artigiano

とうこさま




調理台を拭いた。
テーブルに投げ出した材料を一つ一つ手にとって、
シンクで洗う。
勢いよく出した水で
皮にこびりついた汚れを爪先でこすりとり、
大きめの笊の中に投げ込む。
ひとまわり大きなボールに水を張り、持ってきておいた氷をがらがらと入れる。

市場から運んできたばかりの生温かさを
そこできれいに洗い落とす。

袋からアンチョビを取り出す。
オイルにつかったぬるりとした感触。
まとめてまな板において、
ちいさく刻む。

ソースパンにオリーブオイルをなみなみとそそぐ。
アンチョビ同様刻んだガーリック。
二つをいれて弱火にかける。
アンチョビとガーリックに焦げ目がつきそうになったら、取り出す。
オイルは濾して冷えるまで放置。

冷やしておいたレタスを取り出す。
手でばりばりと千切る。
切るより千切る。
歯ごたえが違う。

で、

なんにもなんねぇこの材料。

これを一体どうしようってんだろう。

物資補充のために寄航した港。
誰もいないがらんどうな船の中。

誰も食べない料理を

いつものように支度している。


ビネガーを用意する。
ボールに注ぎ、オイルを入れる。
ワインビネガーを数滴。
とりあえずかき混ぜる。
まざったらさっきのアンチョビ、
小瓶からだしたケイパー、
その粒をぱらぱらと投げ入れた。

食べるべき人間は誰もいない。

誰一人として存在しない。

ここには。


まったくもって意味がねぇ。


俺がやらかしてることは。


トマトを切ろうか、
パプリカをのせようか、
それともルッコラを。
チーズはパルメジャーノ、
それともエダム。



胸の内とまったく逆方向に、
働き続けるは自分の手。




突然興ざめた。



あぁ、わかってんだよ。
どうしてなのか。




見なかったことに、できりゃぁな。




投げ出した料理をそのまま放置。
どっかりと椅子に腰掛けて、

料理の最中には吸わないと決めていたタバコを取り出す。

部屋の温度にヌルまっていくのを
ただぼんやりと眺めながら、

ただ一息
煙を呑む。

自分の役割は決まりきっていて
船を後にしたら、自然に足は市場へ向かった。
見慣れない食材に気分はよかった。
活気のある店が立ち並び、
張りのある声が飛び交い、
悪くねぇと思った。

人が行き交う雑踏を潜り抜け、
大きな籠盛りに手を伸ばし、
つやつやした果実に噛り付き、
味見といいながら代金なんて支払わず、
「困ったにぃちゃんだ。」なんて店のオヤジに苦笑させて。

なんてことはねぇ。

決まりきったお約束事。

自分を位置づけるこの仕事。
自分で選んだこの仕事。

なんの疑問すらもたず、
体に染み付いた習慣。

目は色とりどりを追っていた。



だのに、



急に視界が開いた。



見知った姿が並んでいた。
見慣れたつもりの光景がそこにあった。
揺れるオレンジとグリーン。

じゃれあうような短い距離。
手を伸ばせばおさまってしまうような細い体。
当たり前のように存在する広い背中。


ああ、でくわしちまったと
口の中でつぶやいた。

知らなかったわけじゃねぇ。

冷やかしてやれるだけの余裕、
持っていたはずだ。

秘め事なんてもんじゃなく、
俺の目にはありありとその関係が見て取れていた。

理由は簡単。
俺の瞳はいつもその方向に向かっていたから。


朝食を並べるテーブルの上の指先。
昼間の日差しの下で、読書しながら向けられる視線の先。
階段ですれ違うときの短い距離。
交互する長い影。
まったく、とあきれた声しか吐けないような甘い喧嘩。


『なんでてめぇなんかがいいんだろうな。』
『・・・・・・、そんなの知るか。』

夜更けに交わした会話は、
もう当然のように存在していて、

もうなんでもないことだと

思いこもうとしていた。



でも、
俺の固まった眼差しの中で、

太い腕が
白い背中にまわって

イトオシそうに
その輪郭をなでた。


ただの
恋人たちの自然な仕草。

きっと当たり前に交わされる言葉と同じくらい、
日常にたたずむもの。



でも
心は打ち震えた。



俺はその場から


走って逃げた。



途中だった買い物の
荷物だけをひっつかんで。






時間はゆるく長い。
巻き戻すことのできないその渦は
ただ伸びるようにたゆとうだけ。

苛立ちをつのらせながら。


投げ出して、
テーブルに突っ伏した。
だからって何が変わるもんでもない。

ただ
ぬるまっていく温度がひたひたと忍んでくるだけ。

眩しくもないのにかすかに開けた目に
ぼやけた視界が映るだけ。

キィィと後ろの扉が開いた。


「あら、いたの?」

ばっと振り向く姿勢より先に
頭に浮かんだのと違う人の声がした。

「誰も帰ってこないのに食事の支度?」

小脇に数冊の本を抱え、
外から吹き込む強い風に真っ黒な髪を揺らし、

ああ、揺れているのはオレンジじゃねぇ
細くて長い指がそれをかき梳いていた。

「ロビンちゃんこそ・・・、
 今日は街に泊まるんじゃなかった?」
だらけていた体制を整えて立ち上がりながら、向かってくる彼女を椅子に招いた。
「別に、
 誰もいないところのほうが落ち着くから。」
船番アナタだった?と聞かれ、
首を横に振った。
「チョッパー。
 暇なら遊んできなって外に出してやったんですよ。
 やっぱり一人で船番って、さみしいじゃないですか。」
戯言は簡単に口をつく。
「アタシが帰ってきたんだから、アナタもでかけたら?」
いいのよ、と腰掛けながら彼女は言う。
「いや、いいんっすよ。
 まだ料理も途中だし。」

テーブルの上に放り出された買い物袋。
慌ててそれを片付ける。

隙間を覗かれるような羞恥に巻かれながら。

「ふぅん・・・・」
「あ、なにか飲み物いれますよ。」

そそくさとキッチンの方へと逃げる俺を一瞥。
そして、持っていた本の一冊をパラリとめくる。

カチャリ

グラスが鳴る音色。
それさえも響き渡るような静けさ。

注ぐだけの水の音さえも
波だつかのよう。

「あ、そう」
「何を作ってたの?」

気まずさに言葉をかけようとしてた俺の声を
彼女の透き通った声が遮る。

「誰も帰ってこないのに。」

彼女の見ている方角にあるのは
日持ちなんてしそうにないレタス。
今日仕込んだって、明日まで持ちそうにない代物。

「誰か来るの?」
お邪魔だったかしら、とうすく微笑みながら付け足して。

「いや、別に誰も。」

なんの用意もしてなかったここに、
あるのはただの水だけで、

それを持つ手がかたりと震えた。

「ただの思いつきでやってるんです。」

昼間からお酒なんて出すことは出来ねぇ。
でもジュースをつくるほどの材料がねぇ。
全部、
ほっぽりだして逃げてきたから。

「すいません、今ちょっと・・・。」

彼女の前に色もなんにもついてないドリンクを出す。

彼女はじっとそれを見て、
「ありがとう。」
とだけ答えた。


「いいにおいがするけど、何?」
「ああ、アンチョビをいためたオイルのにおいかな?」
冷えかけたオイルが入ったボールを指差す。
「パスタのソースか、ドレッシングか。
 迷ってるんですよ。」
ただの思いつきだから、と言葉を濁しながら。

「本当、アナタは熱心ね。」

彼女はめくっていた本を閉じ、立ち上がり、
俺のつくっていた料理の方へと近づいた。
「これ?」
強い香りを放つそれを興味深そうにじっと見て、
かたわらにいる俺の居場所をゆるやかに占拠する。
じり
距離が狭まる。

「うん、これ。」

後ずさりしたくなる心を抑えて、
絡まりそうな舌で答えを解く。

なぜなら、

漆黒の瞳に映る自分自身の姿が

あんまりにも弱弱しすぎて。

全部、見透かしちまうんじゃねぇかと

よぎる不安が色濃く映って。


「味見してもいい?」

俺の答えを待たずに彼女は、
とろりとしたオイルを一滴
その美しい細い指で掬い取った。

つるる

指の背を這う丸い粒。

てらてらした跡をひいて、

それはものすごく鮮やかに肌の光を模り、

包まれた指先は
うすい唇の中へ飲み込まれる。

紅い舌が
ぺろりとそれを舐め取る。

俺の視線をすべて受け止めながら。

「そうね、迷うかもしれない。」

淡々とした仕草なのに
まごうことなくそれは俺を誘っているように

間違いそうになる。

「職人って、一本道しか見えないのね。」

「え?」

突然吐き出された言葉は
さっきの話となんの脈絡もなくって、
俺ははっとして彼女の方を向いた。

唇に残るオイルの光。
翳った部屋の中ですら
恐ろしいほど輝きを放つ。

「アナタの中は料理で一杯?」

ドレッシングにもなっていないオイルを舐めながら、
冷やしたレタスのかけらに噛り付く。

俺のごまかしを咀嚼する。

「それとも料理で何かを消し去ろうとしてるのかしら?」



ああ、
キミって


できたら会いたくない人だよ


開かない口。

それは
無言の肯定。


「作る料理がおいしすぎて、
 かわいそうね、アナタは。」

見透かしすぎる黒い瞳を
塞いでやりたくてたまんねぇ。

お願いだから
剥がさないでくれよ、俺を。


「なにが言いたいのかさっぱりわかんねぇ。
 俺はコックだからつくるだけ。
 うまいものつくるのが俺の仕事。
 食わせてやるのが俺の役割。

 そんだけじゃねぇの?」

一体誰に言ってんだか。

ぴきぴきと亀裂の入る仮面を取り繕おうと
惨めにあがいてるのが、自分でも滑稽。

「ふぅん・・・、そんなものなの?」

ちらりとシンクを一瞥。
できれば見せたくなかった荒れ放題な惨状。
買ってきた食材を片付けることもせず、
使った食器は無残に放置。
コックなのに飲み物の一つも用意してない。

「作った先だけ見えてるのね。」

一体誰を想って料理してるのかしら。



小声で放たれたそれに


俺の手が動いた。


ダン


彼女の体のすぐそばの
調理台に手をつく。

密着しそうなほど接近した隙間。

「キミは何が言いたい?」

真正面から見据える瞳は
どこまでも奥深く真っ黒。

なにものぞけない。

「いじけたオトコは嫌い。」


「でも、アナタのつくる料理は好きよ。」

「からかってんの?」

「そうみえるなら、そうしておいて。」

間近に迫った顔。


怒りよりむしろ、
どうしようもない焦燥が俺のなかを彷徨いだす。


「あと、

 焦がれてる男も好き。」


光った唇から吐き出される言葉に
俺の体は

前にしか動かなかった。



ぬめった輪郭に噛みつく。
舌先が絡んで、
自分のものではない体温をまさぐる。

飲み干したくって、

わけ入りたくって、

伸ばした腕に力を込めた。


「でもね。」

口元から這う透明な糸。

息をつくかすかな合間に、
彼女は言う。


「ここにはアナタの欲しいモノはないわよ。」


ああ
これは
分岐点



追うのか



それとも
離すのか



「アナタのつくるものはおいしいでしょう?」

くすりと笑いながら、
俺の口元ににじんだオイルを指で掬い取る。

「結構な味見ね。」



そう言って彼女の体は俺から離れた。



舌に残るオイルのまるく濁った後味。

体温で温まったそれは
不可思議に口内を侵食する。

「アタシ、もうすこしでてくるわ。」



バタンと閉まった扉の音が
一人きりの部屋に響いた。



どうどうめぐりのサークルゲーム。



ゆくあてのない手のひらを
持て余すには一人きりすぎて、



また
冷えた水にさらす。



追っても離れても

もとめるものには手が届きそうにない。



なじんだ包丁の柄だけが
リアルに俺を取り戻した。




ああ、最低。



コックは俺の天職だよ。






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