What is this?










「ねェねェそれなに仔猫ちゃん」





ぽとりと、陸奥の袂から何か落ちたのが見えた。
しっかりと凝視したわけではなく、目の端に映った。
動くものに反射的に目が行くというのは人間の生理的行動である。
その時もそうだった。
陸奥はすぐに気がついたようでそれを拾い上げてまた袂にしまった。

坂本辰馬は明朗な性格であると対外的には思われている。

基本的にそうなのだが、人間の性格と言うものは一概にこうとは云い難い。
どの人にも相対する性格の因子と言うものはかならず大なり小なり含まれており、
多種多様な部分があってその割合が常に変動し、人間の性格たらしめている。
人間の性格をコンピュータ上に性格に再現しようとするのが不可能なのは、
その配分と突然現れる相反する感情を性格にトレースし記号化しデータ化できぬ所為である。

坂本辰馬も同じであった。
普段は陽気で快濶な人柄、温厚である、暢気者、概ね陽気で大雑把、そういう捕らえられ方をしている。
しかし、今現在一瞬だけ普段「快濶な」坂本辰馬たらしめている陽気さは一瞬どこかへ消え、
疑惑と疑念を口に出せぬ臆病な人格が表面に現れた。

『それはなんですか?』

英語で言えば「What is it?」である。

陸奥の袂から零れ落ち、彼女が拾い上げてまた仕舞った物の名を問おうと思ったのである。
だが思わず坂本は口を閉ざした。
それが酷く見覚えのあるものに見えたからである。

形状は大体手の中に納まるくらいの五センチ角の薄型のものである。
コンビニで貰うおしぼりくらいの厚みがあって、パッケージの色は銀色であった。
真空パウチされているらしく、その中にはおおよそ人の親指と人差し指で作るほどの輪が浮いて見え、
およそ直径三、四センチの輪に皺が寄っていたようにみえたのは気の所為か。

英語で言えば「What is it?」の三語。
砕けた言い方で言えば『それなに?』
たった四文字の言葉が口から出なかった。

その袋の中身のおおよその想像がついたからである。

それは普通女性は必要としない。
いや必要としないわけではないが、
主に男性が身体の一部に被せて使用するものである、と推測した。

使用時は男女一緒、いや最近ではマイノリティだが男性同士と言うことも割合にあるらしいから、
二人一組、いや三人以上という場合もあることにはあるか、
兎にも角にも二人以上の複数の場合、さらには男性が使用すべきものではないだろうかと推測した。

また、実は自分と陸奥はその「二人一組で行う運動」を行ったことがある。
常時行うものではないが、大体週に一、二度程度。

いえ、私、坂本辰馬、嘘を吐きましたことをお詫びします。

最近は時間や勤務形態や出張などが重なって、
月に一度そういった機会を設けることが出来ればいいほうでした。
また使用する場合は、自分が用意いたします。
無論それは成人男性の当然の嗜みと思うからであります。

つまりコレまでの推理によって彼女が袂から落下させたその物質は、
通常自分が用意すべきものであり、かつ今まで用意してきたものであり、
その隠し場所は今自分の財布の中であり、枕元にある小さな引き出しの奥であり、
通常このような場所で彼女の袂から落ちるべきものではなく、
また彼女がその物質を必要とすべき状態にも無いことを踏まえた上で、
何ゆえ彼女の袂から落ちたのか知りたい上での質問、
「それなに?」
が口から出なかったのは、普段の坂本辰馬にとっては在り得べからざる行動であった。

通常その物質が必要な場合を考えてみたい。
以前の自分ならまだしも最近では他の女性とそういった運動は一切行っていない。
これは天地神明にかけて誓える。
陸奥は疑うかも知れぬし今までの生活態度から言っても疑われても仕様が無いが、事実である。

恥ずかしながら、それ以前の自分の行動を遡ってみたい。
自分は女性とそういう運動を行う時には必ず持参、
或いは運動を行う際の場所に設置されたものを使用することにしている。
大抵の女性は用意をしていないものと推察するのだが、
そういった運動を職業にしている女性たちは無論持参していることが当たり前である。
サイズも取り揃えているらしいが、伸縮性の或る素材なので二、三サイズも無いのであろうが。

ちなみに自分のサイズはLである。
いや嘘である、普通寸です。
スイマセン。
男と言うのは何ゆえ、こんな時ですら下らぬ見栄を張ってしまうのだろうか。

話が逸れた。


兎も角、男女で行う際の運動に大して男性側にとって必要なものであり、
またそれは女性に対しての配慮の為ものであり、
そういった際、陸奥嬢と行う時には自分が用意すべきものであり、
彼女が用意しなくともいいことは判っているはずである。

つまり、斯様なものが彼女の袂から落ちるということは即ち、
彼女が必要な場面に即した或いは即す準備があるということに他ならないだろうか。
またそういった運動を彼女が他の男性、或いは女性かもしれないが、
兎も角自分以外の人物と行う場合にのみ彼女が必要とするという図式が推し量れる。

無論可能性の問題である。そう、可能性の問題だ。

つまりその可能性の内、此処数ヶ月ほぼご無沙汰だった間に寂しくて此の艦の誰か、
或いは停泊した先での一夜限りの恋人、
他様々な選択肢はあるがそういったことを行ったのでは無いか問い言う疑念、
あるいは今から行うという疑念、
或いは、もう既に自分には飽きが来ており別の人物との逢瀬を常日頃から行っており、
今それを持っているということは今から…、アァもうこれ以上考えたくない。

問い質すべきか口を噤むか、それが問題だ。



ちなみに、坂本辰馬が推理しに要した時間及びその思考速度は、
陸奥の袂から問題の物質が落下し、彼女が再び袂に仕舞うまでの数秒間である。

また付け加えておくが現在陸奥と坂本辰馬がいる空間は、
別段先だって申し述べた二人一組で行う運動に即して必要な(不要な場合もあるが)
蒲団が一流れ敷いてあるとか二人きりであるとかではない。

周りには多数の社員が居り、彼らは通常業務を行っている、正真正銘快援隊商務部のオフィスである。
また坂本は書類仕事を終えて休憩し商務部を通過したのであり、
その際、他の女性と話していた陸奥が自分の姿を見つけ、
急いで駆け寄ったという始まりがあったことを此処に追記しておく。


坂本辰馬は悩んだ。

落ちたものを拾ったあと、それでと話し続けようとする彼女に対して口を挟むべきか迷った。
或いは此処から連れ出して、休憩室あたりで話をすべきか迷った。
迷っている内に陸奥が口頭で告げ始める内容はさっぱり頭に入らない。
詳しくはコレに目を通せと言われて受け取った書類の束のなんと重たかったことか。

彼女は忙しい。

次々と事務処理をこなしながら持ち込まれる案件の是非と自分で問い各部署へ通達する。
だから仕事中にそんな下らぬ話をするなと突っぱねられればそれまでである。

ちなみに快援隊では社内恋愛は禁止はしていない。
只でさえ鋼鉄の船の中にぎっしり男が詰め込まれているのだ。
自由恋愛くらいモチベーションのひとつにしてやらねば暴発してしまう。
ただし、うちの女子社員は陸奥を筆頭に男勝りで男前な女性が多いので、
男の方が萎縮する場合も多いときくが。


突然社内恋愛云々の話を持ち出したのは、
正直、余りの事にショックすぎて頭がしっかり回らない所為であった。
今此処で問い質すべきなのか、あとで二人の時に話し合うべきなのか。
そんな基本的なことすら判らない。

アァ、社内恋愛なんか奨励するんじゃなかった。
しかしあとで惚けられても困る。

辰馬はコーヒーのまんかと陸奥の返事を聞く前に腕を掴んだが、
さっき飲んだがやきどとにべも無くいわれた。

そんなに一緒に居たくないですか、昨日出張から帰ってきて今日久々に顔を合わせたのに、
コーヒーくらい一緒に飲んでくれたっていいじゃ無いか。
アレか、誰かに誤解されるのがいやなんですか、それとも今からそいつのところに行くんですか。
アァそうですか、もう知らん、陸奥のあほ。
我ながらほうかぁといいながらも一瞬で様々な言葉が去来し通り過ぎていく高速の思考には驚いたが、
兎にも角にもこれはひとつ問い質すべきだと頭の中で整理できた。
二人の時に言ったのでは、ちょっとなにをするか自分でも予想がつかない。

「おんしゃ、さっき…」
「陸奥さん、ありましたよ」

ほぼ同時に陸奥を呼ぶ声がして陸奥は坂本の手から逃げるように振り返った。
総務を統括する長岡の右腕、番匠屋だった。
女丈夫で陸奥の次に古参の女性メンバーである。
あら、お話中ですかと首を傾げた。
いんや、話は終わったと陸奥は彼女に向き直りなんながと問うた。

「これ、見つけたんで持ってきたんです。引き出しの奥に転がってました」

見たと思ったんですよね、
頷きながら手に持った調度缶コーヒーくらいのボトルを陸奥に手渡した。

「さっき渡した奴よりこっちの方がいいんで、こっち使ってください」

陸奥はあしは殆どせんきィと言い、じゃァ返そうかと袂に手を入れた。

まさか先ほどのアレか。
殆どせんってどういうこと。
え、今此処で出すの。
ツーか何おんしらぁこんなオープンでえぇがか。
もう日本ってそこまで来てるの。
つーか、此処オフィスゥぅぅぅ!

坂本の無言の心配を他所に、陸奥は袂に手をいれ先ほどの銀色のつつみを取り出した。
陸奥よりはほぼ一回り年が上の番匠屋は、小さなため息を吐いて差し上げますと笑って言った。

「女の嗜みとしてひとつくらい持っててもいいですよ」


はぁと陸奥は気の無い返事をして、首を傾げ自分の席の方へ歩いていった。
坂本は番匠屋の背中を呼び止めた。
最古参に次ぐ古いメンバーで、今や総務を統括する長岡のよき右腕の番匠屋は坂本とも縁が深い。
歳が近くその所為で気安い事もあり、なんでしょうと振り返る。

「番匠屋さん、アレ、何」

目の前で先ほどの陸奥が袂に戻したものを指で形を作って見せながら尋ねた。
番匠屋はうんと首を傾げたあと、アァと頷いた。

「アァ、除光液」

じょこうえき。
じょこうえき。
徐行、駅、ではない、よな。

「え」
「マニキュア落とす使い捨てのコットン入りのやつですよ、知りませんか」

殿方はご存じないかもしれませんね、と言った。
通常女性がマニキュアを落とす際に使用される液体である。
揮発性の高い液体で匂いがある。
知ってる、除光液くらい知ってる。

陸奥は出張先で酒宴に呼ばれた時、小紋を着たのでマニキュアをしてもらったという。
そういえば爪がいつもよりなんだか艶々としてきれいだったような気がした。

「手に汗をかくような気がするらしくて」

せっかく塗って貰ったのだからと言ったのだが、
慣れていない所為とはわかっているのだがどうしても落としたいらしい。
下の妹に対するように楽しげに笑った。

アァなんだ、アァそう、除光液。
アァそう、コットン入りのね、なるほど出先でも落とせるようにね。
アァそう、あぁそうかぁ、あぁそうでしたか。あぁよかった。
坂本は馬鹿の一つ覚えのようにあぁそうかぁと言いながら鷹揚に声を立てて笑った。

「あっはっは、そうか、除光液のぉ」

そのあからさまな大げさな笑い方は、いつもの坂本以上に陽気で、
番匠屋は何か気がついたのか、坂本の傍まで寄って声を落とした。


「坂本さん、何と間違えたんですか」


げに恐ろしきは我らが女丈夫たちよ。
取り繕う一瞬前の顔を見られた所為で、番匠屋は得たりと笑った。

「ね、コーヒー奢ってくれます?」

口止め料がその程度なら安いものだ。
おォ行こう行こうと笑ったが、声が上擦った。
応じるように番匠屋もウフフと笑った。

えぇ、私坂本辰馬は確かに疑いました。
すいませんでした。
信じきることが出来ませんでした。どうか許してください。
しかしながら今日ばかりは陸奥が鈍くて本当によかった。
もしも彼女が相手だったら修羅場に発展しかねない。

売店のコーヒー売り場まで行くすがら、坂本は笑い続けた。

「坂本さん」

番匠屋は安堵と後ろめたさの或る笑い声を聞きながら坂本を呼ぶ。




「うろたえ過ぎ」




百戦錬磨の女丈夫の忠告が胸に刺さる。

end


WRITE / 2009.2 13.
「ありうべからざる」と言う言い回しは間違っているような気がするけど、敢えて、デス。
ちなみに総会参加のおまけ豆本の中身です。
虫眼鏡必須の極悪な本でした…。 ちなみに同僚の話が元ネタです。
会社の女子ロッカールームで化粧ポーチから落ちたパッケージを見て勝手に焦った挙句
「何か言わなきゃ!」と思って、
「いややっぱり大人ですもんね、私も持ち歩かないといけないと思っているんですけどなかなか…」
と言ったら、「あると便利よね、いっこあげる」と言われてエェいいですとか言いながら結局受け取ってみたら化粧水のサンプルだったと言う(笑)
しかし落とした方は天然の人だったので気づかれず、自分だけが赤面してしまったと言う大失態を犯した同僚の話が基です(笑)
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