「化学反応」




吹きつける夜風はたまらなく冷えて、
その中で手にしたささいな情事。
いや、
そんな大層なモンでもない。

思い起こせば浮かび消えるのは
華やかな場所で交わした甘いささやきや吐息。
淫らに染まった相手の温度。

長くは無い道のりで会っては霞んでいった人達と、
あの時俺が彼女と交わしたものを比べたのなら、
子供の火遊びにすら例えらんねぇんだけど。

けど、その輪郭は
決定的に違ってるんだ。

それは点ってすぐほころんだ火種のように小さく、
それでも身を焼くような温度でくすぶっている。



食事の後片付けを終えて、
やれやれと椅子に座りこんだ。
毎度毎度のため息作業。
雑用気分を絶賛に満喫。
泡の残った手首をゴシゴシとエプロンでぬぐって、
ポケットからタバコを取り出した。
足を隣の椅子に投げ出して、
ゆっくりと背を伸ばし、深呼吸。

銜えてたタバコに火を点す。
ゆるやかに弧を描くうすい紫煙をじっくりと飲み込んだ。

ふぅぅとそれを吐き出した自分の口。
かすかに開いていたそれを閉じたとき、
その唇が荒れているのに気付いた。
ここしばらく海風きつかったし、乾燥してたからなぁ。
指でなぞると唇で感じていたよりはひどくはなかった。
指の流線は下唇を通り過ぎ、
頬の前の空間でぴたりと止まる。

なぞる、という動作に
甦ってくるのは青すぎた夜の闇。
たった一瞬だけ触れ合った、
アノ人のやわらかな感触。

あの日からそれは何度も俺の神経を揺さぶっている。



ゆるりと動いたこの体の正面に、
艶やかな光を纏った彼女の唇。
天から降ってくるおぼろげな日光の名残の中で、
目を閉じていてもさして変わりは無いような闇の中で、
伏せられた瞳。

閉じさせたのは俺で、
閉じようよ、と誘ったのは俺で、

のったのは彼女。



膝まづいた姿勢から身を乗り出して、
そっとそこに唇を重ねた。


薄い皮膚の上に
他人の体温。


触れあった指先はとても冷えていたけれど、
その唇はもっと冷たい。
その中身には俺と同じような血流が張り巡らされているだろうに、
夜風はそれを奪い去ってしまったのだろうか。
それとも。

閉じた自分の瞼に彼女の顔が映る。
実際に見つめるより、
それはずっと詳細に。

息を吐く暇もなく
すぐに離れた唇。

開けた目の前に彼女の顔。
乾いていた唇が語ったのは、

「友達みたいなキスね。」

その一言があんまりにも的確に俺達を表していて、
かがみこもうとしていた体を、

俺は後ろにずらした。


初めてキスしたガキみてぇだな、と思ったら、
彼女も同じように笑ってた。
あっけなくとまってしまった時間の先を。

俺は野朗だからとまなくなっちまっても、
きっと彼女は受け入れたんだと思うと、

なぜだかそこで歩は止まる。

酔っちまいたかったんじゃねぇのか、俺。
錯覚してみたかったんじゃねぇのか、俺。
腕に巻かれたい、と
切望してたんじゃなかったっけ?

どうなっちまってんの?




手にしていたタバコが
フィルターまでじじじと焦げているのにようやく気付いて、
もみ消す。
さっきまで水にさらしていた指先が
敏感に熱を感じ取ったところで、
俺のまわりを取り巻いた霧が途切れた。





ティータイムに焼こうと思ってたスフレの下準備をして、
俺はキッチンを出た。
一日中篭りっぱなしなのも息が詰まる。
気分転換に重くも無いその扉を開けた。

思い描いていたのは夜の世界。
でも今は刺さんばかりの日光が照りつけている。
まぶしい、と目を凝らすと、
おかしなくらいに繰り広げられているいつもの世界が広がった。



ウソップが暇そうに釣り糸を垂れている。
午前中にも同じ姿を見たような気がするけれど、
釣果は上がってないようだ。
今晩も魚はナシだな、ありゃ。
その隣にチョッパー。
きっとウソップの暇かげんに呼び出されたんだな。
隣でなんか医療用具磨いてやがる。

甲板の真ん中でぐーすか寝こけてるゾロ。
かたわらにはデッキチェアの上で読書中のナミさん。

俺はナミさんの近くに歩み寄った。
「お飲み物は?」

ナミさんはこっちを向いて極上の笑顔で、
いいのよ、と一言。

小声で話さなくったって、起きないよ、ソイツ。

わかってはいるものの、
俺ははい、と返事を返してそこを離れた。


彼女の姿は見えネェな。


辺りを見回しても、
どこにもいない。




いつのまにか彼女の姿を目で追いかけるようになった自分。
それに気付いたのはつい最近。
もちろんそれ以前の俺は野朗が視界に入ってくることより、
美しい花々を見ていることが当たり前だったんだけれど、

ちょっと違うのな、

こう
追いかけてるっていうのが。

彼女の姿の一部でも視界の端にあると安心した。
どこかにいってしまいそうなアノ人が、
こちらの視線に気付いて薄い笑みを返してくれるとき、
俺は大概それに気付かないフリをしていた。
そんなガキ臭い俺を見て、
彼女の目は語っている。

『アナタは案外臆病なのね。』と。

馬鹿にされても、
嘲られても、
どうしようもない気がした。


手に入らないモノを望む事に、
きっと俺は
ひどく疲弊していたのだと思う。


「どうしたの、サンジ君。」
いつの間にか俺のすぐそばまで来ていたナミさんが、
ひょいっと顔を覗きこんでいる。
「誰かお探し?」
無意識につくっていた表情を見られて、
俺はすこしひきつった笑顔。
「・・あ、・・・・・・いや。
 なんでもねぇんっすよ。ナミさん。」
「またルフィがつまみ食いでもした?」
日常茶飯事に繰り返されるイタチごっこは
つよくナミさんの思考に留められているみてぇで、
なんだかそんな姿しか留めてもらえない自分が気の毒でならなかった。
あああ、
キミは本当に残酷。
「ルフィならあっちにいたみたいよ。」
ナミさんは船の後方を指差した。
「ロビンと何か話してた。」


ナミさんの何の気もない一言は、
一際大きく俺の耳に届く。

その一言に
なんかこう、
ひきつった笑いにヒビが入ったような、

奇妙な感覚。



「もう少ししたらティータイムにしましょうか。」


まるで人でないような声音は
確かに自分のものだった。





たゆとう波間のかすかな揺れ。
すでに慣れ切った波のはぜる音。

どこまでも単調な繰り返しの中で、
俺の頭は
何か得体の知れないモノで一杯になっている。


キッチンに戻ろうとして振り向いたその視界の端に、
ゾロの元に戻っていくナミさんの後姿。
何度も見送りすぎて、
いつしか思いだすのは決まってその光景となっていた。
俺はいつも
離れていくその距離を見送っていた。

そこにあったのは、
きっと
嫉妬とか恋慕とか、
口に出しては決していいたくない醜い言葉。

紡ごうとした単語は胸の奥の深いところにしまいこんで、
いつしかその澱は、
沈んでひどく重く。

吐き出してしまえば楽になれることを知っていた。
己が思う様ふるまえば、
きっと自分だけは救われるんじゃないかと知っていた。

けれど
同じように
それでナミさんの瞳が翳ることも知っていた。


軽い冗談を装って、
細切れにささやく愛の言葉。
それでいいのだ、と
優男な自分がつぶやいていた。



きっとそのうちすべてが冗談だと笑い飛ばせる日が来るのだろう、と。








それは案外近くまで来ているのかもしれない。








それははっきりとした輪郭で捉えられることはできなかったけれど、
胸騒ぎのような警鐘は
確かにどこかで鳴り響いている。



next

inserted by FC2 system