処、あそこと案内しながら、早朝といえどどういうわけか噂の人物を見ようと何処からともなく集まり、
程なくしてまるで金の鵞鳥を持っているかのごとく行列になった。

「おんしらぁ、街でこじゃんとおなごは見ちゅうろう」

辰馬は湧いて現れた友人その他にそう言ったが、あの坂本辰馬の女である。

郷里から坂本に届く手紙の多くはその人物からのものであったが、
坂本はその手紙が届くたびに長崎での美しいものを買い求めてはせっせと送っていた。

処でどういう関係かと誰かが冷やかせば、坂本はほりゃぁないと笑って云った。
ワシはこっちがないと、胸の辺りで女性の特性を示すよくあるジェスチャをして見せた。
なるほど、確かに実はついておらぬ。
口が悪く、皮肉屋。冷静であるように見せかけて切れると誰より恐い。面もまずくは無いが、可愛らしさに欠ける。
長所よりも欠点の方が一つ多かったのは気になったが、何はともあれ役に立つという話だ。

噂に聞こえたところによると、女だてらに剣を振り回し馬にも乗り、数多の資格を持ち頭が切れて毒舌家。
体躯は六尺、八手のような手を持った大女、背には青龍刀を担いで顔は仁王のような云々、と噂が噂を呼び一人歩きしていたのだ。
恐らく辰馬の姉との噂が混じっているのだが、現れたのが六尺どころか五尺に満たぬ小柄な少女だったことにも驚いた。

陸奥も黙っていたわけではない。
湧いて出たものの中には幾らか面識があった者もいた。
一人二人であったが、他の者は「噂の坂本の女」と言うだけで騒然とした。

女。女である。

此処に居る連中は何しろ金も殆ど持っていない若造達であるし、女に不自由しないなどという者が殆ど居なかった。
陸奥は恐らく分かっていないが、男臭い中に女が一人でも入るとそこだけ驚くほど清浄な香が漂う。
それは女の姿形の美醜など関係ない。女と言うだけで、漂うのだ。

辰馬は、道を開けとうせぇと言いながら陸奥を庇うように進むが、
件の「坂本の女」を見ようと何処からともなく人間が集まってくる。

縞の袴に生成りの麻の単、決して女らしいとはいえぬ。
が、男など所詮動物である。姿を変えても匂いにつられてやってきたのだ。
陸奥は暫くは黙っていたが突然くるりと振り返ると一喝した。

「見せ物じゃないきに」

散れ、まるで犬を見るように軽蔑した視線を投げた。
これこそ『陸奥』である。
そう云わんとばかりに噂に聞いていた辛辣で、いや悪辣とも言える、侮蔑をこめた物言い。
腹が立つ、と言うよりもおぉ、ほんまじゃとその生態のぴたりと当てはまった事象に何故か感銘の声が上がった。

しかし、一人だけいきり立った者が居る。
郷里で何度か顔を合わせたことのある、と言うか坂本の幼友達で今は鉄砲買い仲間の一人、上杉であった。

「おまんなんか見にきちょらんぜよ、とっとと往ね」

おんしゃぁ饅頭屋かァ、と陸奥はさも小馬鹿にしたように笑った。

どうにもこの二人は仲がよくない。
上杉は郷里で坂本とガキの頃からの付き合いである。
ガキ大将だった上杉と泣き虫だった自分がどうして今更つるんでいるのかわからぬが、
二人で今更ではあるが、悪戯をしに行くことも無いことが無いとは言えぬ。
陸奥はどうにも二人で連れ立って悪戯しに行くのが気に入らないのか、
翌朝帰ると汚い物でも見るように軽蔑の視線を投げて寄越す。
また同行した上杉をも同時に、同等に、同列に並べ軽蔑する。
軽蔑、いや憎悪か、兎も角、顔を合わせると取り合えず口喧嘩が始まるのだ。

「こがぁなところまで何をしにきたがか、饅頭か、饅頭売りに来たがか。宙で饅頭売るながか」
「おまんこそ何しんきた、わかりもせん理論振り回そう思うちゅうがやろうこんクソ女」
「おまんの饅頭頭と同じにしなや。こっちは一等上等な脳みそ積んじゅう。蒸して出来上がりのおまんたぁちがうきに」
「小理屈こねまわしちゅうおまんたぁ餡子を捏ね回すおなごの方が万倍可愛げのあるゆうもんじゃ」
「やったら餡子捏ね回すおなごにどこでもかしこでもこねまわしてもうろうたらえいろう、あしのことは気にせずさっさと帰って小豆でも磨いじょれ」
「なんじゃと表でや、クソ女」
「もう表に出ちゅうがろう、おまんの目は飾りもんか。頭も目も飾りもんちゅうて、お飾りせにゃぁ表も歩けん男ちゅうのは厄介じゃのう」


辰馬はあぁしもうた困ったのうと思いながら、いきなり往来で喧嘩を始めた陸奥と上杉を眺めた。
口が悪くて、辛辣で、短気で、喧嘩っ早い。
多分、似たもの同士だから喧嘩をするんだろうと思いながらも、延々と悪口を言い合う二人を呆然と眺めた。
どういうわけか上杉は悪い奴では決して無いのだが、陸奥のことになると立て板に水といわんばかりに悪口が出る。
少々利己的なところが合って独善的な男ではあるのだが、流石に少々大人げは無い。
そろそろ止めるかと辰馬は一歩前に出た。

その時やめんかと、つい先日遥々北の方から参加したと言う渡辺何某と言う壮年の男性が一喝した。
往来でそんな口を聞くものがあるか、と上杉の口を噤ませ、
同時に貴女もいい加減におよしなさいと非常に威厳のある声で諭した。
あたりは一瞬シンとなる。

「流石ナベさんじゃ」

年のころは自分よりも十歳は上だろうか。
多くは語らぬが、若い訓練生達が諍いを起こすと喧嘩両成敗の精神でまずは一喝して切々と説教をする。
無論此処では皆五分の学生と言う身分なのであるが、
流石に下級武士が多いと言えども魂に儒教が染み込んでいる。
所謂いい意味での年功序列。
年長者に対する礼を忘れられず、頭を垂れた学生はしまったと後悔する羽目になるのである。

しかしながら渡辺の威厳は一睨みで若造どもをぴたりと黙らせる凄味があった。
操練所の学生筆頭は坂本であり、陸奥は坂本の客分である。
余計な真似をと渡辺は丁寧に頭を下げ、さぁさぁ行くぞと野次馬を促した。




「アレも居るとはな」

陸奥が憮然とした顔で云った。
辰馬は敢えて手紙に書かなかったことを少々恨んだ。
確かに鉄砲買いは余暇の趣味、いや、まぁ、色々と言い訳も考えたが本心のところは悪い相手を見られた、の一言である。
陸奥は教授方へ挨拶したいとそれきり黙って、はよう案内せいと鋭い声で言った。




教授方に挨拶をしたときに丁度勝も操練所に顔を出した処らしく、
『噂の』と言うところを強調してこの馬鹿が買ってるから宜しく頼まァと随分軽い物言いでお墨付きを貰った。
生憎盆休み中ということで操練所の船は使用許可は降りていない。
すべてドッグ入りしており点検にまわされており、座学しかする事が無いのである。

操船は実地で憶えた方が万倍も吸収する事柄が多いが、実際に船舶を運行する場合実技だけでは商売はできぬ。
地球は現在、開国しているがゲリラや残党狩り、社会は混乱している。
けれども宇宙空間を支配しているという各異星の加盟し遵守している法律はもう既に確固たるものとして機能していた。
正直、机上の知識も必要なことは分かるが、出来たら敬遠したい類のものである。
幸いにも今回の特別講義はみっちりと一週間毎日八時間の講義を組んでくれるという。
陸奥の参加を願い出たところ、二つ返事で了承してくれたが同時に、

「坂本、特にお前の為だからな」

と矢鱈と目が真剣な教授方の一人に肩を掴んで揺さぶられた。
恐らく休み前に提出したレポートの評価が非常に『よかった』からに違いない。
実技はなんともなく頭に入るがどうにも座学はいけない。
坂本はいつもどおりに鷹揚に笑って遣り過ごした。

初対面の男連中に、「見せもんじゃないきに」と蔑んだ視線を投げた陸奥はそれでもやはりよく切れた。
半年座学と実地をしてきた身と渡り合おうとする負けん気の強さで、
鋭い質問を次々と飛ばしながら、回答に対する更なる質問も的確である。
独学でそこまでやってるならばと講師陣が講義内容を改めたほどだ。

追い抜かれんじゃないのかなどと揶揄されながらも、逸れも嘘ではないほどだった。
朝早くから夜遅くまで陸奥は操練所に詰め続け、教官たちの手の開いた時間を見つけては質問詰めにした。
誰より飲み込みが早かった陸奥の理解力に教官らは舌を巻き、
オメェらしっかりやんなよと誰より勉強が好きでわざわざ夏休みにまで此処に残った面々を見渡した。

夕方までみっちりと特別講義を受けたあと、夕食はその辺りに居た訓練生の誰かと飯を食いに行く。
無論、坂本の主催で、である。

初日こそ噛み付いた陸奥であったが体躯と容貌に似合わぬ度胸が買われたのか、
皆始めは何故そんな無礼な女と夕餉をと思うのだが、
酔いが回り始めると何故かお前腹立つ女だなといわれながらも、
意気投合の一歩前程度には打ち解けた。

陸奥の方は酔っても口は相変わらず悪いし毒舌であるし頭の回転がよすぎて、
口論になれば誰しもがぐうの音も出なくなるのだが、
酒量がある一定の限界量を超えると一気に決壊し、支離滅裂な理論になる。
それが普段理論的な人物であるからこそ、その変貌振りがおかしく、翌日笑いものになる始末。

何しろ陸奥の酒量は然程に多くない。

一合も飲んでいない間に限界が来て奇行を始める。
一夜目は一升瓶に説教をしていた。
二夜目は昨日説教した一升瓶に対して非礼を謝り、三夜目は一夜目の続きの説教を始めたのだ。
流石に三夜連続で醜態を見られた挙句、
周りから態度を緩和させられれば陸奥も次第にツンケンした態度を緩めると云うもの。
可愛げのない女、という認識から酔うと面白い奇行を始めるという認識に改まった。

連日続く酒宴にとうとう四日目に立ち上がれないほどに酔い、
坂本におぶわれて退席した陸奥は余計な真似をと辰馬に云った。
商いは一人でするもんじゃぁなかぜよ、
答えなのかそうでないのか坂本はずり落ちる陸奥を背負いなおしながら云う。

陸奥はふんと鼻を鳴らしたが、辰馬は大きな声で笑った。
とたんに顔に血が上る。
そんなことは云われなくとも分かっているし、ただの虚勢で武装である。
陸奥は何もかも見透かされて悔しいやら腹立たしいやら、其の侭狸寝入りをしようと決めた。
多分それを坂本も気がついている。
背に負ぶわれながら、毒づく言葉を探したが、それより早く眠りに落ちた。



  *


楽しい時間というのは随分早く過ぎるものだ。
往路は長く感じるのに復路は異様に早く感じる。
時間の概念を上手くは説明できないが、少なくともこの一週間は頗る楽しい時間であった。

少なくとも陸奥は言葉にはせずとも、「楽しい」と思った。

極力、私的な付き合いは避けてきた。
元職場の人間とは仕事中四方山話はするが、就業時間を捌けてまでどこかに行くことは無かった。
無論、少し前までは母の世話や家事一切、或いは仕事、そういったものに時間は費やされていた。
たまの休みの間も余暇などは無い。
土佐には友人もいないから自然と雑事に感けて篭りきりになる。
だから年齢も来歴もまったく違う人と話すことは緊張もしたが、それが酷く楽しいことなのだと気がついた。
常に人間関係の上下、義理、恩、そういうしがらみに挟まれてきた自分には常に立場やその位置を同じくする人間との付き合い方がよく分からない。
おかしなものでここに集う人間の多くは陸奥よりも概ね歳が上ではあったが、来歴も本当にばらばらであった。
もともと地球の船乗りとして働いていたもの、船など乗ったことも無いもの、
剣術がうまいもの、算術がうまいもの、宇宙船に憧れを持ちただひとえに宇宙へ行きたいもの、免許取得を一に考えるもの。
攘夷戦争参加者も幾らか居たが彼らは多くは語らなかった。

兎も角雑多な人間達の塊だった。

気が合う合わないはあったが兎も角刺激になった。
坂本はそういう陸奥を見て何も言わなかったが、
空気が読めぬ割には勘のいい男なので口には出さぬまでにも何か感じるところがあったのかも知れぬ。




それはまさに明日土佐に戻らねばならないという日である。
半ドンが鳴り、一週間の特別講義を終えた教授方がちょっと此方へ来いと陸奥を呼んだ。
訓練生をいっせいに集め、ささやかな持ち寄りの昼食会を開いてくれた。


もしやこれは送別会という奴かと思ったら、いいやぁと笑ったのは坂本と歳の同じ頃の長岡という男である。
坂本とは幼友達とは聞いているが郷里では会った事が無いと記憶している。
しかしどうしてこの二人が友人なのだと思うほどに真面目な男で、この一週間余りよく面倒を見てもらった。

「夜は勝先生が、まっこと凄いところに連れてってくれるらしいきに」

ははぁと頷き入り口あたりで留っていた陸奥の背を押したのは、
この一週間席を隣にしていた中島という男であった。
お前が来んと飯が食われんちや、そう言いながら背中を押した。

流石に酒までは置いてはなかったが、宴も酣、何処から調達してきたのか半ばに冷酒が回ってきた。
それを皆で回し飲みながら、謡をやるものやそれにあわせて踊りだす者、手拍子で参加するもの。
夜は夜で別であると言うが、最早無礼講である。

陸奥は昼間の内に荷物を纏めて辰馬の逗留している宿と自分の宿の女将に挨拶をし、
土産の一つでも買いに行こうかと思っていた。
これだけやいのやいのと騒いでおれば黙って抜け出してもよさそうであるが、
自分の為の昼食会であるなら少々気が引けるというもの。

陸奥は嬉しい反面困ったなといつもの調子で表情を崩さず思ったが、
すぐにそれは解消された。
酔っ払いと言うものは奇行をはじめる。

踊り始めたと思ったら庭に出て相撲を始めた。
土の上を転がりながらやんやの喝采と野次。
流石に放り込まれはしなかったがしまいの方には誰某に幾らと賭けが始まった。
胴元はどうやら坂本で、勘定をしているのは長岡だった。

今日の宴の酒代にする気か。

勝ち抜け選でしょっぱなに放り込まれた中島は持ち前の気性よろしく果敢に挑んだが敢え無く負けた。
次々とちぎっては投げと、最終的に何故か年嵩の渡辺さんと上杉が残ったのは意外である。
十五は違うと思われた両者の対決は、事前評では上杉が若さで競り勝つと思われ人気は上を行ったが、
中島とともに迷うことなく渡辺さんに賭けた。

団扇を持った行司がはっけよい、のこったと団扇を切る。
周りを囲む連中は皆拳を振り上げて囃した。
上杉が圧勝するかに思われたが、年の功と言うのか渡辺さんは『ガキの頃鳴らした』という噂どおり技で推した。
勝負は長引くかに思われたが、気合一閃、上杉が声を上げた瞬間その力みを利用して渡辺さんが上杉をすくって敢え無く勝敗を決した。

いっしゅんの静寂と沈黙の後、わっと言う歓声が上がる。
陸奥は中島とともに配当金に大喜びしながら、勝者に向かって両手を挙げた。
すぐさまそれを見つけた渡辺は同じように手を上げて二人の掌目掛けて掌を振る。
ずいぶん小気味のいい音がして三つの掌が鳴った。

エェいくそォと声を上げたのは上杉で、殆どの者が上杉に賭けていたので散々小突かれていた。
やめろやめろと仲裁を始めたのは先ほどまで戦っていた渡辺さんで、
地べたに座り込み小突かれた上杉に手を貸し立ち上がらせて、
きたねぇ面だと笑った後、皆で湯屋でも行くかとその尻を叩いた。

「"胴元"、その銭で湯料をくれんか」

坂本は陽気に笑うとよかろうと請け負った。






4






その日はずいぶん暑かった上に昼間から少しとは言えど酒を飲み、
さらには相撲なんか取ったものだから汗と埃と土とで泥だらけである。
夕方連れて行ってくれるという勝の口利きの宴にこれでは拙かろうと渡辺は湯屋を提案したのである。

陸奥は帰郷の用意があると云い、夜落ち合うことを約束して一人別れて宿へ戻った。
坂本は陸奥に追従することを望んだが、流れるままに湯屋に連れて行かれた。
時間も早かった所為で操練所の宿舎近くの湯屋は貸切で、坂本が湯船に浸かると不意に渡辺が話しかけた。

「お嬢ちゃんは、随分うちとけたな」

渡辺自身も初日に陸奥の矢継ぎ早な攻勢に驚いた口である。
自分の半分しか生きていない小娘にむきになるのも可笑しなものだから、
思春期の子供でも見守るようなつもりでいたらだんだん懐いてくるのがわかった。

歳の近い中島少年は、はじめになんだこの女と反発心に似た感想を思ったそうだが、
良く言えば利発、悪く言えば頭は良く回るが口汚い女等見たことがなかったからか、
むしろ新鮮だったのかも知れぬ。
随分面白がって良く休み時間など喋っていた。

坂本は声を立てて笑いながらあがぁな陸奥は見たことが無い、
妙に嬉しそうに言った後、ばしゃりと湯をすくって顔を洗った。

「あんたは随分買っている様だね、坂本さん」

聞けば商いの経験もあるといい物覚えも良さそうだ。
何より冷静に見えてあの向こう見ずともいえる度胸はなかなかなものだ。
十年後が愉しみ、と言ったら老人の悪い癖だと笑われるだろうか。

坂本は陸奥を褒められたのがよっぽど嬉しかったのか、坂本は破顔して頭を掻いた。
その様子が二十歳も越えている男だというにも拘らず、
まるで子供が自慢の一品を褒められて嬉しくて溜まらぬという顔のように思えた。

買ってる、という一言では済まぬ仲なのかも知れんなと渡辺はなんともなしに思う。
いい仲、というわけではなさそうだが。
付け加えるように過ちて思わずの失笑。
気が付かれる前に退散しようと、さぁて出るかと大袈裟に声をだして腰を上げた。





  *




勝が宴席に選んだのは懇意にしている料理屋だった。
見慣れぬものにとっては目に新しいがこの辺りにはよくある唐様の建物で、周りの民家より頭一つ大きい。
隣には川が流れていて、夕暮れにはその水面にこれまた美しい唐提灯の明かりが映える。
灯りがひとつふたつと灯り始めるころ、勝は辰馬を連れて現れた。
始まりの丁度四半刻前である。

ちょいと早かったかと言いながらせっかちな性を呪ったが、女将は早すぎた到着にも愛想よく案内した。勝は上客である。
涼みながら皆様が来られるのをお待ちになってはと、広間ではなく川に面した座敷に二人を通した。
川向こうでは着飾った妓達が行き交っている。
女将が届けた酒をやりながら『雨夜の品定め』とばかりにあれやこれや下世話な話をした。
そうこうする内一人二人と集まり始めたが、肝心の主役が来ぬ。

明日の帰郷の為の準備がある為、陸奥は一人宿に戻った。
しかしながらあれから一刻以上は経っている。
座の話題は自然と陸奥の話になった。
はじめ見たとき坂本の小姓かと思ったとか、口が悪いのは生まれつきかとか、
けれども弁は立つ、歳の割には落ち着きがあるだの、まぁ長所も短所も一緒くたに皆が口々に言った。


「しかしながら、アリャあ色気はねぇわな」


勝は皆の口を聞きながら、坊主の方が色気があらぁと笑った。
皆が一斉に笑ったところ、女将がお着きでございますよと襖をあけた。


「すみやぁせん、おそうなりました」


するりと開いた襖の向こうに居たのは女であった。

おや先生は酌女まで頼んで呉れたのかと、皆、勝に感謝しかけた。
しかしながらおや何かおかしいぞと言う違和感が同時に起こる。
聞いたことの在る声であったのだ。

薄闇に浮かぶ姿を皆がまじまじと見る。
女は随分可愛らしい浴衣を着ていた。
鳥の子色に墨色のよろけ縞、裾から臙脂の小花が散り萌黄色の柔らかな葉に見立てた模様が入っている。
女は髪を上げているが、緩やかに巻いて髪を横から少したらしていた。
薄く色づいた頬と素足の指先の造詣の良さに、皆が誰何するのを忘れて首をかしげる。

「何しよったが、陸奥」

一番奥で勝と差し向いになっていた坂本が手を振った。

「遅いちや」

開けられた襖を背にしてするすると部屋に入った。
皆を尻目にすとんと坂本の隣に正座した陸奥は勝に初めに頭を下げて、遅くなったことを詫びた。
勝はあぁと虚ろな応えを返しながら口を閉じるのを忘れた。
陸奥は形は変わったが表情は一切変わらず風呂に入ってきたとだけ言った。

「風呂ォ」

汗でぐっしょりしちょったきィ、そう言うと陸奥は浴衣の襟を少し正す。
そういえば少し髪が濡れている気がせぬでもないが、と勝は思う。
さっき座った瞬間、陸奥から随分いい匂いがしたのだ。
舶来のオードトワレ入りの石鹸、その馨に違いなかった。

そうだと陸奥は再度勝に向き直った。
旅先とは言え浴衣にて申し訳ありません、頭を下げたが勝は普段の鷹揚さは何処へ消えたか、
いやいやいやいや構わん構わんと何度も言った。

そうこうする内に女将がお支度揃いましたと呼びに来た。
それを合図に主賓が先じゃと皆に陸奥は連れて行かれた。
追い立てるようなその姿を見て勝は力なく笑い、坂本と呼びかける。

「前言撤回だ、坊主よりゃァ色気があらぁ」




   *





酔っ払う、というのはこういうのを言うのだろうか。
普段は口から生まれて来たかのごとく余計なことまで喋れるのだが、
三月ぶりに会って普段はこんな格好をせぬ女を目の前に少々調子に乗りすぎたのかも知れぬ。
そう辰馬は思った。
なにしろ口の悪さやその辛辣さはそのままなのに、
浴衣を着て、しかも髪を上げている陸奥などお目にかかったことは殆ど無い。

しかも普段とは違う場所である。

それはこの七日の間、席を同じくしていた面々も思ったようで、
陸奥が怪しむほどにこの宴では親切心というよりも男の無意識な下心が滲み出ていた。

「やきど、気味が悪かったのォ」

陸奥は表情乏しくそう言ったが明らかに可笑しがっている様子であった。

普段は無体な扱いを受けているかのように陸奥は言った。
例えば議論好きの男に事或るごとに喧嘩を吹っかけられるであるとか、
その一挙一動にケチを付けられるであるとか、
大体その相手と言うのは上杉の他ならないが確かに周りの者は『客』に対する扱いではなかった。

みなはやたらと親切であったが、特筆すべきは中島と渡辺の両氏である。
後れてから現れた二人は非常に面白い反応をしてくれた。
陸奥と一番仲のいい中島が、その姿を確認するなり大きな声で「女装ォ!」と叫び、
年嵩の渡辺までも珍しく声を上げ驚き、その後の言葉を探すのに酷く手間取っていた。

「やきど、今日は残念やった」

宴がおひらきとなり、皆は三々五々帰路に着いた。
野郎だけで二次会へ行こうと怒鳴っていたのは上杉一人で、どういう訳かほかの者が口を押さえて連れ帰った。
明日見送りに行くぞと皆は口々に言いながら手を振り、長崎の最後の夜を終えたのだ。

「なにが」

宿の方角が同じであると言う理由で陸奥は坂本と夜道を歩いた。
未だ元気のいい酔漢たちが愉快そうに歩いている。

「おんしと殆ど話せやせんかったが」

あぁ、ほうじゃの、と陸奥は思い返す。
確かに今日は主賓と言う扱いだが、今日まで破格の待遇をしてもらった礼にと皆に酌をして回っていたから殆ど席にはいなかった。

「もう一軒行かんか」

からんと下駄が鳴る。
そろそろ人も退ける頃合じゃ、辰馬は言い陸奥もあぁと頷いた。


二人が入ったのは海に迫出した見晴らしのいい料理屋の座敷だった。
漸く落ち着いて食事が出来、陸奥は珍しく酒を飲んだ。
差しつ差されつ酌み交わし、酔いのまわった首が酷く艶かしく色づいたのを辰馬は見た。

「そん単はどがぁした、珍しい柄じゃの」

あぁこれは、と陸奥は袂の柄を見た。
辰馬の大叔母が若い衆に一枚づつ一重を縫ってくれたらしい。
と言うのも古い反物がお蔵から沢山出てきた所為だという。

縫った本人は春先に調子を崩していたものの、それを見たとき俄然やる気が出たらしい。
例の牡丹餅の一件と同じである。

殆どが地味な色だったものの、幾らかは若い娘が着るような柄もあった。
一族の若い衆を集めてどれがいいかと選ばせ、二日に一枚のペースで縫い上げたのだと言う。
散々方縫い散かして、この間来てくれたあの娘さんにもどうかとわざわざ誂えて下さったのだと言った。
少し前に送ってくれたあの単と同じ経緯かと聞けば頷く。

なるほどなァと辰馬は合点が行った。
普段の着ている柄は縞だとか霰、色は紺、藍、黒、鼠色、色味も少なくそっけない物を着ている彼女にしては珍しいと言えた。
染め替えが効くとか色が落ちても一色なら気にならないなどと、
非常に経済的なことばかり言っているのでこんな柄の或るものは珍しい。

「ちくと、恥ずかしいのォ」

普段娘らしからぬ着物を着ている所為だろう。
花の柄など、陸奥は恐らく選ばない。
大叔母は娘時代派手なものが好きだったという。
その大叔母が良かれと選んだ物だから、陸奥も貰ったものを無碍にも出来ず頂戴しますと押し頂いたのだろう。

しかし着る機会を失って、今日初めて下ろしたに違いない。
布は躾糸が残っていそうなほどにぴんと張り詰めている。

本人も同じようだ。
いつもは詰めている髪を少しだけ下ろしている。
張り詰めた布とは逆に、所作は自然とたおやかなる。
普段よりも今日は酷く可愛らしい印象を受けるのは着る物の所為だけではない。
着る物でこうも変わるかと思いながら辰馬は少々愉快になった。

袖から覗く手首までが酒精に染まって、足袋を履いておらぬ細い足首が裾から覗き意識しておらぬ脛が見えた。
ちくと酔うたのう、陸奥はそう言いながら窓から望める眺望に目を遣り、夜風をその頬に受けた。髪が揺れる。
化粧などせぬ陸奥の頬にはかすかなのぼせがあって、まるで頬紅を一刷毛乗せたような色香があった。

参った、辰馬はその横顔を見ながら自嘲する。
おかしなところばっかりに目が行ってしまって、非常に往生した。
男の性だ、許せ。

だからこんなに強か酔ったのかも知れぬ。
店の者が俥を呼んでくれたので助かったが、それにしたって醜態である。
逗留している宿、といえど、とある知り合いの屋敷の離れであるが辿りついた頃には頭はしっかりとしていた。

流石に此の醜態は宿の女将には晒せぬと、裏木戸から屋敷の離れへと入った。
恐らくもう表は火を落としているはずだ。
今日は特に遅くなると伝えてあるから、裏を遣わせて貰うようには頼んである。
陸奥はしっかりしやと腕を引いてくれた。

「陸奥、水」

蒲団を敷いて貰った座敷に倒れるように突っ伏す。
女将が毎晩枕元に置いてくれる水差しを示し、陸奥はやれやれといった体で洋杯に注ぎ辰馬に手渡した。
あぁすまん、そういいながら受け取りそれを一息に飲み干す。

「あぁ、のぼせた」

浴衣の襟を少しだけ緩め、溜息をつく。
妙に心拍数が上がって飲み過ぎたのだ。
血が巡りすぎて、上せた。

「何をのぼせゆう」

陸奥は辛辣な調子で言いながら溜息をつく。
あれしきで酔いおってとぶつくさと言った。
すまんすまんと蒲団の上で大の字のまま謝った。目を閉じる。
何処からか涼しい風が吹く。

「えぇ、風じゃ」

遠くで虫の声がした。
季節は夜にやってくる。
秋の足音だ。

目を開ければ陸奥がいずれかから団扇を探し当ててゆっくりと煽いでくれているのが見えた。
白い手がゆっくりと揺れる。

「陸奥よ、ほがなことせんでもえぇちや」

辰馬は制した。
わしはおまんのいい人じゃぁ無いきに、そう言いかけたが拙いと思い足りて言葉を探す。

「お大尽じゃぁないきに」

陸奥の手を止めた。
むしろ客である陸奥を扇いでやらなくてはとは思ったのだが力が入らぬ。

「あしはかまん」

随分暑そうやったきィ、緩やかな手つきで風を送ってくれる。
陸奥は一人で歩いて帰れると言ったのに、無理やりに俥に乗せた。
ごとごとと車輪を揺らす中、俥に乗っている間陸奥の手をずっと握っていたのだ。
どういうわけか離したくなくて、触るなと言われながらも酔っ払っている振りをした。
聞き分けの無い甘えたれのガキのようにその手を握ったまま、自分よりも随分小さな肩に縋って寝た振りをした。

「今日の、礼じゃ」

陸奥は明日には土佐へと帰る。
明日の昼の便で此処を立つ。

「明日、帰るんよの」
「ああ」

りん、りん。
鈴虫が鳴いた。



「さみしゅう、なるなァ」




辰馬はそう言うと天井を見たまま黙った。
寂しい、そう言えど、もう此方へ来て三月になろうと言う男が何を言うのか。
此処へ詰めきりではないと言えども、離れているには変わりない。
自分だって、家を出るときそう言ったではないか。

「清々するんじゃぁ無いがか」
「何故」
「お目付け役が居らんようなるき」



こういう憎まれ口を聞けば、ほうじゃのぉと笑いながら返されると陸奥は思った。
いつものように陽気に。
辰馬は妙なところで打たれ弱くて、さっきの声がやたらと心細く聞こえた。
湿っぽいのは性に合わぬ。
精精笑い話になるように言ってやった。もちろんわざとだ。

「阿呆、ほがなわけあるか」

そう言い切った辰馬の声に陸奥は驚いた。
酔いどれの声ではなく、低いが良く響く声。

「まっこと邪魔ならこがな遠くまで呼び寄せたりしやーせん」

きっぱりと言うと沈黙した。
気分を害したのやも知れぬ。
僅かな沈黙の後、そうかぇ、と相槌のように打てば、あぁ、ほうじゃと静かに答えた。

りん、りん。
庭の草叢の中で虫の声。
松虫、きりぎりす、鈴虫、鳴き声が幾重にも重なる。
沈黙を充たしながら、陸奥は辰馬を煽ぎ続けた。
どのくらいそうしていただろう、不意に辰馬が口を開いた。

「また、手紙を書かねばならんの」


辰馬は目を閉じたまま言った。
陸奥は上手い言葉を探した。
要らんと、言うべきか迷った。


あの手紙が嬉しくないと言えば嘘になる。
そうは認めたくは無いが、届けられるとどんな用事も放って封を開けたくなる。

けれども、そうしてしまうとまるでその一通を一日千秋に待つ愚か者の様な気がしていた。
だから、出来るだけ関心が無いように、自分の為に振舞わなければならない。
三日と空けずに届けられる書簡は丁寧に綴られていて、普段のちゃらんぽらんな坂本辰馬は何処にもいない。
丁寧で少し癖のある字を目で追い、その答えを綴る。繰り返される、往復書簡。


「あしも、書く」


いやに辰馬が寂しげに言った所為だ。
思わず口をついたのは虚飾の無い本心だった。
そう己で気がついたとき、頬に血が上ったのが分かったが、暗い所為で気がつかないだろう。
辰馬は微かに笑うと、そうしとおせと優しく言った。

「おんしからの手紙を心待ちにしちゅう」

うん、陸奥は子供のように拙い返事をしてそれきり黙った。
互いに黙った。

暑さ寒さも彼岸まで、と言うが漸くこの夏の盆は明日終わる。
一つ季節がまためくられると陸奥は思いながら、虫の声を聴いた。
昼日中はまだ蝉の声も煩いが、夜になれば随分ひんやりとしてきた。
辰馬を煽ぎながらふっと首筋に涼しいものが触れた。

風が出た。ちりん、風鈴が鳴る。

虫の声に混じって辰馬の寝息が聞こえた。
うっすらと、鼾をかいている。
呑んでる所為だなと、団扇を枕元に置いた。




「辰、寝たがかぇ」

覗き込み寝息を確認した。
口が半開きだ、間抜け面め。

「辰、あしは帰るきに」

逗留している宿は此処からすぐである。
今日の夕刻ここの女将に帰郷の挨拶がてら訪ねたら、
明日は辰馬と一緒に朝食を取ったらいいと誘われた。

「またあいた此方へは挨拶に参るがで」

聞こえていなくとも聞こえていようともどちらでも構わない。
寝入り端と言うのは思いの外、夢現といえど声は聞こえているものである。

「ほいたら」

帰る前に足元にあったガーゼの肌布団を腹に掛けてやろうと腰を浮かせた。

「何処へ行くがか」

鋭い声を投げた。
内心酷く驚きながら起きていたのかときいたが答えはしなかった。

「宿に、いぬる」

寝惚けているとは思えぬほど明瞭な発音だった。
夢遊病の口か、おかしなことを言うと肌布団を取ろうと手を伸ばした。

「往ぬらんでもえいろう、ここに居や」

何をゆうちゅうがか、これは完全に寝惚けているなと笑った。
普段まったく聞かぬ様な口調だった。
多分、女を口説くときに使う手なのだろう。
まったく、取った肌布団を半分に折り畳みながら帰るぜよと小さく言った。

蒲団を畳む手を取られた。
驚く暇がなかった。
その手が酷く熱かった。
辰馬はしっかりと目を開いて此方を見ていた。

「おんしがおる所は、わしん隣じゃ」

夜目が利かぬといっていたのに、普段は気がつかない愛嬌のある一重の眼は、
今ばかりは鋭くなって此方を確かと見上げた。

「ほうじゃろう」

低い、僅かに掠れた声が夜風に乗る。
りーん、りん、りん、松虫が鳴く。

「だ、れと、間違えちゅうがかぇ」

笑おうと思った。
辛辣に云ってやろうと思った。
重なる虫の声、風の音、風に乗る遠くの喧騒、部屋の中の沈黙に耳が痛い。
辰馬は笑う。微笑む。




「ワシを、馬鹿にしなや」



低音の声が陸奥の鼓膜を震わせる。
蓋が、開いた。



酔っ払いの、しかも男の力がその手を引いた。ゆっくりと、ゆっくりと。
腰を上げかけていたのでそのままバランスを崩し、勢いその胸へ倒れこんだ。
焦ったのは制御の効いておらぬ力に負けたわけでも誰かと間違えられていたことでもない。

そのまま首に触れられ腰に手を回され、じっと覗き込む眼は酒になど酔っていないように見えた。
まるで同じ男とは思えぬような真摯な眼だった。
いつか見た彼誰時の、太陽を背にしたあの日の辰馬のようで。

穏やかで、凪いだ夜の海のように。
沈黙という効果、真っ黒な目がじっと此方を見上げている。
辰馬は陸奥の目をじっと見た後、ゆっくりと眼を閉じる。
陸奥は息を止めた。



口唇が触れた。
掌が熱い。
触れた腕が熱い。

なのに口唇はひんやりとしていた。
大概にせいと言う言葉を奪われた。

どうやって息をしていいかわからない。

口唇を吸われた事も、
こんな風に辰馬と言えど異性と一つ蒲団の上にいることも、
慣れた手つきで簪を貫き、大きな手で髪を梳かれた事も、
他人の温度をこんなに近く、強く、感じたことも。

こんなことをしたのは、初めてだった。

知識では男と女が蒲団の中でなにをするかは知っていても、
それはあやふやで経験を伴わぬものである。
だが現実は酷く恐ろしく想像していたものとは遠いものに思えた。

 辰馬の力は強くはない。

無理を強いているというような、厚かましさや無礼さは無い。
此方の対応速度が遅い所為だ。
くちづけは甘い味がすると言う。
嘘だ。
そんな情報は一切感じられない。
ただ、口唇がとても柔らかい、そう思っただけだった。


微かに触れるだけの、くちづけは本当に短いものだった。
しかし随分長く感じた。
離れた瞬間、辰馬の暖かい息が口唇に触れた。

「ここに居や」

掠れた声で耳元に囁く。
返事は出来なかった。
頷く事すら出来ない。


それからなにをするでもなく辰馬は背中を優しく抱いて、私の頭を胸においた。
辰馬の胸に当てられた耳が酷く熱い。
熱を持ちながら鼓動を感じている。
それが自分のものなのか辰馬のものなのかが判別がつかぬほど、早鐘のように鼓膜のさらに奥に響いた。

何が起こったのか把握できず、身じろぎも出来ず、辰馬がなにをするのか待った。
待つべきではないのか。
いいかどうかの是非も問われていない。
と言うのか、こういう場合いいかどうか聞かれるものかよくは知らない。
逃げたらいいのか、怒ったらいいのか、それとももっと最善策があるのか。
まったく分からなかった。


目がとてもきれいだった。

いつも、なんどきでも、にににこと笑っている目がちっとも笑っていなくて、
鋭くて、真摯で、恐いくらい真剣。
あの手紙の中のように生真面目で自分を僕と言う、見たことも無い男が自分を抱いている。
眼力と言うものがあるが、あれはあながち嘘ではない力なのやも知れぬ。

陸奥はこのまま目を閉じようかとも思った。
何の為にここに居ろと言ったのかはよくは分からない。
くちづけの意味も、恐いほどの眼も。

だが辰馬は何も言わなかった。
だから陸奥も何も言わず黙っていた。

正直なところ、身体が動かなかった。
感情を含むすべての事実は兎も角、これが腰が抜けると言うものか。

茫漠としながら意識して呼吸をする。
落ち着けと言い聞かせながら深く息を吸い込む。
浅い呼吸は混乱を助長させる。

酔っていた所為だったのか、それともあまりに非日常的なことが身の上に起こった所為なのか、
兎も角今自分がどういう場所でどういう状況になっているのかが漸くはっきりした。
遅すぎるほどだ。
窮屈な姿勢で抱き寄せられて、片腕の中にいる。其の侭静止。現状把握。



辰馬の息が酷く静かだ。
耳を押し当てている胸は規則的に上下している。
腕に力をこめて身体を起こす。
笑えるくらい腕が震えていた。
背に添えられた辰馬の手が、支えを失って蒲団の上に落ちる。

「寝、ちゅう」

あれだけ酔っていたのだから、潰れるのは無理も無い。
ゆっくりと身体を離した。もう手をつかまれることは無かった。
驚いた、本当に。


「辰」


あれが本当の辰馬なのだろうか。
女に接するときの、いや、閨の中の本当の辰馬。男の顔。雄の匂い。
声が酷く小さくて聞き取りづらいのに、眼が訴える力でぞくぞくとした。
陸奥は触れられた口唇を触る。
冷たくてやわらかくてふわりと触れた。
特別な意味を持つように、

「辰」

陸奥は名を呼んだ。
呼ぶたびに頭が眩々とした。
特別な意味を持つ名前だった。

何度も、そう呼べと云わせしめた、名前だ。
耳の奥が脈を打っている。酷く顔が熱い。
同じ蒲団の上に辰馬がいる。
布越しに温度をじわりと感じる。

逃げる、という言葉は酷く後ろ向きな言葉だ。
だが、今回ばかりはそれでもいいと思った。
それほどに、自分が混乱しているのが分かった。

辰馬に。
酔っている所為といえど、「女」のように抱き寄せられたこと。
しかもそれを気持ちが悪いとは、思えなかったこと。

驚いて声もでなかった。

「女」という目で見られていることの気持ち悪さも、きっとあるはずだった。
女を買いに行く『男』への気持ちの悪さも、なのに。
くちづけられたことへの気持ちの悪さは、今も微塵も感じない。

むしろ、くちづけを受け入れた、そう思う自分の方が気持ちが悪かった。
耳が熱い。
耳の中で鼓動が打つ。
辰馬の左手が動いた。
膝に乗り、私の手をやんわりと握る。
じわりとした熱を、身に沁み入る毒のように感じた。


「辰、馬」


上擦りそうな声でもういちど、名を呼んだ。
微かな鼾が止み、辰馬がうっすらと眼を開いた。
此方を見る。
寝起きの、あどけない表情が見上げる。
膝に乗せられた手、温かくて、今し方の無体な艶めいた事をした同じ男とは到底思えなかった。

何か、云わなくてはと思ったが声が出ない。
陸奥が口を開きかけた瞬間、辰馬はにこりと笑った。

「どうがぁした」

そうだ、この男の笑い顔は酷く優しい。
薄闇の中ではっきりとはわからぬが確かに微笑んでいる。
名を呼ぼうと、口唇を震わせる間際。

















「お元」










りーん。
虫の声が止む、風も沈んだ。






「おもと、て、だれなが」



















   *





「坂本さァん、起きてくださいまし」


離れは東に面していて入ってくる朝日で目が覚めた。
気分が悪い。
昨日はちくと呑みすぎた、夢現で一人ごちながら、
いつも世話をしてくれるこの家の末の娘が名を呼ぶのを聞いた。

「朝ごはん用意してますから、顔洗ってきてください」

頭の中で割れ鐘をやたらめったら叩くような音がしている。
それでも、陸奥が今日くるがやないがか、と思い出し尋ねたが酷くそっけなく云った。

「もう召し上がられてますよ、操練所の方々に挨拶されるから出られるのがお早いそうで」

てきぱきと掛け布団を畳み、昨日の水差しを盆に置く。
辰馬は陽を避ける様にうつ伏せていたが、催促されるままに敷布から退いた。
畳の上に胡坐をかいて、あぁと唸った。頭の辺りが酷く痛む。

「わし昨日どがぁして帰ってきたろう」
さぁ、存じ上げませんけど、娘は布団を上げて、
昨日洗ったばかりの単を辰馬に渡そうと振り返った瞬間あぁと大きな声を上げた。

「さ、坂本さん、左、頬!どうしたんですか、腫れてますよ」
「これものォ」

頭が痛いと思ったらどうにも別のところが痛い。
辰馬は左頬を擦りながら、おォ、痛いと立ち上がった。





顔を洗って髭をあたり、先ほどの洗い立ての単に着替えた。
陸奥が来るというので朝食は客間に用意されていた。

「よう、おはようさん」

猫足膳の前に座りながら、既に朝食に手をつけている陸奥を見た。
昨日とはうってかわり相変わらず色気の無い格好である。
陸奥は口の中に飯が入っているのか目だけでこちらを見て頭を下げた。
代わりにおはようございますと言ってくれたのは給仕をしていた女将である。

「なん、昨日は飲みすぎたちや」

お汁をよそわれ、飯をついでもらいながら、陸奥に話し掛けた。
行儀がいいので食事中は喋らない、と言う類の沈黙ではない。
坂本はつゆを一口啜った。二日酔いには味噌汁が一番と言うが、今日のはお澄ましである。

「何でワシあこで寝とったが、ちゅーかどがぁして帰ってきたが」

おんしゃぁしっちゅうか、と干物を箸でほぐしながら、おぉいなんか喋らんかィと膨れてみせた。

「覚えとらんのか」
「まったく」

辰馬が首を振ると、陸奥は黙りこくって最後に残していた漬物で飯を食い終えた。
痩せの大食いとまではいかぬが陸奥の食欲は割合にあるほうだ。
今日は一杯飯で終わりかと尋ねればそれには応えず、
丁寧に手をついて女将に今日で暇をと礼をした。
女将の返礼の口上を聞いてから陸奥はすばやく立ち上がった。

「皆に挨拶して帰るきに、ほじゃ」

非常にそっけない、別れの挨拶もそこそこに退席した。
合席したのはごく僅かな時間である。
女将はその様子に一人残った坂本を見た。
暢気にお代わりと飯椀を差し出したので受け取って櫃から飯をよそう。

「辰馬さん、お嬢さんと何かあったんですか」

左のほっぺたを見ながら女将が問うた。
それがのう、と辰馬は首をかしげながら行儀悪く汁椀の縁を掴みながら一口啜る。
これ、と母親宜しく二十歳をいくつも過ぎた男を叱ったが辰馬は肩を竦めてきちんと食べ始めた。

女将は姉の乙女とも少々縁がある。
以前宿を提供したことがあって、互いの商売柄懇意にしている。
その縁でこの弟君を逗留させているのだが、
どこか憎めないこの末の坊ちゃんは昨日の夜あのお嬢さんと何かあったようだ、
女の第六感と言うよりも誰が見ても分かる様子に思わず苦笑した。
左の頬が随分腫れている。
あのお嬢さんが殴ったのかどうかは知らないが、何らかの不興を買ったことは間違いは無いだろう。

「何かしたんですか」

その時、一瞬だけ辰馬の箸の動きが止まった。ほんの一瞬だ。
お茶でも入れていたら見逃すところだったと、女将は思う。
辰馬は困ったように笑った。肯定でも、否定でもない。

「それともしなかったんですか!」

急に辰馬が咽た。
彼の母親よりは少し若いつもりだが、”小母さん”が急にそんなことを言った所為なのか、
或いは図星なのか、飯粒が気管に入ったらしく、お茶と呻いた。

ハイハイと湯呑茶碗にお茶を注ぐ。
酒の上での失敗か何か知らないが、濃い熱いお茶でも飲んで頭をしっかりさせて、
誤解なりなんなりを解きに行けばいいのに。
あんな喧嘩別れでは、手紙なんかでは取り付くしまも無いでしょうに。

湯呑を膳の上に置いて、急須を隣に置いてやった。後は自分でやれと言う合図だ。
少々あの娘さんに肩入れしてしまうのは自分が女だからだろうか。
女心がわからないんだから、聞こえるように呟いてさっさと座敷を出た。



辰馬は懐から手拭を出して口を拭いながら、やれやれ、と内心溜息を吐いた。
湯呑を恐る恐る持ち上げふぅふぅと冷ましてみたものの、
やたらと熱かったのでまともに啜ることすら出来ず膳の上に置いた。
気を取り直して小鉢の中身を抓んだ。
茄子の煮浸しを口に放り込み飯を掻っ込む。
頬張りながら憤懣遣る方なしと言う風に肩を怒らせる。

「男心は、おまんら女にゃぁわからんろう」

飯を食いながらとても不明瞭に呟いたが、聞いているものはいなかった。




  *






港では出航を待つ船の見送りに沢山の人が集まっていた。
その中にやたらと騒がしい連中がいた。
男ばかり十余人は集まって、一人の女を取り巻いている。

男達はまた来いと女の肩を叩き、口々にまたなと言い合ったが少々おっかなびっくりである。
それもその筈、操練所に今朝方現れた陸奥は一人ひとりを捕まえてこの一週間の礼の口上を述べると、
少々早いがと港に行こうとしたのである。

おや、坂本さんは一緒じゃないのかと尋ねた者がいたが、そいつは見送りには来なかった。
その名が出た瞬間、陸奥のただならぬ険悪な空気に尻込みして用事があるのですまんと急いで退散した。
こりゃァなんか下手をしよったな、とその場に居た皆が不在の男のことを思った。
比較的陸奥とは気の合う中島が早急に退散しようとする陸奥を、
取り成し、宥め、冷たいもんでもとお茶を出し、茶菓子を置いて喋った。

どうやら昨日解散した後何かがあったらしいということは中島の誘導尋問で分かった。
折角昨日は皆で口裏を合わせて早々に退散したと言うのに、
口には出さぬが陸奥は怒っている。
何があったかは知らないが、この状態を打破してくれるものが来ては呉れないだろうかと全員一致で思ったが、
終ぞ原因であろう男は現れず、船の時間が迫ったので港へ来た。

低い汽笛が鳴り、乗船を促す声が聞こえた。

「ほじゃ、皆、世話になった」

見送りにきた男達の顔を見渡し陸奥は頭を下げ、トランクを持った。
また、と言った陸奥の表情は乏しかったが、それはいつものことである。
中島が船のタラップまで荷を運び、そこで別れた。
坂本さんを待たんでえぇがか、中島は友人のよしみで尋ねたが、
しらんと辛辣に陸奥は言った。

相変わらず件の男は来ない。
ターミナルの方角を見るが、頭一つ大きなあの男は見えなかった。




汽笛が長く鳴らされる。
出航だ。
陸奥は最後尾の手摺に立っているのが見えた。
頭一つ小さい所為で揉まれるのを嫌がったのか、皆に手を振った後そこから離れようと身を翻す。
皆もその姿を確認した後、手を下ろしかけた、その時。


「陸奥!」


遠くで声がした。それに一番早く気が着いたのは恐らく中島だった。
下駄の歯が甲高い音をさせながら、あ、と思う間もなく自分達の横を通り過ぎた。
何か叫んでいた。坂本は何か叫んだ。
名を呼んだのか、幾千の見送り客の声に阻まれて聞こえぬ。
船を目で追う。船の最後尾で人がざわめく。

船の手摺に足を掛け女が何か叫んでる。
髪を振り乱していた。
蜂蜜色の髪の毛が揺れる。
それを止めようとしている水夫と乗客たちがまるで喜劇映画のように滑稽だった。

「死ねもじゃもじゃ、宙の藻屑となりやー!」

振り上げた拳でそんなことを言ってるのかもしれない。
汽笛の音で声は掻き消された。




船の姿はだんだんと小さくなりその音も最早風の中に揉まれるばかり。
見送り客は三々五々帰路についたが坂本だけはまるで阿呆のように白波を目で追った。

「坂本ォ」

往ぬるぞォ、長岡が遠くで声を掛けた。
中島は距離の違うその二つの背中を見ている。
潮風が、びゅおうと鼓膜を震わせた。

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WRITE / 2008 .11 .7
イヤァ楽しかった楽しかった。
「陸奥、お盆に長崎に行く」が漸く終了しました。つまりはそう言うことです。
此処から陸奥と辰馬のなが〜いプラトニックでストイックな関係が始まります

ちなみに長崎捏造編はまだまだ色々考えているので、みんな引かないでくださいね…。
しかしながら岩崎君は失敗したな〜。

ついでに言うと長岡さんのモデルは史実の海援隊隊士長岡謙吉、
中島くんは中島作太郎、渡辺さんは渡辺剛八さんですが、
海/援/隊/関連を調べると、例の「先生」が相当数hitしてしまうので大変…っス
ちなみに、司馬先生の「竜/馬/が/ゆ/く」を捏造資料としてメインに形作ってますが、
渡辺さんだけは別にモデルがいます。
やっぱり独立愚連隊の隊長のよき相談相手といえばあの人しかいねェ(笑)

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