此の夜が終わるまでに 世界が終わるならば









  こ の よ の お わ り












もう、逢う事もない。





そう言って訣れた筈なのに、心とは裏腹に足は自然とそこへ向いた。
必要の無いことを喋らなかったら、気のいい女主人が世話を焼いてくれた。
それだけの事。


万が一関係を疑われていてはいけない。
アレは偶然に過ぎない出会いだ。


だからその気のいい女主人が傍杖を喰わぬ様にと、姿を消した。
さようならと、互いに言って。



そう、互いに永訣を誓った。
互いに生きていようが死のうが、何の報せも届かぬ見知らぬもの同士へ。

そう、あれは確かに、今生の別れだった。
なのに。





気のいい女主人があれから幕府側の人間から尋問を受けてはいないかと気を揉めば、
密偵からは事情聴取だけで済んだようだと聞かされた。
そうかと安心もした。


しかし。


一宿一飯の恩義。そう、自分は何の礼もしていない。
そして義弟とやらの動向も気になる。
それから、自分の撒き餌として泳がされているだけなのではないかという疑問も沸く。



偵察だ。



そんなご大層な名目で自分自身を騙した。

エリザベスは始めの内は何を言っているのですか、
もっと冷静になってくださいと抗議した。
冷静だ。だってこれはただの偵察である。

『桂さん、自分の顔を鏡で御覧なさい』

そうとも言った。
だが、曇った硝子に映った自分の姿は何の変わりも無いように思えた。





一度目は遠くで様子を窺うだけだった。
いつもどおり僧侶の変装をして店を遠くから眺めた。
二度目もだ。


 三度目。


もうおよしなさい、諭しとも取れるエリザベスの苦言を不思議に思った。
熱病に冒される歳ではないでしょう、そんなことも言った。

熱病、何を言っているんだ。
熱など出していないし、体調など悪くは無い。

遠くで様子を伺うだけだと何度も説き伏せた。

『じゃぁもう偵察はこれで終わりになさい』

不審な人物の動きは周りには無く、確かに密偵の言ったとおりであった。


わかった、そんな約束をした。


しかしながら、これが最後とだと対面の家屋の狭間に身を隠していた。
しかし、思いの外変装が見破られてしまい、
呆れた顔で裏へ回れと親指を立てて背後を指差された。

それが間違い。

エリザベスは得心したのかそれとも諦めたのか、
最近では何も言わず、ただ気をつけてとだけ言って送り出す。





以来、月に一度、いや二月に一度。
夜更けに暖簾を潜っている。

間違いであった。
今なら分かる。

熱病と言った意味も、そうと自分では気がつかなかった理由も。

そんなことは、たいてい後になってから分かるのだ。
他人の言葉など耳に入らず、ただ道なき道を邁進するしかないのだと信じている莫迦者には。








あれは、雨の日であった。
昼間からどんよりとした空が世界を覆い、
日が暮れる前から暗く澱んだ空はそのまま宵闇へと姿を変えた。

夕食時が引けることを見計らい、店が閉まる十時過ぎに暖簾を潜る。

裏に回れって言ったろうと呆れながら、表から入って何が悪い、客だと言えば、
あたしは困らないけどあんたが困るだろうと呆れ顔で言った。
指名手配犯が裏口から侵入するのだって見咎められれば拙い筈なのだが
その点を言及した事は今まで一度も無い。

無論店の客がすべて出たことを確認して入店するくらいの心得はある。
しかし迂闊だと言えばその通り。

女店主はやれやれと云いながら、閉店の札を出して鍵を掛けた。





いつもどおり蕎麦を手繰った。

彼女は旨いかと尋ねた。
美味いと答える。


いったいどの程度蕎麦を打つのだろうか。
月に一度、或いは二月に一度。

行けば大抵時間の差はあるなれど、はいよと目の前に差し出される。
それはラーメン屋で蕎麦を頼む酔狂な客の為のものなのか、
それとも来るか来ないか判らぬ「客」の為のものなのか。
判別はつかなかった。


驕りである。

訊いたところでお互い困るだけである。
だから旨かったと勘定をして帰る。

たったそれだけの関係性。
初めて出会ってから今日まで続く、変動性の無い立体平行線。



我々は。 同時間帯に存在しているだけの一本の線。
対岸の岸辺を見つめるように空間を隔てて交わり、
捻じれることがなければ永遠に時間の進行方向へとそれぞれが進む。
永遠に交わることのない、細い糸のようだ。
糸は捩れることも無く撚り合わされることも無い。
緩み無くただぴんと張り詰めたまま。






「なんかそれイライラすんだけど」



火をすべて落としたカウンタの中であぁもうと彼女は唸った。
不意にそんなことを言われても困る。
何だと顔を上げればそれよそれと指差す。

「髪よ、結びなさい!ホラ」

手首に着けていた、女が髪を結ぶ結紐を差し出された。

「耳にかけながら食べるの。やめなさいよ、なんか仕草がオカマっぽいのよ!」

俺は男だ、オカマなどでは断じてない、
そう抗議したがそういう意味じゃないと額を押さえた。

「しかし以前然る恩人に義で報いる為、
オカマバーに身を投じたことがあったが今の仕事などやめてどうだと誘われたこともあったぞ」

無論、それは丁重に断った。
攘夷と此の国を救いたいという大義はむざむざと諦めきれるものではない。
しかし大恩を受けた相手からの過分な申し出を刎ねつけた事には申し訳なく思っている。

「何それ自慢なの、それともサイコロトークで恥ずかしかった話の目が出た訳?」

意味わかんないといつまで経っても受け取らない結紐を持ったまま、
カウンタから抜け出して、うっとおしいと云いながら髪を一束掴む。
おとなしくしてなさいと言うように、動くなと後頭部を一瞬抑えられた。

蕎麦猪口を持ったまま抗議もせず、動かぬようにと努めた。
背後に彼女が居る。髪を耳の後ろから少しずつ梳く。
指から縺れた髪の毛を零さぬ様に、耳を項を指が掠める。





「ねぇ、なんで伸ばしてんの」








「なんでって」

特に意味は無い。
もう鬼籍に入った揺籃の師は、確かに長い髪をしておられた。
だからといってそれに倣っているわけではない。
一瞬考えて、巧い答えが見つからず、惰性、だなと歯切れ悪く応えた。

理由を考えたが結局そうとしか言えなかった。
そんな他愛も無い事に、ふぅんと気の無い返事をする。


「なんだ、願掛けでもしてるのかと思った」


かすかに笑う。
そういうと手櫛でするすると髪を梳きながら、先ほど束ねかけた髪を片手に集める。
地肌を指先が撫で、細くて温かい指が後れ毛を掬おうと器用に動く。
動かぬようにと思ったが、手が思わず止まる。

妙な、気分だ。


「さぁ、いいよ、食いな」


括った髪の尻尾の先が背中に当たり、手が離れたことを教える。
ようようお許しが出て蕎麦猪口に浸かり過ぎた蕎麦を手繰る。
汁に浸かりすぎて、辛かったが文句は言わなかった。

幾松は一つ空けてカウンタの椅子に腰掛け、此方を見た。
どういうわけか蕎麦を手繰る様子を見ている。

旨いかとも聞かず、ただ黙って。

視線は鋭いものではなかったが、少々困る。
ちらりと横目で見てやろうかとも思ったが、目が合うと更に困りそうで。
だから黙って蕎麦を手繰る。



ふと視線が途切れた。
おやと思う前に声。




「いやだ、雨」



洗濯物が、乾かないのよね、
沈黙を嫌うのか、或いはただの世間話か。
その声にくるりと振り返り、外を見た。

窓に滴が辺り外の常夜灯の灯りが滲んだ。
蕎麦を啜る音、テレビはもう消された。
脂染みた時計がカチカチと鳴る。


「アンタ、傘ある」


雨の音がしている。
車が水溜りを撥ねる音。
ざぁという、雨音。


「生憎、ウチ傘無いのよ」



ちらりと横目で女主人を見た。
脚を組んで、さっきまで見ていた窓の外ではなく、自分の爪先ばかりを見ていた。



「雨宿り、していく?」



伏せた顔が赤いのがわかった。 意味が分からぬほど幼くはない。

年上の女性、なのに少女のように恥じらいながらも、
似遣わぬうらはらな誘い文句。






化粧気の無い頬が紅い。
色素の薄い髪の色。
閉じられた口唇は、何を待っているのだろう。
危うい瞬間は今までにも何度もあった。
こういう、閉塞感のある夜には時折糸がその湿度で撓むのだ。
縺れ合おうとするように。


ざわりと、肌が粟立った。

カウンタに乗せた左肘、揺れた左手。
水仕事のあとで手が紅く染まっていた。

薬指に鈍く光った、指環が見えた。

ぴしゃりと、鼻先を何かで叩かれる。
沈黙は雨音が埋めるてくれた。



「いや、笠がある」



沈黙の狭間に雨音。



「そう、見えなかったわ」


不思議と可笑しそうに笑って、脚を下し、カウンタに戻った。
勘定を置き、じゃぁまたと足元にあった笠を手に持った。



















店の外は小雨だった。
笠を被り、歩く。





危うい。
柔らかな水雫が石に穴を穿つかのように、気がつかぬうちに寄り添おうとする二つの心。

そういう瞬間は今までにも、そう、何度もあった。

此方から、向こうから。
距離を測りながら歩み寄ろうか、それとも手が触れたふりでもしようか。

駆け引きとは到底呼べぬ、そんなおさないやりとり。

息の詰まるような夜には張り詰めた糸がその湿り気で優しくたわむ。
此ち岸と彼の岸に隔てて見詰め合うだけの者同士。
其々が持つ糸は風に流され、流れに任せ。
海へ行く手前で出会い交わり、縺れ合おうとするように。


その度に自分から距離を取った。
いけない、いけないと。
此の人の好意に付けこんではいけないと。








首に触れた手を思い返す。
女の人の手だ。
細くてやわらかそうで、綺麗な指だ。
首をくすぐったしっとりとした指先、その根元に。


 金色の指環が光っていた。


「あれ」はしるしだ。



オレのものだと、あなたのものだという。





人が人を所有する、そういう意味ではなく、
心を互いに奪い奪われたという事。

死者への嫉妬。
そんなもの糞の役にも立たぬ。

ここに居て欲しいと恥ずかしそうに言われて揺さぶられた心が、
あんな小さな金属の環に挫かれた。







俯きながら歩く。
霧雨の夜。







女性に恥を掻かせるべきではなかったかとも思う。
だが、あの瞬間にぞっとするほどの恋情が沸くと同時に、
おぞましいほどの悋気が自分の横っ面を叩いた事も事実。

じゃぁまたと言ったあの人の顔はどんな顔だったのだろう。
今自分はどんな顔をしているのだろう。

女を抱いた事が無いわけじゃないし、向こうも生娘などではないだろう。

だからいいという訳ではない。

どんな思いで、傘が無い等と嘘を吐いたのか。
あんなかわいらしい嘘を、いじらしい嘘を。
差し出された心のままに受け取ればよかった。














ふと気がつけば足元に影が出来ていた。
歩みを止める。


水溜りに大きな月が映る。
いつの間にか雨は上がり、空は晴れていた。


明日は洗濯物が干せるようだよと、ついさっきの彼女のぼやきを思い出す。
満月は白々と世界を照らしながら、青い夜を映した。
次に会えるのはいつだろうと、彼女が手ずから結わえた髪の結び目に触れて、
彼女の指が触れた首を撫でた。
















「桂小太郎殿とお見受けする」


















野太い男の声が呼び止める。
嗚呼、興醒めだ。
折角いい夢を見ようとしていたのに。





「人違いだ」




折角のいい夜を邪魔するな。





「ひとつ殺り合ってくれんかね」






 嗚呼、そうだ。

 忘れていた。
 とても、大事な事を。







一瞬より短い刹那、自分の意思ではない力で月を仰ぎ見た。
大きな満月が見えた。














 忘れていたのだ。
 余りに自分が幸福で。



















 自分の居る世界には。
 明日の約束など塵ほどの真も無いという事を。

















身を捩る暇の無い瞬息の狭間。
岸辺の向こうで見送ったあの人の姿を思い出そうとする。
逆光で、眩しくて、何も見えない。

















 しまったな。














 格好をつけなければよかった。












2








何かを失くした、堪らない笑顔。
思えばそういうものに惹かれたのかもしれない。
同じ匂いがあったのかもしれない。

こんな事を自分に許すかと思った。
互いに、そう互いに。










「髪、切ったんだ」




人のいない店内は相変わらずで、人の切れる時間を見計らい、
おやという顔を見たあと彼女が扉に閉店の札をかける。
遣り取りは変わらない。
もう知り合ってずっとこんな遣り取りを続けて居る。

寸分違わぬように、努めているのかと思うほどに。

持っていた傘を畳み、入り口脇の傘立てに入れる。
暗い雲の覆う空は夜になっても暗いままで、
強い雨と共に季節はずれの冷気を足元へ這わせた。



髪を切ったなどと他愛のないことを言った。
そう、彼女が結った結び目はもう無い。

「そっちのほうが似合うよ」

何も知らずにそういいながら、今日も蕎麦にするってんじゃぁ無いでしょうね等と言った。
カウンタの中でご注文はと尋ねる。


曖昧で気もそぞろな返事をしながら、
ぼんやりとその遣り取りを遠くのほうで聞いている自分が居る。



あの出て行った日と変わらない。

スウィッチの切れたテレビ。
秒針の煩い脂染みた掛時計。
女主人は気さくで、余り化粧気もない。
色素の薄い髪の毛を無造作に後ろで括っているだけ。

足許が覚束ぬ。

変にふわふわとして現実味が無い。
まるで夢から覚めてそれが夢であったことに気がついて安堵して、
自分が目覚めていると思ったらまたそれは夢で。
繰り返しながら、どこまでが夢なのか分からなくなるような。

捲り続けても終わらぬ白紙の続く本の頁の様に、
見つからない見つからないと焦るばかりで。


「どうしたの」




すぐ傍で聞こえている筈なのに、遠いのは何故だろう。
座ればと促されても、碌な返事も出来ずいつもの定位置に座る。
合図のように入り口の暖簾を下ろし、鍵を掛けた音がした。
床を擦る下駄履きの音。

幾松はメニュを言わぬ面倒な客に首を傾げ、
グラスに注いだ水をその傍らに置いた。

怪訝そうな顔で此方を見た。




「ねぇ」






非日常から戻った其処に、些細な変化に気が付きそっちの方があんた似合うよと言われた。



人の引けた夜更けの店で。
出て行ったあの夜と変わらず。

なにひとつ、なにひとつ。
ここは、何一つ欠けることなく。






昔。




こうやって何事も無い穏やかな時間ばかりが過ぎた日々を思い出す。
子供だった時間は随分短かったような気がするけれど、
穏やかで、他愛の無いことばかりが小さく積もるような日々が。



あの頃傍にいた人は、此処には誰一人としていないけれど。







「何かあったの」







冷たくなった同胞を何度抱き起こしただろう。
死んでいると、判っているのに。
昨日までは、さっきまでは生きていたのに。
命を購えという呪詛を、恨みを、この世を憎んだ。









 仇は取るよ、だから休めと身体を半分吹っ飛ばされた男に言った。

 桂さん、俺の腕はどこでしょう、握れぬ手を捜して血を吐いた。

 砲撃に体中を焼かれて、末期の水すら飲めぬ男に雨を零してはくれないか。

 声すら出せずに天を仰いだ者たちに。










 圧し掛かる重みに耐えかねる。







 死んだ嘗ての盟友達。

 袂を別つた嘗ての友を。

 今はいずれに居るかわからぬ者を。

 今もすぐ其処に居る変わらぬ友を。










 繰り返し呪うようなあの日の朝を。











グラスが置かれた音。

陰が刺す。

すぐそこに。





「アンタ、大丈夫?」





 顔を上げた。



すぐそこにいた。
困ったような、顔をして。
顔が真っ青よと言いながら、手の甲を俺の目の前に差し出して。

頬に触れた。











 『 あ な た は い き て い る 』













触れられた頬に当たる手の暖かさ。
肩に圧し掛かる重みに耐えかね。
ただよろめくような自然な所作でその手を引いた。

 是も否もなく。

引き寄せた反動、浮かせた腰、踏み込んだ右足。
衝突点でぶつかった互いの身体。
躊躇わず背中を掻き抱いた。







ああ、この人は生きている。









呼吸している。
生きている。
温かい。






あなたは生きている。




頬に当たる首。
彼女の髪の毛が目蓋を擽った。
胸に押し付けた彼女の身体。
押し返す生者の証。



 嗚呼、これは。



咽喉が詰まる。
息をしようとしたら、別のものが咽喉の奥から毀れそうで。
代わりに胸で息を吸う。
飲み込め、飲み込めと叱咤しながら。







生きている人間の匂いだ。

悲しく天を仰いだあの者たちがかつて纏っていた、
生きている人間の。
なまなましくも這いずり回って生きている、我々の。






背を抱いた乱暴な両の拳を力いっぱい握る。
掌に爪が喰い込む。
握る力があまりに強すぎてあふれ、腕が震えた。


立て、斬れ、薙ぎ倒せ。




お前にはよろめく時間などないと背を小突く。
お前は誰に寄りかかっていると、誰かが問う。



答えられない。
答えたくない。
今何か言ったら、言葉にならない。

言葉にならずに。
すべてがばらばらに崩壊して、波打ち際に作った脆く愚かな砂の城のように。
波に浚われてしまう。


重いんだ。
背中を揺する、命の代償。
それを背負うことを望んだのは自分なのに、
今日は、強い雨に打たれた所為だ。
均衡を崩して覚束ないのだ。

だからよろめいたのだ。
だからこんなに世界が揺れている。

揺れがおさまるまででいいんだ。
本当に少しの間、眩暈のような此の振動が切れるまで。


息を止めるように彼女の背を抱きながら、強く強く拳を握った。
掌に食い込む爪の痛みはもう麻痺して、痛いとすら感じない。
首に感じる彼女の頬が、ひたすらに温かいと感じる。
そこが脈を打つように、耳の奥に響いた。
ざぁと言う雨音も、路面を走る車の音も。



綺麗に消えた。








腕が不意に動いたことに気がつかず、息を止めていたことに気がついた。



下から、ゆっくりと、背を撫でる手がある。
女のひとの手だ。

こわいゆめを見た子供にするように。
黙ったまま。
慈雨のような優しい手で。


そうだ、息を、しなくては。


水に流れを教えるようにその手の動きのままに息を吸う、吐く。
力の篭った拳を緩めた。
一気に掌に血が通う感覚。じんと痺れた。
撫でる手は止まない。
行き場を失った掌を背に置いた。
感覚が戻る。
掌に感じたのは薄い上着の下にある、滑らかな背中。


正気に返る、と言うのはこういうことを言うのだろう。

すがる相手を間違えている。
こんなものを、背負わせていい相手ではないことなど、重々承知していたのに。
熱いものでも触ったように、腕が反射的に背から跳びかける。

思わず身を引くように、後ろ足に重心をずらそうと身を捩る。

しかし。


「駄目よ」


撫でていた手は勢い背中の着物をつかむ。
飛び込むようにして再度押し付けられた身体を反射的に受け取る。



駄目よ。
そう言ったその人の腕は強く此の身を拘えど、なぜか震えていた。
抱いた腕がずいぶん余っている。
ずいぶん小さく感じたのは、その所為だろうか。
それともいつもは気丈に振舞うその人のことを、たとえば母や姉のように思っていたとでも。



覚束なく胸の騒ぐ理由を知りながら。
分かっていながら。



身体を無理にでも引けばその腕から逃げられただろう。
そうしなかったのは、自分の中に少しでも疚しい気持ちがあった所為かもしれない。

いや、きっとそうなのだ。









地獄に堕ちるな。

此れを受け取ったら。
間違いなく。



いや此処がそうなのかもしれない。
求めども与えられず、欲すれど持つことを赦されぬ。
無限のループのように永遠に続くのではないかと思わせる、先の見えぬ此の道。








そう知りながら、もう覚悟は出来ている。
その道を。


「オレは身勝手だぞ」




独りで歩く覚悟を。




「都合の善いように、解釈するぞ」




身体と、口を吐いた言葉はうらはらで、遣り場の無い手はどちらに従ったものか迷っている。
随分卑怯ではないか。
そんな言い方は。

そう思えども、欲に塗り潰されんと急く心。

















「どうとでも取って頂戴」






















視界が一気に収斂、血液が沸騰する音。
半歩踏み込む。身体を押し付けるように強く抱く。
押し付けた腰、彼女の腹にあたる塊。
汲めと言わんばかりの暴力。
うそという微かな声。
口唇を塞ぐ。

逃げるのを防ぐように頭を指で固めて。
強く強く口唇を押し付けて舌を絡めた。










 求めども、与えられず。

 欲すれど、赦されぬ。








力尽くで奪えるのなら。
此の手でもぎ取れるものなら。
その心を細く強靭な糸で雁字搦めに出来るのなら。






もう何も取りこぼさなくて済むようにと。



もう赦しなど乞わない。
誰にも赦されなくとも、此の求めた気持ちの在り処を汚らしい高尚な理由で飾っても。
もうなんでもいいんだ。






指が首に触れた。
髪をすくう。
肌に触れたいと指が言う。
左手が鎖骨の窪みに嵌る。
すべるように首の付け根へ。
襟を辿りながら乳房の上、胸を推す手が待てという。

「ね、ここじゃ」

乱された襟を掻き合わせて、俯いた。












         *








真っ暗な部屋だった。

何を焦るのか、お互い毟り取る様に着物を脱がせた。

窓も開けられずに湿った空気の中で息を短く吐きながら何度も口唇を吸った。

髪の毛を混ぜながら、生きている人間がここに居るのだと訳もなく安心した。

肌が触れた瞬間、絶望に似た昂揚が全身を蝕んで後はどうでもよくなった。

ただこの人が自分の腕の中で喘げば、それだけで満たされるだけの凄まじく狭い世界に。






泳ぎ方も、息の仕方も知らないのに。
頭の先まで浸かって。










溺れた。








































雨が降っている。

雨足は一時間の内に弱まり、樋を流れる水が少し穏やかになった。
外の道を車が走る。

一台、二台。

それから暫くの無音。









雨は静かに降る。













久しぶりに女を抱いた。
温かくて気持ちが良かった。

抱いている間は他のことなど吹き飛んで、
ただ目の前の抗いがたい欲望へ身を投じるだけでよかった。

あたたかくて、やわらかくて。
ただそれだけなのに、どうして自分たち男はそれに抵抗出来ぬのだろう。



胸に当たる背中は汗が引き、冷えた。
鼻先を髪の毛に埋める。



じっと、動かぬように髪の毛の匂いをかぐ。
汗と雨、それから。
かすかな薬臭さ、それらが混じった匂い。
此れが馴染んで、明日此の人が纏う馨になるのだ。

目を閉じて、胸に吸い込んだ。







 汚い真似だ。








夜更けに迷い込んだ男を介抱して知り合った気のいい女性を、
悪い言い方をすれば手篭めにした。
手酷い、誠意を踏み躙る行いである。

 それは、承知している。



彼女は背中を預けたまま、じっと動かない。
顔が見えないから、怒っているのかどうかすらわからない。

都合の善いように解釈すると言ったら、
どうとでも取って頂戴と言った。


どう取ったらいい。


そう、今更だ。
今更それを考える。
あの時は、まるでヒューズが切れるようだった。
ぱちんと音を立てて、一瞬で明るい世界が闇に変わるように。



部屋の中は薄暗い。
窓から漏れる外の常夜灯の灯り。
夜に慣れた眼が物の輪郭を映す。

極近くにある蒲団の膨らみ。
なだらかな丘のように横たわる。
滑らかな曲線、ちょうど腕が置けるようにあるくびれ。
さきほどまで散々蹂躙した筈なのに、どうしようもなく触れ難い。

背に沿わせるように身を置くことしか出来ず、額を彼女の頭につけたまま言った。





「裏切るような真似をして、すまない」





背を向けられていてよかった。
愚かな男の顔を見られなくて済んだ。




色恋などしている暇など無い。
そう思えども。












痛む創痕がようやく薄皮で塞がり、ようやく昨日起き上がることを許された。
髪を洗ってもらい、沐浴で身を清めた。
やることは山積みだった。
だけれど一番初めに頭の中を撫でるようにしたのは、軽薄な希で。

一目見れさえすればいいと説き伏せて。
一目見れば胸の奥からせり上がった何かに圧倒されて。

悲しむべきこと、忌むべきこと、この先の道程。

恨むことはしてはいけない。
恨みは心を濁らせる。
飲み込んだ毒を吐け。

詰まらせた言葉を促すように優しい手が撫でた。
落ち着きなさいと、母のようにやさしい手で。

何もかも喋ってしまいそうだった。
此の苦しい気持ちも、悪夢のような現実も、今日来た理由も。

でも楽になってはいけないのだとも知っていた。
それらを飲み込んだ自分を多分彼女は知っていたんじゃないだろうか。

あの優しく背を撫でた震えた手が。



いとおしくて、焦がれて、くるしくて。
触れてみたいけれどそれは赦されていなくて。
自分から逃げようとしたのに、背を向けられなかった。

自分を甘やかす唯一つ、優しい手が。
欲しくて欲しくて堪らないと。
欲に薙ぎ倒されながら、もぎとった。



暗愚としか言いようが無い。
慰めるだけの道具に遣ったに過ぎないのではないかと、自分に問う。
違うと言いながらも、此の背を撫でてくれた優しい手を、力任せに掴んで引き倒したのは事実。

そうして、ただ気持ちがよかったなどと思うことも、また真実なのだ。



頭の天辺に鼻先を埋めたまま、項垂れるようにかすかに感じる熱を貰う。
髪の毛だけは冷えて、火照る頬を冷やす。




「新聞見たよ」




掠れた声がした。
ゆっくりと上掛けの中から腕が伸びる。
探すように頬に触れ、髪の毛を混ぜながら。
短くなった毛先を名残惜しそうに指先が触れすぐに離れた。





「無くなったのが、髪だけでよかった」





腕を下ろし、すぐ傍にある筈の腕を探す。
行き場を失っていた手を取り、そのまま重ねて腹の上に置かれる。
男の癖に冷たい手が、彼女の体温で温められる。
血の通う、温度だ。




「他に」




ざらざらと雨音。
沈黙の狭間を埋めている。




「何か、なくしたの」





何を、知っていると言うのだろうか。話せと言うのか。
いや。違う。
たぶん、そうではない。


寄り掛かられている事を分かっている。
それに何か言うでもなく、ただそれが過ぎ去るのを待っている。

波が引くのを、待つように。






 失くしたもの。




『次に会ったときは』






きっと、もう判り合えはしないだろう。
次にまみえるときはどちらかが死ぬだろう。

万が一にも、そう万が一にも。
どこか期待していながら、冷血な自分は同時にそれを覚悟している。
躊躇わず一刀を振り下ろせると。




あの男は斬らねばなるまい。
おそらく向こうも同じことを思っている。







あの男をこの手で斬ったとき、
此処へ再び戻れるかどうかの保障など分かりはしない。

 いや。

戻れぬだろう。
そうなったら。








斬った感触はずっと離れぬ。
きっと、亡霊のように付きまとう。




 嗚呼、生きていても、死んでいても。

遠くで繋がってしまっている過去の自分らに責められながら、
それらは少し離れたところで、じっとにらみ付けているのだ。





そう遠くない未来に、誰かとの決別の日が来る。
自分か、あの男か、それとも。




そうなったら、どうなるのだろう。




夢現の床の中、繰り返し夢に見た。
過ぎ去りし美しき過去、
思い出したくも無いあの日。
想像出来得る最悪の未来。




出口が無い閉じられた迷宮の匣。
ぐるぐると同じところを行ったり来たり。
抜け出す方法は目を伏せ、そこから少しだけ目を逸らすこと。
夢をも見ぬ深い眠りへ堕ちること。
それ以外他の方法を知らない、今は。







もしも。


万が一にも自分が斬られた時には、
自分の死が此の人には優しく伝わればいい。












「幾松殿、俺がもしも」
「ねぇ」



追いかけ遮るように声が強く上がる。
けれども重ねた手は頼りなく指を掴んだ。


「お願いが二つあるんだけど」


背を向けたままつぶやくごく穏やかに言う。


「此れ外さなくていいよね」

まだ、とかすれた声が言う。
手の中にある彼女の指。
嵌められた金属の環が掌に当る。



「それからさ」




息を継ぐようにもう一つの願いを口にしようとした。
それを待つ。


長い沈黙。


ざらざらと雨音がは途切れることなく続く。
世界を静かに埋めながら、優しく彼女の言葉を待ち侘びながら。

ざぁと言う強い驟雨。
此の部屋にたまった澱も流してくれればいい。


「髪、もっと短いほうがいいわ」


ようようあがった声は彼女に似遣わず迷うように弱弱しく、
途切れながら雨音に混じった。









返事の代わりに左手を強く握る。
指先に、リングが触れた。

end


WRITE / 2008 .2.29
私の桂幾のテーマはずばり昼メロ(笑)
だって人妻(未亡人)と若い(?)男とくれば昼メロでしょう。
昼メロ以外何があるっていうんですか!!

ヅラ松はそこはかとなく昼メロの匂いがする。
ちなみに昼メロ路線は大好きです(笑)

もう「ターゲット層は私!」で行きたい所存。

桂と幾松さんはお互い大人なので、
そう言うのがテーマに書きたいときは此の二人は非常にいいと思います。
お互い別の人との恋やら身体を知ってて、その上での関係。
ドライではなく、大人な関係。

どこに住んでるかは知らないし、明日何をするのかは知らない。
ここに来たときだけの関係。
しかしながらドライと言いながらもこれ以上は無いほどのウェットさですが。

幾松の揺さぶり、未練を残せと桂に言い、
本当に言いたいことは飲み込む幾松さん。

ついでに言わせて貰うと…。
此の話微妙につながっていないと思います。
それは一番いいところをピンクのもやもやで隠した所為です。
んでピンクのもやもやの部分は六月の桂誕に向けたいと思っており現在鋭意製作中。


って言うかあたし今気がついたんだけど、原作ではあの日は満月で、しかもヅラ笠被ってたやん…
しかもヅラ髪下してたやん。
兄銀ばっかり見てるからだよ、紅桜変何回見たと思ってんだ!
終いには擦り切れるぞコノヤロー

此の話のテーマソングはgontitiのRIGHT SIDE SORROWと
映画「ひまわり」のテーマ
書いてる間中、ずっと聞いてました。

そしておまけもあります

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