少しだけ、昔の話を聞いてくれますか。
あれは俺が、13の頃だったかな。
・・・ええと、じゃあ今日はローズティーにブランデーで。


灯りはもうちょっと落としたいな。
ランプの灯火だけの方が、貴女の瞳の色が映る。
歯が浮く?俺はいつもこうですよ、美しいレディには。
・・・ほら、また微笑ってる。
まだ貴女にはガキにしか見えないんでしょうかね。

SNOW FAIRY

れーな・Kさま














東の海に浮かぶ、海上レストラン【バラティエ】。
開店してから幾つかの季節が過ぎ、物珍しさも手伝ってか
人が人を呼んで、目まぐるしく忙しい毎日。
軌道に乗った、と云ってもいい。
海賊上がりで片足のオーナーは、とんでもなく頑固で厳しかったが、
漸く少しずつではあったがそれなりの仕事をさせてくれるようになった。
ただ、ほんの僅かでもミスがあれば、容赦なく義足の蹴りが飛んできたが。


今は、ランチタイムの殺人的な忙しさはピークを過ぎて
時間をずらしてやってくるお客がちらほら程度。
交代制の休憩時間に入って、サンジはコックの一人から
くすねた煙草の箱を片手に、入口の反対側の一番人目につかない
隅のほうに座り込んで一本目に火をつけた。
「舌が狂う」と云われても、早くチビ扱いから逃れたくて吸い始めた、煙草。
咳き込むことはなくなったが、まだ美味いと思える訳も無いけれども
何故だか酷く落ち着くので手放せなくなりつつある。

昨夜、一人でやってみろ、と老料理長に初めて云われてスープの仕込をした。
サンジ本人は自信があったそれは、案の定料理長に一蹴された。
「こんなものを客に出せるか」と。
その後はいつものように売り言葉に買い言葉。
今朝は一言も口を聞かず、任されたのは雑用だけで。
思い出せば腹が立つ。
短くなった煙草をそのまま海に放り投げた。
そのとき。


ガタン、となにかが、ぶつかる音がした。
サンジは思わず身を乗り出して、海面を見た。




「!」




最初に目に入ったのは、海の色と同化しそうな濃紺。
そして黒と白。
視界に入ったものが何であるか理解するのに少々の時間を要した。



せいぜい一人か二人くらいしか乗れないような小型ボートが、
波に揺られて【バラティエ】の船体側面にゴツン、ゴツン、と
ぶつかりつづけている。
そしてそのボートの中に。



横たわる女。



濃紺は女が纏っている服の色で、黒は女の髪の色。
血の気の失せた白い顔の瞼は閉じられている。
左の二の腕に傷を負っているのか血が滲んでいた。




なんでこんなところに?
これは誰だ?
いや、そんなことより怪我してるみたいだ、誰か呼ばなきゃ!




驚きで混乱する頭を振ると、サンジは急いで厨房へ戻ろうとした。
が、急に躰が動かない。何が起こったのかサンジには判らなかった。
其処にはその女以外誰もいない筈なのに、後ろから誰かの手が
彼の両腕ごと羽交い絞めにして、首にも今にも締め上げそうに両手がかけられ
しかも口をも塞いでいるのだ。

目の前の女の瞼がゆるゆると開き、やや低めのアルトがその唇から漏れる。



「人を呼んでは駄目・・・静かにして頂戴。騒いだら子供でも容赦はしないわ」


女がゆっくりと身を起こす。
立ち上がると、手摺りを乗り越えてこちら側に移ってきた。
サンジの前に立つその女の、彼を見る黒い瞳が凍てつくようだ。
女は無機質な印象の美貌を持っていた。
小さな顔を縁取る黒髪が、肩よりも僅かに長い。
細い躰にぴったりした、深海の色のボレロとロングパンツ。
その背に青白いオーラが揺らぐ幻覚さえ見える。
本当に殺されそうだ、と思った。
慌てて首を縦に振る。


「騒がないで」


女はもう一度繰り返した。
サンジも、口を手で塞がれたままもう一度頷いた。
黒髪の女は溜め息のような吐息を漏らすと、
サンジを拘束していた手が瞬く間に消えた。

何だったのかあの手は、と思う暇も無かった。
ふ、と張り詰めた糸が切れたかのように、かくりと女が膝を折った。
それを見たとき。
考えるより先に躰が動いた。
女に駆け寄り、倒れないよう支えてやる。
女は不思議そうな顔をして、彼女を支えている少年を見上げた。


サンジはこの頃から、一言で云って女性崇拝者の資質がある。
彼より年嵩の荒くれコックはみんな口を揃えて
「女は魔物だ」「女は怖い」とか云うのだが、
ほんの幼い頃から近親者に女性がいなかった所為もあってか
それがよく理解できない。
バラティエ以前、あの遭難以前の見習いコック時代にも、
金髪で人懐こく可愛らしい外見の彼を、女性客は可愛がったものだったから。

罷り間違えば今殺されるかも知れなかった女相手でも
そんなことより、その女の深い眼の色に
明確には言葉に出来ない何かを見たような気がしたのだ。




「・・・?」
「怪我してる。手当てしなきゃ」
「大した怪我ではないわ。騒がないでいてさえくれればすぐ・・・」
「ここには誰も来ないから少し待ってて、お姉さん顔色悪いよ」
「構わないで」
「誰にも云ったりしないから、大丈夫だよ」
「・・・待っ・・・」



傷口を押さえて戸惑う女を座らせると、サンジは走り出した。
女は今度は信用したのか、今度はあの妙な手が
彼を留めることは無かった。
自室に救急箱がある。大したものは入っていないが
何もしないよりはマシな筈だ。
運がいいのか、誰にも会わずに自室に飛び込むと、小箱を引っ張り出して
部屋を出ようとしたときに、ふと目に入ったものがある。
何故そんなことをしようと思ったのかは後で考えても解らなかったが
彼はひとつ自分に頷いて、小箱をおいて、作業にかかった。


サンジが戻るまで、時間にしておそらく十数分程度だったに違いない。
はたして、女はそこにいた。
手摺りに凭れ掛かり、眼を閉じて足を横に投げ出した姿勢で。
それを見ると何故かほっとしてサンジは女の元に近づいた。



「大丈夫?」
「・・・ええ」
「腕見せてくれる?消毒だけでもしておけば違う筈だから」

サンジは隣に座って、小箱を置いた。
それからもう片方の手に持っているものを差し出す。
女は首を傾げた。
サンジが差し出したのは大きめのマグカップ。
その中からはいい匂いがした。




「それは・・・?」
「昨日、俺が仕込んだスープなんだけどさ、クソジジイに
こんなもん客に出せねェって。自信あったんだけど。
でも食い物捨てられないから、てめェで処分しろって云われたんだ」
「私に?」
「お姉さん顔色悪いよ。少しでも身体あったまるから。
客に出せねェモンでごめん」


女は驚いたように目を見開いたあと、素直にそれを受け取った。
一度彼を見て、カップに口をつける。


細い咽喉がこくりと動く。


思わず息を詰めて見守っていると、カップから唇を離した女は
初めて彼を見て微笑った。
あの無機質な印象が、まるで違う人物のように。
花のような笑顔だった。



「美味しいわ」
「ほんと?」
「ええ。おせっかいな小さなコックさん」
「小さいは余計だよ。じゃあ腕見せて」



切り裂かれた袖をそのまま破ると、消毒薬を吹き付ける。
女はそのときだけ眉をしかめたが、大人しく為されるがままだった。
本当に応急の手当てだけだったが、スープの所為もあってか
女の頬と唇に血の色が戻ってきていた。
手当てが済むと女はありがとう、と礼を云った。
なんだか少し気恥ずかしかったが、うん、と彼は頷いた。
女は立ち上がった。


「長居は出来ないの。ここにも貴方にも迷惑をかけてしまうわ」
「何で怪我したの?お姉さん何者?」


思わず尋ねた彼に、女は首を振った。


「親切なコックさんにもうひとつお願いがあるの」
「何?」
「私と逢ったことは、誰にも云わないで。追われているの」
「・・・・・」
「約束してくれるかしら?そうでなければ貴方を殺さなくてはならなくなる」


最初に冷たいとさえ思った女の黒い瞳は、酷く必死な色を帯びて
サンジを見つめる。
サンジはまたも頷くしかなかった。


「解った。誰にも云わない」
「ありがとう。感謝するわ」
「でもどうするの?またあのボートで?」
「貴方のスープのおかげで、少し力がついたわ。悪いけれど
ここのお客の船を貸して頂くわね」


女は艶やかに微笑むとそう云い放った。そしてその言葉のあとに
囁くように続いた言葉を彼は聞き逃さなかった。


「私には知りたいことがあるの、生涯賭けても追う夢があるもの。
ここで捕まる訳には行かないわ」





同じだ、俺と。






女は、再びサンジに向き直って少し屈み込むと
その頬に軽く触れるようにキスをした。
そして、またありがとう、と唇が動くのを見る。
踵を返そうとするその背に、サンジは呼びかけた。


「お姉さん、オールブルーって知ってる?!」


立ち止まった女が振り向く。


「奇跡の海のことだよ!!俺も生涯賭けても見つけるんだ!おんなじだね俺たち」

それを聞いた女の口元が僅かにほころぶのを見た、とサンジは思った。
次の瞬間。
女はひらり、と彼の視界から姿を消した。



あとには、変わらず波に揺れ、ゴツン、ゴツンと繰り返し
ボートのぶつかる音だけがそこに残されていた。










***












海軍の一隊が、一枚の手配書を掲げてバラティエに踏み込んできたのは
その奇妙な出会いの、僅か1時間後のことである。
手配書には、まだほんの少女の写真と
それに余りにもそぐわない7900万ベリーという高額の賞金額が記されていた。

その名は「ニコ・ロビン」。

指名手配されてから10数年海軍が追いつづけていると、
海軍の佐官は、バラティエのホールに客もコックもウェイターも
全員集めさせて云った。
この近くの海域で、その女が潜んでいたと思われる海賊の一味が
海軍との戦闘で壊滅したにもかかわらず、
女の姿だけが見つからなかったと云う。
その海域から、速い潮流にのってこの辺りまで逃れた可能性がある、
店内を調べさせろということだった。

オーナーである老料理長は、いい顔はしなかったが、
客をまず帰してからなら構わないと云い、海軍大佐はそれで妥協した。
そこで客の乗ってきた小型帆船が一隻無くなっていることが判明し、
その時点でバラティエ内の捜索は無くなった。
緊急脱出用と思しき小船も、すぐに見つかり、
ここまで辿り着いたであろうその女が、客の船を盗んで逃走したという
図式が成り立ったからである。
海軍は近辺に捜索の網を広げるためにすぐに引き揚げた。
無論、サンジは全ての成り行きを承知していたが、
女との約束を守って何一つ話そうとはしなかった。
もしかしたら老料理長は何かしら感づいていたのかもしれなかったが、
あえてサンジを問い正そうとすることは無かった。




そして、その一連の出来事はいつしか記憶の底にしまい込まれた。











***











「忘れていたわそんな話」

いつものように静かな夜のティータイム。
紅茶の優しい香りを楽しみながらロビンは微笑っていた。

「俺は、忘れてませんでしたよ」
「忘れなかったのではなくて、思い出したのでしょう?」


まだ微笑んでいる。
その微笑みは少し悪戯気なものに変わると
サンジの肩先に手首が生えて、彼の髪を梳くような仕草をする。

「でも貴方約束を破ったわ」
「ロビンちゃん?」
「誰にも云わないでって云ったのに」


サンジは思わず咥えていた煙草を取り落としかけて、彼女を見た。
ロビンの表情は相変らず柔らかい。
楽しんでいるようだ。
この船の仲間として、まだ僅かな時間しかたっていないが
その白皙の表情は、驚くほど変わってきている。
今もそんなまるで少女のような顔で、サンジを見返す。



「じゃあ、俺を殺す?それとも・・・」



判っていながらその横に座り問い掛ける。
ロビンはまたもクス、と微笑った。



「東の海イーストブルーの果てにある島の民話を知ってるかしら?」
「『SNOW FAIRY』・・・・違います?」
「そう。『雪女』とも云うわね」

サンジが肩に回した手をすり抜けて、今度はロビンが立ち上がる。
サンジはそれを追いかけて、女の手を掴んだ。
くるり、と肩を掴んで自分のほうを向かせる。


「でも貴女はもう『SNOW FAIRY』なんかじゃないでしょ?ロビンちゃん」



ロビンは意味ありげな眼で彼を見上げた。
何を云いたいのかはもう判っている。
相変らず駆け引き上手な大人の女だ、と改めてサンジは思った。


そうね、とだけ呟く女を抱き寄せる。




そこにいるのはもう、13歳の見習いコックの少年でもなく
凍てついた瞳の『SNOW FAIRY』でもなく。



遠い日の、不思議な邂逅。



忘れていた記憶が鮮やかになる静かな夜は、
冷めかけた薔薇の香りの紅茶だけを残して・・・更けていった。

end

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