「凪は…」
シャクさま
わけがわからねえ、まったく…
粟立つような焦燥感が体中に居座っている。理由などまったくわからない。
大体この手の感情に理由があるほうがおかしい。
焦っている。苛々している。それで終わり。のはずだ。
一番最後まで牙を剥いていた自分。
これがこれまでの生き方のせいなのか、持って生まれた性分なのかはわからない。
ただ、そうそう人を信用できるタチではない。
今回だって、うちの船長がOKしなければ一太刀くらいは浴びせていたかもしれない。
しかし能天気なゴムキャプテンは即答してしまった。
ならば逆らう理由もない。何かを企んでいる様子もないし、至っておとなしくしている。
なのになぜだ?
何をそんなに苛つく必要がある?

昼下がり。一つの塊だった船員が個人に戻る時間。
水平線を眺めながらメリーと話し込んでみたり、薬草を調合してみたり、
火薬の量を調節してみたり、航海日誌をつけてみたり、新しいカクテルの味をみてみたり。
読書を…してみたり。
流れる雲を目で追うが、ついて行ける距離はたかが知れている。
最近ではもっと単純な一方通行。白い雲の先は漆黒の髪と瞳。
なんだってんだ、一体。
何度も繰り返す自分への疑問。いや、罵倒か。
古びた本のページが半分くらい進むと、彼女はスッと立ち上がる。
甲板に寝転がり、薄目を開けてそれを追う。行き先などわかっているのに。
「なあ、ロビン。キッチンへ行くのか?」
無邪気な船医が声をかける。
青い鼻がピクリと動き、零れ落ちるのではないかと思うほどの丸い眼が問いかける。
「ええ。何か伝言でも?」
「アロエが手に入ったって聞いたんだ。少しもらってきてくれないかな?」
彼女は唇の端だけで微笑んで頷いた。足を動かしかけて、ふと
思い出したように振り返る。
「ねえ、船医さん。アロエは何て呼ばれているか、知ってる?」
チョッパーの耳が少しうなだれる。拗ねたような上目使いで、
それでもそれが愛嬌溢れる意地悪だと知っている顔で呟いた。
「『医者要らず』。優れた植物だもん。でも医者は必要なんだからな!」
性悪女はさも愉快そうに微笑んだ。
「わかってるわ。その『医者要らず』を使いこなせるのはお医者様ですものね。あなたのように優秀な」
途端に目を輝かせて馬鹿野郎、嬉しくねえぞと喚いている。
比較的早いうちにこの冷たい瞳を暖めた一人。やれやれとあくびをしてみた。
それに気づいて女の体がこちらへ向く。
「あなたは? 剣士さん?」
「…フン、クソコックに言いたいことなんかそうそうありはしねえさ。昼寝の邪魔すんな」
「あら、ごめんなさい」
流れるような返答を置き去りに、彼女はキッチンへと消えていった。
いつもそうだ。
彼女と話をするたびに、言葉を交わすたびに、口の中に残る苦い自己嫌悪。
なんでこんな思いをしなきゃならない?
悪いことをしているはずなどないのに。
「お前さ、ちょっとまずいんじゃないのか?」
ふいに床に置いた頭の辺りで声がする。
視線をやると、ゴーグルをつけたままの狙撃手が座り込んで何か作っていた。
声より近い位置、ウソップの手元からチリチリという奥歯をくすぐられるような音がする。
「最近あいつばかり見てる。見てるくせに話し掛けられると切りつけるような口調で話す」
彼の視線は手元に向けられたまま。
パチンコで飛ばせる玉を作るのだから、相当細かな作業なのだろう。おれにはできねえといつも思う。
「何が言いてえんだ?」
「そんな事、お前が一番わかってるんじゃねえのか?
小さい頃、そんなクソガキいただろう? 話かけたいのにわざと冷たくしてみたりさ」
カチンときた。どの部分に? 年下のウソップにガキだと言われたこと? それとも…
「だから何が言いてえんだ?」
「お前、ナミはいいのか? 船内で誰と誰がくっつこうが自由だし、とやかく言うつもりはねえがな。
ドロドロした関係だけはごめんだぜ?」
知らず知らずのうちに起き上がっていた。知らず知らずのうちに長い鼻先まで顔を寄せていた。
「何のつもりの話だ、そりゃ? おれがあの女に惚れてるとでも言いてえのか?」
「そうは言わねえ。だが、興味津々だろう?」
彼には珍しく、まったく動じない。フワリと飛んできた枯葉でも払うように顔を背ける。
「今更、だよ。わかってるだろう? あれはお前のモンじゃねえ。
 あれは、どんなにあがいても手に入れられなかったモンをきっちり見守ってきた野郎のモンだ。
 それでもがんばって笑ってたあいつのモンだ。そっちも欲しいなんて思うのは、欲が深すぎる」
驚いた。何も知らない気楽な船員だと思っていたからではない。
こんなに度胸の据わった目を持っていたことに唖然とする。
お前、でっけえ爪隠してるもんだな。嘘つき鷹め。
「そんなこと考えたこともなかったさ。あいつはどうも気に食わねえ。それだけだ」
ゴーグルを外し、意味ありげに目尻を下げられると通用していないと嫌でも突きつけれる。
それでもそう言うしかない。はっきりさせるには言葉に出すのが一番だ。
「どうだかな。ま、いいさ。
 とにかくたまには他のケーキを食ってみたいなんて思うのだけは、気合を入れて我慢しとけ」
それだけ言うと、いつもの狙撃手の顔に戻った。
立ち上がり、まだニヤニヤしている小さな相棒の元に駆け寄って行ってしまった。
惚れているわけはない。それは確かなことだ。寝てみたいわけもない。
それだって確信に近い。自分には自分の半身がいて、その女以外を抱きたいと思ったことは近年ない。それに――
あれはお前のモンじゃねえ。
そんなことくらい言われなくてもわかっている。まあ、わかったのはついこないだだが。
いつのまにかキッチンでの声は二つになっていると気づいたのは最近。
それもナミに教えられてやっとだ。改めて自分の鈍感さを実感した。
最初は探り探り。次第に柔らかく。そして甘くなったと言う。
自分では到底できそうもない粋なやりとりが時折飛び交っている。
少しばかり本の話題が増えてきたコック。ほのかにタバコの残り香を連れて歩く彼女。
何の問題がある? 万事丸く収まってるじゃねえか。
そう。これでもう見なくて済む。
手に入れたいが入らないジレンマを隠すあの野郎の顔。
本能のまま動けば何もかもをなくしてしまうとわかっている苦悩の顔。
そして応えてやりたいが応えてやれないてめえの女の顔。
何一つ手をつけられない、つけてはいけないと自制する自分の情けない顔。
何が欲しい? どうなりゃ満足だ?
頭の中がえらく混雑してきた。元来考えてから動くタチ性質ではない。
答えがいますぐ弾き出されるなんて、うちの船長が突然海で泳げるようになるより不可能だ。
緑の髪を掻き毟って立ち上がった。ため息をついてどこへとなしに歩き出す。
だが、体は思考と一対ではなかったようだ。
頭ではやめろと言っているのに、足が勝手にキッチンへと向かう。
あてがなかったとは言わしてくれない。水が、飲みたいだけだ。それだけだ。
じゃあなんで忍び足なんだともう一人の自分が問う。
知ったことか。とにかくおれは答えが欲しいだけだ。
なんでこんなに苛々するのか。
あの女と言葉を交わすたびに襲われる「こんなこと言いたかったわけじゃねえ」という自責は何なのか。
本当にぶつけてしまいたい、喉元に突っかかって取れねえ言葉が何なのか。
キッチンのドアは閉められていた。中ではゆったりとした言葉が行き来している。

入れよ。

水が飲みたいんだろう?


やはり体が裏切った。壁にもたれて座り込み、耳を研ぎ澄ます。
それ以外の動きはしないと決めたらしい。従う他はない。
「いい香りね、コックさん」
女の声が流れ出した。見えなくてもいつものように微笑んでいることくらいわかる。
「アップルミントを少量。好評かと思って」
そのアップル何とかが何かはわからないが、きっと紅茶の話をしているのだろう。
優しい香りがほんの少しだけここまで漂ってくる。おやつの時間はもうすぐだ。
「誰に好評なのかしら?」
何かを誘導する言い方ではなかった。むしろどんな答えが飛び出すのか、楽しんでいる風だ。
「黒髪の素敵なレディーに」
中に聞こえないよう注意しながら、ケッと鼻で笑ってみた。
まったく歯の浮くようなセリフをいけしゃあしゃあと。
「あら、よく覚えてたわね」
「ええ。以前お出ししたとき、えらくお気に入りに見えたので」
「他の素敵なクルーには?」
「ナミさんは少し喉を痛めているようなので、ジンジャーとハチミツをベースに。
年少組は最近夕食の量がますます増えたので、腹持ちのいいホットミルク。
クソ剣士にはブランデーを数滴落としてみようと」
小さくフフフと笑う声。そしてよく気がつく人ねという華やいだ言葉。
正直言って、それには感服することがある。
自分では気がつかないクルーの変化に「食」を武器に食らいつく一流クソコック。
どの料理が進まなかったとかどの料理を辛いと感じているかとか。
チョッパーが感心するくらいだから、きっと体調も言い当てているのだろう。

「以前にね、ナミさんが高熱を出したんですよ。おれは気がつかなかった。
 まあ、気づく時間すらなく発病しちまったんだが。
 ちょっとばっかり悔しくてね。料理人として、満足に病人食を作ってやることもできないなんて。
 それからは少し意地になるくらい敏感になってるところがあるかもしれませんね」
へえ、そうなのか。だがおれが中華が脂っこいと言ったときには「二日酔いの馬鹿が贅沢抜かすな」と一喝しやがったじゃねえか。あれ、そういやあのときみんなに内緒で秘蔵の酒を飲んでたんだが。いつバレたんだ?
「最近、みかんのお菓子が減ったようね」
ここからでは見えない。ドアは閉まり、自分は座り込んであらぬ方向を向いている。
それなのに、あの野郎の動きが一瞬止まった。それが頭の中で鮮明に映し出されてきた。
「もう思い入れがあまりないのかしら?」
シュボッという聞きなれた音。奴のマッチが火を起こす。そしてフウッと煙を吐く音。次に何を言うのか待っている人間が二人。ドアの中と外で辛抱強く、行儀良く。
「そんなことないですよ。大事なみかん、今までもこれからもちゃんと見ています。
 ただ調理法を変えただけのこと」
女は何と返すのだろう? この水面を撫でるような浮ついた会話を、こいつらはどうしようというのか?
「あなたは、それでいいの?」
無責任な女だよ、まったく。ここ一番の言葉を相手任せにしてばかり。
これが大人の会話というのなら、自分には一生かかってもできそうにない。
「ええ。おれはね、今色んな意味で軽くなった。
 あなたのような大人の女性から見ると、
 きっと子犬がじゃれあってるくらいにしか見えないでしょうけど、
 おれ達にとっては身を切られるような料理だった」
思わず声が出そうになった。
慌てて口を押さえたのと、中でポットを動かすカチャンという音に紛れて救われる。
「あのみかん、いつも美味そうに見えるでしょう? いつも手に取れる場所にあった。
だがね、あれを取れるのはおれじゃない。
おれじゃ美味くは食えないから。みかんを美味そうに見せるのはおれのほうが上手だ。
でも美味く食えるのはおれじゃない。無理にもぎ取ると、おれは大事なダチを二人もなくしてしまう」
「みかんであると同時に友人ってわけ?」
「同時じゃない。それ以前に、ってこと」
こめかみが痛い。奥歯を噛み締めすぎているらしい。
畜生! 畜生! あんのクソコック! なんでそんなこと話す?
こんな得体の知れない女相手に、なんでそんなことまで晒しちまうんだよ!
お前の泣き所だろうがよ!
「わかってるなら、悩む必要なんてないんじゃなくて?」
「わかってるから悩むんですよ。頭でしかわかんねえ馬鹿だから、おれは」
「体はそっぽを向くってわけね」
「そういうこと」
体が心を裏切るという現象は、どうやら誰にでも起こり得ることだったらしい。
奇妙な場面で奇妙な連帯感。こみ上げる苦笑をかみ殺すのに必死。
「でも、なんだか最近ね。凪ってもんを知りました。
静かにゆったりと、ああ美味そうなみかんだよなあって眺めるの、わりと気に入ってるんですよ」
拳を握った。後ろめたさはモロに覆い被さってくる。
おめえはそれでいいのかよ? ええ、おい?
あれほど歯ぁ食いしばってたじゃねえか?
必死で笑ってたじゃねえか?
そんな女にほだされちまって、お前はそれでいいのかよ!
「欄干ギリギリに立って体を乗り出して見る海もいいけど、
一歩後ろに下がって見る大きな海も綺麗なものだもの」
「そんな調理法を教えてくれたのはあなたですよ。
 あなたとこうして話していると、おれは自分が男であるってことを思い出す。
 見苦しいほどみかんを渇望していた日々が、愛しいまでに昔に思えるんですよ」
 殺し文句ねと女が言う。事実ですよと男が返す。
そして短い口づけの音。紅茶が注ぎ足される熱い匂い。
おれは信じない。これで笑っていられる女なんて。
まだみかんはここにいる。そしてこいつはまだそのみかんを眺めてると公言しちまってる。
大人の余裕? くそくらえだ。きっとこいつは、きっとこの女は――
「もう認めなさいよ。自覚してないの、あんた一人よ?」
思いのほか近くから声がした。ギョッとして顔を上げると噂のみかんが呆れ顔で自分をみつめている。
「お前、いつから?」
「ずっとよ。まったく、せっかくウソップにハッタリかまさせたのに、
やっと動いたと思ったらこんなかわいい真似をして。まだわかんないの?」
同じ目線になるよう座り込み、困ったように眉を下げているナミが大袈裟なため息をついた。
頬杖をつき、母親のように額をピシャリと叩かれる。
「あんたが心配するほど、サンジ君はウブな男じゃないわよ」
何を言っているのかわからなかった。返す言葉がいまいち選べない。脈絡がつかめない。
「?」
「まあ、刀を振り回してしかこなかった男だし、わからなくもないけどね。ちょっとやりすぎよ?
 言葉にすれば済むことじゃない。ロビンはそれほど悪い女じゃないわよ」
何かが晴れた。ずっと曇っていた胸の中の空が、突然晴れ渡った気がした。
喉の通りがよくなったのは、気のせいか。
心配、してたのか? おれは? あのクソコックのことを? 
そんな可愛げが、おれにもあんのか?

嵐は少々長すぎた。

みかんを真ん中にして風が吹き荒れ、雨が暴れているのが当たり前の船旅だったようだ。
自分の宿敵。ある意味戦友。負けるかもと思ったことはないが、自分が最も慰めてはいけない男なのだともわかっていた。三人ともが何もかもわかっていた。崩してはならない何かを必死で支えていた。そして苦しんでいた。だからこそ、あがいていた。
それが突然、終結したことを信じられなかった。二人目の女が乗り込んできたのが初めてではない、代わりを見つけられるほど器用な男じゃないという、驕りにも似た先入観がより一層の疑心を生んだ。

体がきしむような嵐で船が沈まないよう、一番がんばっていたあの野郎が腹から笑える日がきたことを嬉しく思う。思うが、それ以上にそれがニセモノだったらという恐ろしさ。後々こいつを傷つけるような言葉をかけるんじゃねえ。遊ぶならこいつはだめだ。こいつだけはだめだ。
ああ、なんだ。そうなのか。ハッ! くだらねえ、子供じゃあるめえし。保護者気取りかよ、まったく。笑えてくるのは当然。よりによって一番心配してたのがおれかよと滑稽にしか思えない。何様なんだよ、えっ?大きな音を立てて、キッチンのドアが勢い良く開いた。そこにはポケットに両手を突っ込んだままのクソコック。くわえタバコで仁王立ち。ちらりと中を覗くと、ロビンがニッコリ笑ってこちらを見ている。
「てめえ、盗み聞きとはいい度胸してやがるな」
サンジの額には青筋が数本。タバコが折れ曲がるほどに強面を仕上げている。
「あぁ? 誰がお前らの話なんか聞くかよ。ふざけんな」
即座に立ち上がって鼻っ面を突きつける。売られたら買うものだ。蹴られたら殴り返す。そうやって共に支えてここまできた。
「じゃあなんでこんなところに座り込んでんだよ」
胸倉をつかみ、つかまれるのはほぼ同時。そしてナミにポカンと頭をはたかれるのも。
「うっとおしいわね、二人とも。なんでもかんでも喧嘩するんじゃないわよ。
 サンジ君、チョッパーがアロエはまだかってさ」
「あ、ああ。今行きます」
サンジはキッチンの棚からアロエを素手で掴み、まだ凄み足りないとでも言いたげにこちらを睨みながら外へと出て行った。ナミもブツブツ言いながらそれに続く。子供じゃあるまいしなんて聞こえよがしにこぼしている。
そして残されたのは、呆けた自分と笑みを含んだ女だけ。
「わたしに何かご用?」
押し黙ったまま突っ立っていると、女のほうから声をかけてきた。
喉につかえていた言葉。もう解放してやってもいいのだろう。
大事に持っていたって、何の足しにもならない。
ドア枠にもたれかかって腕を組んだ。
「遊びなら、他を当たれ」
「何のこと?」
「同情なら与えるな。気休めを求めてるわけじゃねえんだ。空いてる穴を埋めるくらいじゃ収まらねえ。浮ついた優しさを見せてるだけなら、よしてくれ」
言葉の真意はつかんでいるはずだ。
裏を読むのは得意な女。その女から微笑みが一時消えた。
「あなたがそれを言うのは、傲慢ではなくて?」
わかっている。剣先よりも鋭いモノで奴を切り裂いた張本人は自分。その自分がほざくセリフではないと知っている。知っているからこの嫌な焦燥感の名前が浮かばなかった。
が、やはり一番鈍感なのも自分だったようだ。こればっかりはどうしようもない。
「遊びなんて思っていない。何を本気と呼ぶのかは知らないけれど、傷ついた男に同情なんてハナからわたしの中には存在しない感情よ。彼は魅力的。きっとあなた達が思っている以上にね」
そうかとだけ呟いて、キッチンを後にした。意地っ張りも大変ねという言葉が追ってくる。
「心配することも簡単じゃないのね」
それも聞こえたが、答える必要はない。嵐は終わったのだ。
その夜、甲板に出てトレーニングをしていると紫煙が漂ってきた。
軽い足取りでサンジが階段を降りてくる。
「何しにきやがった?」
気恥ずかしくて顔なんか見れやしない。それは向こうも同じこと。視線は一度も通い合わず、黒スーツはそのまま欄干にもたれて海を見ている。
何かを話しにきた。だったらそれも結構。おれは何ももう言わない。
「厳しい、人だよ。あの人は」
雫がこぼれるように奴が言う。
「否定も肯定もしてくれねえ。
 自分がそうやって生きてきたからだろうが、他人にも厳しい人だよ。
 おれがきっちりケリをつけるまで、何も言ってはくれなかった。
 自分に気を持って行こうともしねえ。ただ黙って見てる。
 自分でどうにかしろと言葉じゃない言葉で挑んできやがる。
 おれは彼女を代用品にすることさえできなかった。手強いよ、まったくあのお姉さんは」
独り言。ただ自分はそれを盗み聞きしているだけ。昼間のように。
ドカンと座り込んで汗を拭いた。
「遊ばれるなら、それもいいと思ってた。だが、それすら許してくれねえ人だ。
しっかり目ぇ見開いてがっちり食らいついていないと、遊んでもくれねえ。
だがな、おれはもうそれを遊びとは呼ばねえ。簡単にはふるい落されねえ」
煙が舞う。それはまるで霧のようで、目の前の男がやけにぼんやりとかすんで見えた。
「惚れた女といるときっつうのは、やけに時間が早く過ぎると思わねえか?」
ようやく独り言は終わったようだ。
振り返りはしないものの、言葉はこちらに向かって走り出す。弾かれたように返事をした。
「ああ、そうだな」
「けどな、あの人といると時間がいつもよりゆっくりと感じられるんだ。ゆっくりゆったり、紅茶飲んで甘いケーキを出して、最近読んだ本の話を聞いて新しいレシピを聞かせてもまだ時間がたっぷり残ってる。これってよ」

得してると思わねえか?

楽しげな声。カブトムシを捕まえた船長の声とそっくりだ。いいもんみつけたんだ。ほら、ちょっと見てみろよ。おれがみつけたんだぞ!
「厳しい女じゃなかったのかよ? 言ってることがめちゃくちゃだぞ、お前」
「ああ、厳しい。今でも厳しい。だが気張らねえ。おれのペース、あの人のペース。
 無理に崩すこたあねえって話だな。いい女だよ、お前が思っているよりずっとな」
暗黒と化した海に向かって話しかけているコックの表情は見えず、ただタバコの匂いだけが相変わらず風に乗ってやってくる。
「知るか、そんなこと」
返答にした覚えもないが、会話を順序よく繋げる気などこの野郎にもなかったらしい。
しばらく空を見上げた後、またポツリと呟いた。
「てめえがてめえのままでいられる女って、一人だけなんだろうな、きっと。
 神様だかなんだかが割り当ててんだ。
 たまに寄り道しながら、迷いながら、その女に巡り合えるなら上等じゃねえか」
「そんなもんかね?」
「ああ、きっとそうだ。厳しくて優しい人だ。きっとおれにしかわからねえ」
答えず、ただ聞いていた。そうして欲しいのだろうと思った。
サンジの顔がわずかにこちらへ向いた。鼻先と唇の端だけが見える。
そしてそこから白い歯が顔を出す。
「やらねえぞ、今度は。お前なんかが太刀打ちできる相手じゃねえ。
 おれレベルじゃないとな」
フンと鼻で笑ってやった。こいつみたいな気障男には柔らけえ侮蔑をくれてやる。
「いらねえよ、あんなモン」
サンジの指からタバコが弾き飛んだ。
まだ火のついたそれは、きれいな弧を描いて波へと消える。
「おれの、半分があの人なんだ。手ぇ出すんじゃねえぞ」
結局一度も視線を合わせないまま、コックは船内へと歩き出す。
すれ違いざま、何か聞こえた。

気ぃ揉むなよ、クソ剣士。そんなにヤワじゃねえって。
いや、思い過ごしかもしれない。
まあ、なんでもいい。どうせ聞こえないふりをしたのだから。
あの野郎の足音を聞きながら海を見た。今夜は凪――。
出来すぎだな。

END


ゾロビンに見えますか? ゾロサンに見えますか?
いいえ、シャク的にこれはれっきとしたニコサンです。
ストーリーテラーにゾロを選びました。
ゾロって人を心配することに慣れていないと思うし、
しかもその対象がサンジなら、こんな感じかと思いまして。
そしてロビンと出会ってで少し穏やかな心持ちのサンジというのもいいかしらと。
どうもサンジは受難とか悲恋がとても似合ってしまうので(実はシャクもそれが大好きなのですが)、
まったりなコックを書いてみました。しかしシャクの悪癖、
渡る世間は○ばかり並みの「長ゼリフ」。
サンジ、がんばってセリフ覚えてくれ! NGは3回までだ!
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