愛 し き 堕 落








あら、と荒い吐息と共に声が洩れる。
何ぜよ、と呟くような坂本に声が答える。
「辰さん、何を思い出したの?」
 くすくす、とお慶が笑う。微かな振動が繋がった下半身から伝って坂本の脳髄をさらに強く揺らしたが、「別に何も」と坂本は素気ない。その実、彼の頭の中では淡い唇に紅い唇が重なった画像が鮮明に繰り返している。彼が持ちえるものの中で一等高価な頭脳という財産は、昆虫の足のように絡み合った十の白い指先が名残惜しそうにゆっくりと二つに分裂してゆく場面を壊れたように再生し続ける。
「なぁに? 怒ってる?」
 お慶の子供をあやすかのような口調と、未だ笑い続けるお慶から伝わる振動と、忌々しい記憶と、脳髄から滲み出す荒れ始めた海上の浮き船のような揺れとが相まって、坂本の脳髄はその内で膨れ上がった怒りすらも飛び越えようとする。
お慶は頬を朱に染め、坂本が深く突き立てる度に喘ぎ嬌声を漏らす。それなのに、坂本は何故だか醒めた目で観察されている気がしてならない。彼自身の後ろめたさが単にそう感じさせただけかもしれない。錯覚なのか真実なのか分からない、そんな不可解なものが生み出す感情を振り払いたくて坂本はお慶の腰を抱え上げる。女の両足の間を割り幾度も深く腰を沈める。何度かの後に限界がみえ、彼女の中でどろりと精液を吐き出す。彼女はゴムを好まない。外での射精も好まない。
ねぇ、と繋がったままお慶が上体を僅かに浮かせる。
女の腕が二本ぶらさがる。さして重いものとも思えないはずなのに、坂本にはやけに重く感じる。坂本の首に絡まった白蛇のような腕は、やはり蛇のように何処かひやりとしている。浮いた汗が外気で冷やされたに過ぎないことは頭で分かっていても、だ。そのくせ膣道を経て子宮に至る道だけが、悪夢のように熱い。
「辰さん、怒ってるの?」
 そう問いかけるお慶は悪びれた風もなく、機嫌を伺う風でもない。からかっているような印象すら受ける。
「何を怒ることがある? ほれとも、お慶さんはわしを怒らせるようなことでもしたんか?」
「それを私が訊いてるの」と艶めかしい笑みで、ふふ、とお慶が小さく笑う。
 何処へ行っても地の言葉が抜けない――抜く気もないが――坂本と違い、お慶の言葉は洗練された標準語である。その標準語を見事に己の言葉として扱う。標準語だと感じさせない。
坂本がまだ攘夷志士をやっていた頃、既に彼女は今と殆ど違わぬ空気を纏っていた。好きなことを好きなように、興味のあることを興味が尽きるまで。そんな彼女だから、彼が地べたを這いずり回っていた頃には天人の船に密航はするわ幕府の許可もとらずに近隣の星を巡ってくるわで、男などという生き物が彼女と肩を並べて大口を叩くなどとおこがましい程であった。良くも悪しくも男が才気のある女に使う『女だてらに』という言葉があるが、お慶は『女だてらに』などという気負いを感じさせない。今も昔もお慶は並の女ではない。並の女でないが故に、結果、男を手玉にとる女だという印象を強く受けてしまう。けれどお慶にそのつもりはなく、だからこそ坂本は忘れた頃にこうしてお慶を訪ねてしまう。とはいっても、お慶だけが目当てというわけでもないのだが。
右腕を支え軸に、お慶は坂本を押し倒さんばかりに上体を起こす。下腹部にも力がかかり挿入したままの坂本の陰茎をさらに強く締めつける。感情とは別の次元に存在している肉体は、ただそれだけのことに健気にも反応する。感情を無視し海綿体には錆び鉄のような臭いを放つ赤い液体が呼び戻され満たしてゆく。
既に一度精を吐いた後の重だるい坂本の腰の上で、彼の陰茎を柱にでもしているかのようにひとつ大きく息を吐きお慶が身体を立てる。彼の上に跨った女の右の腕が宙を泳ぎ、坂本の頬を撫でる。陸奥の頬を撫でたように。
顔を寄せてくる。濡れた艶やかな赤い唇を。
 坂本は無言で赤い唇に、人さし指と中指の腹をあてがう。
「キスは嫌いだったのよね」
お慶の含み笑いに、今度ばかりは坂本も笑顔で返す。
「嫌いやなかぜよ。こりゃぁわしの一番の商売道具やき、塞がれちゃぁ商売が立ち行かんだけちや」
「つまり私は商売相手」
「寝間のお供、らぁて言われたくはなかじゃろー?」
「辰さん、私は投資してるだけ。商売じゃないの」
「借金だらけで首も回らんような男に、『投資』らぁなかろうて」
 同じ屋根の下に、別の男とまぐわう己の愛人を想って眠れぬ一夜を過ごしている男がいるのか。ふとそんなことを思い、坂本は性質の悪い優越感に小さく笑みを漏らす。
「あら、機嫌が直ったのね」と、にこやかなお慶がゆったりと腰を動かし始める。
「最初から機嫌は悪ぅなかぜよ」
 丹田のさらに下から神経細胞を伝い這い登る痺れにも似た快楽的な振動が、彼が持ちえるものの中で一等高価な頭脳という財産に一時的な機能障害を起こさせようとする。
結果が同じであったとしても、主導権は取らねばならない。戦であろうと商売であろうと、勝ちであろうと、完膚なきまでの敗北であったとしても。勝つためには強固な意志が要る。敗北は、それを認めるだけの理由が要る。誰かに何かに突きまわされた末の敗北などは着地点すらおぼつかない。それはつまり、再起までに膨大な無駄を生む。だから進むも退くも、常に攻勢であらねばならない。
「機嫌は悪ぅなかが――」
――ちくと怒っちょるだけやき。
 言葉を飲み込み坂本は、お慶の乳房を揉み拉く。その強さに、それまで涼しげだったお慶の顔が僅かだが歪む。ゆったりと焦らす様な腰つきが止まり、白く柔らかい腹の内側に篭った力は坂本の陰茎をさらに圧迫する。
「すまん、痛かったがか?」
 笑顔の坂本は、ぺろり、と濡れた舌で己の唇を軽く舐める。




『丁稚奉公』と言えば聞こえは好いが、早い話が『借金の担保』であった。お慶の口利きと決して少なくはない幾らかの出資を元手に代の一部を支払い目当ての中古船を押さえた坂本は、預けていた陸奥を連れに長崎へ戻った。
色好きで名高くもあるお慶の使用人兼愛人に案内され、彼は女主人が客人にあてがったという奥の座敷へ通された。縁に面した奥座敷、閉じた障子の向こうから流れてくる久々に耳にした声が心地よかった。
一声かけた後、使用人は障子を横へ滑らせた。
鮮やかな葡萄色の上等な着物を着せられ、髪は綺麗に結い上げられていた。薄化粧までして、顔かたちの好い陸奥はまるで姫様人形のようだった。
その性格も手伝って男所帯の貧乏暮らしになかなか馴染めなかった陸奥は、その頃はとりたてて仲が好いわけでもなかった中島に貰った一本のリップクリームを大事に大事に使っていた。中島いわく「取引先から渡された新製品」だったそうだ。
リップクリーム一本で中島に懐いた現金な陸奥は、あてがわれた奥座敷で彼らの一番のパトロンであったお慶の遊び相手をしていた。床の間の高価な一輪挿しには梅の花が活けてあった。焚かれていた香の名を、未だに彼は知らない。『上品な香り』という印象だけがいつも残る。畳の上には何処かの星からか輸入した希少生物の毛皮の敷物。その上に無造作に座りこんで、陸奥はお慶と詩歌の本を読んでいた。
あまり感情をその顔に乗せない陸奥は、それでも詩歌の何処かの音を出すために開いた口を閉じることを忘れ、ぽかん、と口を開けて連絡もなしに戻った彼を見上げていた。隙を見せることを好しとしない彼女が隠すことを忘れた隙を少しでも長く見ておきたくて、なかなか声をかけなかったことを彼は憶えている。
「坂本…」と消え入りそうな声で陸奥が音を発して、ようやく彼は「今、戻ったぜよ」と笑いかけた。
「もう?」と、お慶は笑みの形を乗せた顔で一言だけ不満を口にした。
船が手に入ったとなると全ての準備が整ったに等しく、姫様然とした陸奥を眺めるのもそこそこに坂本は出立の支度を急かした。お慶は随分と愚図ったが、それでも陸奥が快援隊の一部だということは認識していて「また遊びにいらっしゃいな」と見送ってくれた。
仕事に不向きな着物を脱ぎ、髪を解き、化粧を落とした陸奥を迎えた時、坂本は妙に落着いた気分になった。陸奥に洒落た格好が似合わなかったわけではなく、恐らく彼の中に『陸奥とはこうあるのが好い』という認識というものが――平たく言うなら『慣れ』があったせいだろう。飾り立てた姿よりも、見慣れた質素な姿の方が綺麗に見えた。
そんな陸奥の色素の薄い絹糸のような髪を名残惜しそうに指で梳き、その頬を掌で撫で、その手を握ったお慶は、それからくちづけをした。淡い薄桃色をした唇に艶やかな紅い唇が重なった。昆虫の足のように十の白い細い指先が絡み合っていた。やがて名残惜しそうに、ゆっくりと指が解けた。
気づけば、坂本は陸奥の腕を強く掴んでいた。陸奥の当惑気味な顔と、お慶の笑顔が忘れられない。
殆ど無意識に近い行動で、彼は陸奥の淡い唇に幽かに残った艶やかな紅を左親指の腹で乱暴に一度だけ拭っていた。
時間がどうとかいう拙い言い訳を残し、陸奥の腕を引っぱって彼はその場を離れた。引きずられるような陸奥がお慶に軽く頭を下げたのを、肩越しに振り向いた彼は見た。その向こうで、お慶はいつまでも笑っていた。陸奥にではなく、坂本に笑いかけていた。




 障子越しに薄っすらとした、朝陽が射していた。いささか早過ぎる鳥の声が二度、障子向こうの庭木の上から響いた。何気なく目をやった床の間にはあの時の一輪挿しが飾ってあり、今は椿が咲いている。
 この部屋で、いつも彼は悪夢をみる。
仄かに部屋に満ちた品の好い香の匂いは、昨夜の情事の余韻と相まり淫靡なものに変わっていた。幾つかあった中から陸奥が選び出し好んで焚いていたというこの香の名を、知りたいとは思わない。
悪夢はいつも同じでうなされる程ではないのだが、我慢のならない不愉快が押し寄せる。
お慶の使用人兼愛人は――あの頃とは違う若造だが――彼はこの部屋は女主人の上客にしか使わせないのだと、嫉妬が入り交じった口調で坂本に教えてくれた。時折お慶が独りで使う以外は殆ど使われていない、とも。余計なことをベラベラ喋る若造なので、次に来た時に彼はいないだろうと坂本は確信している。
我慢ならないのは、陸奥が使っていた床の中で陸奥以外の女との情事にふけるからだ。
 お慶の元を訪れる度に、彼女は必ず坂本に陸奥を思い出させることから始める。陸奥が使っていた部屋へ通し、長く逢っていない陸奥の様子を尋ね、陸奥の来訪を坂本にねだり、坂本の知らない陸奥の思い出話をして、陸奥が無防備に眠った床でお慶を抱かせる。それで満足するのか、目が覚めるとお慶はいない。
 仰向けのまま坂本は両手で顔を覆う。枕の下に金額の書きこまれていない小切手が挿しこまれているのは毎度のことなので知ってはいるが、どうしても手を伸ばす気にはならない。瞑目する。閉じた暗闇の中で淡い唇に紅い唇が重なる。
お慶が色好みとはその筋では有名な話で本人も隠そうとすらしないが、それが同性にまで及んでいるとは聞いたことはない。酒の勢いを借り思い切ってそれとなく陸奥に問うたこともあるが「馬鹿か」と真顔の一笑に付された。けれど唐突とはいえあの時のお慶のくちづけに、陸奥は抵抗しなかった。陸奥は『くちづけが挨拶』などという冗談がまかり通る女ではない。
早く帰りたい、と坂本は思う。色素の薄い髪に触れたい。声に触れたい。肌に触れたい。
帰りたくない、とも思う。触れることが許されるのは、実に僅か。強い飢えに僅かな快楽では、満たされるどころかより激しい飢えを生む。
エンジンの修理経費に目途はついたが、陸奥に資金の出処を知られずに終わるはずもない。ただ資金援助をしてもらっただけなどと、見え透いた言い訳が通用するはずもない。そもそも言い訳など必要としないことこそが嫌なのかもしれない。
お慶が何を考えて動いているのか、坂本にはさっぱり分からない。最期まで分からないだろうと確信している。己の行動は理解しているつもりだが、結局のところお慶の手玉に取られているのかもしれない。それでもお慶の元を訪ねるのは彼女を越えようともがいているのではなく、ただ彼女に溺れているからに過ぎないのではないか。
その矢先、普段は持ち歩かない携帯電話の音が小さく響く。
 顔を覆っていた手を解き、音のする方へ腕を伸ばす。指先に触れた布を手繰り寄せ、探り、音の発信源を掴み取る。折りたたんである蓋を開く。いつか実家に帰った際に姪っ子がいじりたおして勝手に設定したファンシーなデザインを施された熊のキャラクターが、液晶画面で微妙な笑顔を見せている。そこに浮いた文字と途切れることのない音に、坂本は溜息を吐く。通話ボタンを押して「はい」と掠れた声で答えると、一拍おいて「寝ちょるとこ起こして悪いが、頭」と今だけは一番聞きたくない声が受話器の向こうで囁く。
「はや帰るきに」
 用件も訊かず咄嗟にそう答えると、坂本はもそりと布団の中で裸の身を起こす。




☆       ☆       ☆




昼前には船に戻った坂本の執務室兼私室へ、彼の帰艦を聞きつけたらしき陸奥が早々に姿を見せる。勘定方の長岡あたりに先に接触しておきたかった坂本だが、目の前の陸奥の頭を飛び越え長岡へ――というわけにもいかない。
「朝早うに連絡入れてすまなんだが、『幾らかでも入れてくれ』いうて連絡が…」と、陸奥が実に言い難そうに修理業者からの苦情を物柔らかに砕き優しい表現で伝えてくる。実際にはこれより遥かに厳しい言葉が、昨夜あたり修理業者より叩きつけられたのであろう。
 快援隊は坂本個人の私設貿易団である。いくら彼の実家が親戚筋に商家を擁した資産家といえど、いくら彼が可愛い末息子といえど、身代が傾く費用むしろ身代を潰す費用をねだれるはずなどない。もちろん彼としてもそんな負担を頼む気もない。三隻の船と幾つかの商業権を担保に、自転車操業より幾分マシな状態で――今ではだいぶんとマシな状態になっているが――資金繰りをして商売を続けている。通常業務では資金面に問題はないのだが、船の外装・エンジンなど大掛かりな設備の突然の不調などには大きな痛手となる。
坂本が何くわぬ顔で平静を装い小切手を突き出すと、少し間があって陸奥は何も言わずに受取る。両手で。暫し無言で金額欄に数字のない小切手を見つめ、それから懐にしまいこむ。沈黙に耐えかねた坂本がちゃらけた口調で「がめるなやー」と笑いかけると、視線を伏せて「分かっちょる」とだけ小さく答える。何とでも詰ってくれれば気も楽だろうに。陸奥が何を思っているのか、彼には読めない。読みたくない。
応えをもらえない甲斐のない笑みに疲れ、あっさりと坂本は真顔に戻る。
「寝る」
 素気なく言い訳がましく呟いた坂本に、陸奥も「うん」と素気ない。そのまま踵を返して部屋を出ようとした彼女を呼び止める。振り向いた陸奥を捕まえ強引ともいえる強さで唇を押しつける。
「始末を頼む」
 淡い唇に未だに触れそうな距離で坂本は囁く。陸奥の唇から洩れる浅い吐息が、彼の肌、とりわけ唇を撫でる。
「了解した」と噛みつきそうな鋭い目で、彼女は彼を睨みあげる。坂本の胸板を強く押しやり、左の手の甲で唇を無造作に拭おうとしたその手首を坂本は掴む。強く掴み止める。
「許さんぜよ」
 陸奥は何も言わずに坂本を睨みあげるだけだったが、不意に視線を逸らせると何事もなかったかのように「後は引き受けたちや」と素気ない言葉を残す。置き去りの坂本は、一切の言い訳すら必要としないこのやるせない空気が堪らなく嫌いなのだ。









(20080905金〜20080910水)

end


敬愛する戦争のワンちゃん様から頂戴いたしました…。
とりあえず私の感想はいいから、もう一回読んで!




読んだかい?
じゃぁあと二回読んでから以下を読んで…。





なんだこれ。
なんだ、これ。


なんだこれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!

ちょぉ待って。凄い。凄すぎる
凄い、じゃないな。

凄まじい、ぞっとした。

すごいすごしすごい!
私坂陸奥を好きになってよかった!
この方とお知り合いになれてよかった!
バンザイ!

「深くて繊細で真摯で純愛で猥らでメランコリックで、誰より心よりあなただけを愛す」

そんな辰馬がいとおしいです!
感想は本人に言うから、もうこのお話を読んで痺れて、もうそれだけ。

まず、ワンちゃん会長に最大の敬意を。
そして心からの謝辞とハグと百万回のキスを!
んで、私にもう少し時間を!

このお話と勝負できるようなものを今から書く
これに魅せられて書かない字書きは居ない

ほんとうにありがとうございました!
これ貰って私一体何を返したらいいの?
途方にくれちゃう!(悦)

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