それは明日へと続いていた道









春 を 愛 す る ひ と







春は嫌いだ。
心が騒ぐ。

花がいっせいに開花する寸前、花の匂いが充満する。
夜にはそれが顕著に現れ、人の心を惑わせ、落ち着かなくさせる。


春は嫌いだ。
厭なことばかりが紐ついていて、それをつぶさに思い出すから。





子供の頃、住んでいた家から家財道具一式が大きな荷車に載せられて、運び出されたことをよく覚えている。
あの日は朝から家の者は皆大忙しで、私に構う暇も無いと子守の娘とともに外に出された。
昼飯を下女がよく知る家で食べさせられて、家に戻ったときは空き家然としたがらんどうの生家があった。

子供心に様子がおかしいと思いながらも理解はできず、
どういうわけか一番よく覚えているのは母の裁縫箱のことだ。

母上が常に傍に置いていた螺鈿の美しい裁縫箱が無くなっていたのが酷く悲しかった。
花の柄などではなく不思議な鳥の描かれた文様で、
母は実家から持ってきたというその箱を傍らに置いて縫い物などをしていた。
鳥の羽が七色に光っていて不思議なものだと思った。
それも中身を出されて金に換わった。

先祖代々の家財道具は値打ち物だったのだろうと今は思う。

父が詰め腹を切らされてあの家を出たのは春であった。
庭木は梅と桃が終わり、一斉に桜が咲いた頃、
千切れるようにはなびらが舞う日だった。

母も兄たちもどういうわけか悲しげであったが、涙は流していなかった。
泣いているのは今まで家で働いてくれていた者たちばかりで、
一番上の兄上が母上を庇う様に前に立って、
皆本当に済まぬ、十分に持たせて遣れずすまんと何度も言っていた。

思えば父がもう居らず、家督を継いだから家長であったのだと今なら分かる。

それではと一番上の兄が頭を下げ、皆が深々とお辞儀をした後、
庭師の爺さんが堪えきれぬように一番小さかった私の手を取り、
地面に膝を着きながらどうかどうかご丈夫に育たれますようにと言った。


それきり彼らには会っていない。


春風が頬を撫でて足元には薄桃色の花びらが舞っていた。
どこへ行くのですかと聞いたら二番目の兄上が困ったように笑った。



お家は断絶とまでは行かなかったが、我が家に遣わされる扶持はもう家族が食べていける分も無かった。
宛がわれた新しい家は本当に小さなちいさな家で、部屋は三つしかなく畳がある部屋など一つしかない家だった。
兄たちは窮状を知り侍なれども市井の仕事を細々と形振り構わずやって糊口を凌いだけれども、
口を減らそうと二番目と三番目の兄上たちが出征したのはその家に移ってすぐのこと。
無論父の汚名を雪ごうとした理由もある。
けれども綺麗事だけの理由ではなかった。


江戸では大勢人が死んでいるのだと兄と母は戦場に居るであろう二人の身を案じたが、死の報せが来たのは翌年の春。
その一年後すぐに幕府は事実上解体、僅かながらの家禄すら支払われなくなった。
禄の一つであった家を更に出たのも季節は春だった。

今度は見送る人も無く、本当に小さな風呂敷包みだけを背負って母の実家へと身を寄せた。
道中宿に入ることも叶わず、戦火に焼け爛れた廃屋で屋根の或る場所を見つけては、
三人で夜を明かすことなど当たり前で、夜明け前の霞掛かった東雲を天幕の宿で何度見上げただろう。

母は零落の身の上を嘆くこともせず、道中あと少しですよと幼い自分を励ました。

戦火は日本中に広がっていて、各地で攘夷志士たちが終戦後もゲリラ的な活動を続けていた。
商品の流通がそれによって停止、市場に商品は出回らなくなり、インフレが起き国自体が弱っていっていた。



長兄は母と私を預けて出征した。
出征と言えどももう既に終戦はしており、未だに抵抗を続ける義勇軍に身を投じた。
もうあれは名誉の回復の執念にあったに違いない。

母の生家での扱いは長兄が居るうちはよかった。

母の父、つまり自分の祖父は既に他界し、叔父である当事の家長は戦に赴き、
家政は一切その妻である伯母が取り仕切っていた。
生家に居た使用人たちにはすべて暇を出し、
困窮しているところに出戻った義妹家族は結局厄介の種だったのは子供心にも分かった。
もとの女中部屋へ入れられ慣れぬ女中紛いのことをしながらも、
それでも漂白の身の上よりはましだったのかもしれない。

ある日母が言った。

「ちょっと今度は遠くへ参りますよ」

どこへでしょうかと尋ねたが母は困ったように笑い、荷物を纏めて置きなさいといった。
だけれど荷物など何一つ無かった。

あの日も桜が美しかった。
温かい風が吹いていて花吹雪が景色を掻き消した。




海岸線を辿りながら町から町へ。
男の子の格好をさせられて、母に手を引かれ。
仕事を求めて大きな町へ、戦火を逃れて小さな町へ。

地理には詳しくなったがどの町も覚えていない。
春霞の掛かる穏やかな海を眺めながら、今日はどこへ行くのだろうという言葉を飲み込んで歩いた。
わたしたちが許されて眠れる場所を探しながら。












春が来る度に思う。
ここから出て行けと、春風は背を無理やりに押す。
凍える厳しくつらい季節を越えた季節、暖かい風は強い力でわたしたちを追い払う。

さぁ、好きなところへ行け。
ここではないどこかへ。
見えぬ場所へ、どこなりと行け。

追い立てられるように、その声から逃げるように。

でもどこへ。







ざわざわと春の風がまた吹く。
ようやく芽吹いた木々を揺らしながら、強く、強く、強く。
消えろと。


喉を枯らして叫んでいる。




わたしの名を呼ぶ。
遠くのほうから、だんだんと。
すぐそこへと、近づきながら。











わたしの名を。

春が、呼ぶ。














  *




「陸奥はどこへいったがか」

乙女は珍しく起きて文机に向かっている弟に向かって呼びかける。
手紙をしたためていた様で癖のある字が紙の上に綴られている。

「部屋じゃぁないが、本でも読んじゅうのかもしれんき」

乙女は手に何故か重箱を持っていた。
中身は何かと辰馬は尋ねたがそれには答えず、お茶にするき呼んできとうせと言いつけた。
弟など自分の手足程度にしか思っていないのやも知れぬ。

反抗は無駄だとは知ってはいたが一応えぇと言ってみた。
しかしながら早よう行きやと犬猫でも追うように手を振られ不承不承、筆を一旦置いて立ち上がった。
まぁもとより手紙の文面を考えるのが面倒で筆は進んでいなかったのである。
付文なら自分で情熱を込めて書きもするが、今度始めようと考えている大仕事の資金援助の件でのお伺いなどどうやって書くべきか。
あとで陸奥に上手いこと書いて貰おうとすら思っていたので丁度いい。

裸足のまま袴もつけず廊下をむーつーむーつーと陸奥の大安売りをしながら、
離れの部屋を覗き込めば座敷をすべて開け放って居る所為か春風がびゅうと吹きぬけた。
庭先に植えられた桜の枝が揺れている。
座敷の一角に本が積み上がり、縁側に人影が見えた。

柱に凭れ掛かるのが陸奥だとすぐに分かった。
休みの日だと言うのに髪をきちんと結い上げて、木綿の単を着て袴までつけている。
火熨斗でもかけたような折り目の正しい裾から小さな足が覗いていた。

「むーつー、茶じゃぁ。一服どうかのぉ」

返事は無い。

膝に置かれた本の頁が春風に踊るようにはらはらと捲りあがった。
おやと正面に回る。
しゃがみ込んで顔を覗き込み、思わず笑った。













「姉上様ぁ」

来たときと同じ速度で辰馬は今度は姉の名を大安売りをしながら母屋の座敷まで行きその姿を探す。
そこには父も居て、棋譜を眺めながらお茶が淹れられるのを待っていた。

「陸奥、寝ちゅう」

辰馬は自分の湯飲みが置かれた座卓に座りながら、お茶請けは何かと重箱を覗き込む。

「どこで」
「縁側で」

お、牡丹餅じゃと顔を綻ばせた。
乙女は縁を背にして辰馬の斜交いに座したまま、
手伝いの婆が淹れた茶を啜りながら迷い箸をする弟を嗜める。

「ふとんは掛けちゅうか」
「うん、いいや」

赤餡にしようとようやく手を着けようとしたとき、乙女はすっくと立ち上がり弟の襟首を掴む。
何をするがと引きずられるようにして立ち上がりその跡を追う。


「馬鹿もん、気が利かぇい男やき」

なんのことながと辰馬は訳も分からず追いかけながら、向かったのは離れ。

「縁だと床は冷やいろう」

まったくと乙女はぶつくさ言いながら、男と言うのはこれやきいかんと首を振る。
春とは言えど足元はまだ冷える。
年がら年中裸足に下駄の弟はまったく分からぬようで、ほうかのぉと足の裏を暢気そうに眺めた。

「いやまっことぬくそうでのぉ、添い寝でもしてわしが布団になってやろうかと思うたちや」

悪さしなやというちゅうろう、ほやきせんかったが、どたばたと大きな姉弟は廊下を歩く。
離れの座敷に足を踏み入れ先ほどと同じ姿勢のままの陸奥の傍へ寄った。
おんしゃ布団とりやと次の間の押入れを乙女が指をさしたのと、陸奥が目を開けたのはほぼ同時。


「姉上様、声が大きいきに起きてしもうたがやないか」
「ほりゃあおんしもやか」

陸奥は二、三度瞬きをしたあと、おやというように周りを見渡す。

「おはようさん」

姉弟はその顔を覗き込みながら少々間のぬけた挨拶をかけた。
陸奥はよだれを繰っていないか思わず口元を反射的に手で拭う。
しまったという顔で、転寝を、と手に持ったままだった本を閉じながらばつが悪そうに言う。

乙女は、はははと笑いながら、春眠暁を覚えずとゆうしのと庭を眺めた。
春霞の掛かるぼんやりとした空には雲雀が鳴いている。

「茶を淹れたに、顔を洗って来や」

寝起きの掠れた声で頂戴しますと返事をしたのを確認して乙女は早うなァと部屋を出た。
陸奥は掌で顔を覆うようにして目を擦った。
視界がぼやけると眠りから覚めた目が言う。
乾いた眼球が春霞の掛かる景色を更に滲ませた。

「むーつ」

辰馬が腰を屈めてひょいと手を差し出した。
手を引こうと言うのか、少し迷い不承不承その手を取りながら勢いをつけて陸奥は起き上がる。
すぐ行くきにと手水盥のある水場へ足を向ける。
その背を追うように辰馬がいう。


「牡丹餅、陸奥は好きろー」


分かった分かったと手を振った。

















「こりゃあー誰がもって来てくれたがかぇ」
辰馬は赤餡の牡丹餅を頬張りながら姉に尋ねた。

「房婆が三月に体調を崩しよったろう」

房というのは母方の大叔母である。
相当な高齢だが矍鑠としていて実の祖母よりも姉弟を可愛がってくれていた。
辰馬と乙女は子供の頃よく分家であるそこへ遣いへ出され、あれやこれやと珍しい舶来の菓子を貰ったりしていた。
しかしながら矍鑠とした大叔母は春先に病を得て一月余り療養していた。
そろそろお迎えかと一族皆心配していた最中、乙女も見舞いに出向いたのが三月の彼岸である。

「今年は彼岸に牡丹餅が頂戴できんき残念で、
はよう元気になっとおせというたらめきめき盛り返して、わざにもって来てくれたがよ」

年寄りいうのは張り合いがあると俄然やる気が漲るものらしい。
彼岸より遅れて一月、重箱三段に詰められた牡丹餅が坂本の家に届けられたのである。
今日の朝夜の明けきらぬうちから起き出して、
小豆を焚き、胡麻を煎り、黄粉を擦った。
娘である叔母は笑いながら、付き合わされてあぁ眠いと笑いながらこれを老いた母の代わりに届けたのである。

陸奥は顔を洗ったあとお茶を一服貰い、胡麻のまぶしてある小ぶりのものを選んだ。
辰馬は赤餡をぺろりと平らげて、次は黄粉と箸を付ける。

「そういや見舞いに陸奥を連れて行ったら、
 こりゃァどこの娘さんか、辰馬が捕まえたがかと聞かれたちや」

先々週、乙女の供をして陸奥は件の大叔母の許へと一度訪れている。
坂本の家も相当に大きな家だが、乙女の亡き母の実家というのも相当な大屋敷であった。
大叔母という人物は若い頃にはなかなに美人であったと見えて、
病み中というのにわざわざ客を待たせて髪を撫で美しい艶のある布で髪をひとつに結んでいた。
おしろいをはたく暇がないちやと突然の訪問に文句を言いながらも、
おあがりと出された蓮のお茶がとても美味しくて、思わず美味しいですといったら土産に持たされた。

「捕まえたゆうて」

辰馬は思わず怪訝な顔をする。
初め乙女と話していた件の女性は、後ろに控えるようにいた陸奥を見るなり小声で、
うち方にあがな娘おったがかと少々記憶を手繰るように聞いてきた。
平さんの隠し子、なんちゅうことは無いよの、と首を捻った。

平さんというのは大叔母が父を呼ぶときの愛称である。


「あずかっとる娘さんじゃゆうたち、まったくきいちょらん」

血筋じゃのォ、と棋譜を見ていた父親は小声で笑う。
姉弟の早合点の気質はどうやら自分ではなく母譲りだといいたいらしい。

「まっこと可愛い、ウチの血筋にゃおらんようなまぁこんまい娘さんじゃゆうて流石の陸奥も毒舌が出んかったが。
 あがーにべた褒めじゃと人は皆無口になるが」

乙女は父親の声は無視し猶も愉快そうに笑いながら、
赤餡の牡丹餅を箸で一口に切りながら口に入れる。

「いつでも誰でも噛みついとるわけじゃァないですき」

陸奥は心外だといわんばかりにそう言ったが、乙女は取り合わずはははと笑った。

「辰馬はまっことあほじゃがの愛嬌ばあはあるきに仲良うしたってくれといわれとって、
まぁ陸奥も婆さん相手やきめっそう強ようも言われんち」

辰馬はへぇぇと言いながら陸奥を見る。
ほうかぁ、傍から見たらそう見えるんかのうとにたりと笑えば、
気持ちが悪いきにあっちを向きやと冷ややかな声と表情で以ってそれに応酬する。


「まぁでもいうちょった」

乙女はお茶を取りながら、ずいとそれを飲み干す。







「ばあさん、陸奥にも選ぶ権利ゆうのんがあるきに」






初めに笑ったのは平さん、つまり辰馬の父であった。
同時に陸奥も噴出し、最後に乙女が笑う。
辰馬一人がなんじゃぁといきり立つ。

「酷いことをいうのぉ」

儂にももう一杯と湯飲みを差し出した父親に、乙女はお茶を注ぐ。
まぁほうじゃの、確かにのぉ、含み笑いに肩を揺らしながらちょっと渋くなったお茶を啜った。

「父上まで酷いちや」

孤立無援の辰馬は陸奥に助けを求めたが、陸奥は人間の最低限の権利やきとのたもうた。
もうえぇ、ワシは愚連る、とぷいと席を立ち、陽の当たる縁側へ湯呑と牡丹餅をもう一つ持ってごろりと寝そべった。
たいしたぐれ方ではない。

乙女はぐれた弟など意にも介さず、
猶も大叔母のところで話した辰馬の失態やらの話を面白おかしく聞かせた。
親娘は笑いながら不肖の息子と弟を肴にして一服しながら、その最中辰馬は覚えちょれよォと不貞腐れた。
陸奥は時々に乙女の口ぶりに笑いながら、さすがに辰馬に悪いと思ったのか、
まぁそれでもえぇところもありますきと一言フォローを入れた。

「辰馬、よかったの。陸奥がフォローしてくれたちや」

乙女が自分の背側にいた弟に首だけ回して呼びかけると、
辰馬はひょいと起き上がり姉の影になっている陸奥を捉えようと座敷へ向いた。

「むっちゃん、ワシのどこがええところなんじゃ」

多少期待しながら胡坐をかき、にこりと愛嬌を振り撒く。
陸奥は持っていた湯呑を持ったまま、突然向けられた水に一言短く困惑したあと、
ほりゃぁと視線を春の庭へと泳がせた。



「すぐには思いつかん」



そう言った。
親父殿と姉君は手を叩きながら笑い、
辰馬はそんなオチは要らんちやと縁に倒れこんだ。
その様を見て更に皆が笑い、辰馬も我が事ながらと声を出して笑った。















遠くで雲雀が鳴いている。
霞がかった空にはふんわりとした雲が漂っている。
暖かい春風が辰馬の鳥の巣のような髪を揺らす。

「あ、鶯じゃ」

鶯が二羽、鳴いていた。
一匹は上手く啼く。
巣立ちして間もないのだろうか。
もう一匹は下手糞だ。

ひらひらと散りかけの桜が春風に舞う。
花びらが部屋の中まで舞い込んだ。



「けんど春はえぇのぉ、ぬくいし」



辰馬は合計三つの牡丹餅を平らげて、縁側に寝転んだまま春の陽を思う様に享受している。
裸足の足が脛を掻き、あぁぬくいぬくいと腹が満たされて眠くなったのか、
ぼんやりした声で辰馬は言った。


「あしは冬も好きぜよ。雪も降るし、食べ物も美味い。
春を待つのも苦じゃーないが」

乙女は牡丹餅を平らげ箸を置き、陸奥はもうえぇかと重箱の蓋を探す。
陸奥は片付けはあしがしますと、傍にあった蓋を取り重ねた。

確かにのー、炬燵で熱燗はたまらんのぉ、
辰馬は一月前まで此の座敷に据えてあった炬燵でよく深酒したあと転寝していた。
独りでは無く時には父親と共に。


「儂は秋が好きやか。陸奥が芋を焼いてくれるき」


陸奥は使った皿を重ねながら、のぅと大旦那から向けられた声にそうですのぉと笑う。
そういえば去年庭で落ち葉を焚きつつ焼き芋をしていたら、
大旦那さんに声を掛けられて二人で芋を焼いて食べた。

秋もいいぜよ。祭りがこじゃんとあって一杯飲めるし、秋刀魚で飲める。
月見もえぇのォ、辰馬の声は暢気に笑う。


「やきどワシは夏が好きじゃの。
娘たちは皆薄着になるし、水着のおねーちゃんはこじゃんとおるし、
花火で一杯飲めるし、祭りがこじゃんとあるから一杯飲めるし」
「おんしゃあ、さっきからそればあがやないか」


親子じゃのぉ、乙女は呆れたように弟を見た。
辰馬は寝転んだまま淡い青色の空を眺めている。

「のう、陸奥、そうおもわんか」

陸奥はその遣り取りに微笑しながら、明確な答えは出さず盆に小皿を重ねた。


「姉上様だって食い気ばぁやき」


先ほどのお返しといわんばかりに辰馬が横から口を挟む。
確かに冬は食い物が旨いと言った。

「やかまし、黙りやー」

乙女はくるりと膝の向きを変えるとぺちんと辰馬の尻を叩く。
大旦那は陸奥に飲み終えた湯飲みを渡しこれも頼むといわれ受け取りざまに、
やっぱり姉弟やきなと大柄な姉弟二人をあごでしゃくる。
陸奥は三者の様子を見ながら、血筋ですかのと笑えば確かにのォとくつくつと可笑しそうに笑った。
座卓を台拭で拭き取り陸奥は辰馬が投げていた湯呑と皿を取るのに立ち上がった。
辰馬の足元に膝を着いたとき、のう陸奥、と呼ぶ。


「陸奥はどの季節が好きなが」


片手枕のままごろりと陸奥の方を向いてにこりと笑う。
乙女も陸奥を見た。
大旦那も棋譜から目を離した。

陸奥は不意をつかれて言葉に詰まる。


「あしは」












うつろう四季を巡る。

夏の終わりには辰馬と蛍を見た。
死んだ人の魂のようだと夏の闇を埋め尽くす青白い光が哀しくもあり美しかった。

秋には庭で焚き火をした。
爆ぜた栗が顔に当たって驚いたら大旦那さんが焦って裸足で庭に駆け下りた。
火傷しとらんかとたいそう青い顔で心配してくれた。

冬には編み物を教えてもらった。
結局モノには出来なかったが、まぁこうたらえぇちやと乙女さまは笑っていった。






春は。






春は嫌い。

心が騒ぐ。
すべてのいのちが目覚め、花ひらく寸前、夜に充満する匂い。
かすむ空、あたたかい風、さくらのはなびら。
人の心を惑わせ、落ち着かなくさせる。


春は嫌い。


海岸線を辿る旅、大きな町、小さな町。
春霞の掛かる穏やかな海を右手に、今日はどこへ明日はどこへ。

 わたしはどこでなら許されて眠れる。


春が来る。



わたしたちを、追いたてる。
春は、いま、すぐそこで。
声を、今にも上げて。























雲雀が、鳴いている。




春風が頬を撫で、陸奥の伸ばしかけの髪を揺らす。
薄桃色のはなびらが足元へと吹き込む。



「春が好きやか」


辰馬は嬉しそうにほうかぁと笑った。


「ああ、春はええよのぉ、花見で一杯飲めるし」
「牡丹餅もこじゃんと食べれるきに」


辰馬はあっはっはと陽気に笑うと、
あぁ、えいのぉ、春はともう一度言ってまた空を見上げた。
陸奥みたいに昼寝でもしようかの、大きな欠伸をしながら目を瞑る。
風邪を引くぜよと父は言い、アホは風邪をひかんちやと乙女は言った。

陸奥は辰馬が平らげた牡丹餅の小皿を取りながら立ち上がろうとした。
その間際、ぱちりと目を開けて辰馬がのぉと暢気そうに尋ねた。

「そういや陸奥、なんぞ悪い夢でも見よったがか」




びくりとした。
同じ夢でも観ていたかのごとき問いかけ。
陸奥は平静を装いながら、なにをじゃとわざとぶっきらぼうに言った。
立ち上がり様そんなことを言い出した男を見下ろす。


「いやぁ、さっきまっことむつかしい顔をして寝よったきに」


心配になったぜよ、
つぶらな目をぱちぱちとまばたきさせながら首を傾げ大丈夫かえと尋ねた。
陸奥、と、優しげな声が私の名を呼ぶ。




春が叫ぶ己の名。
喉を枯らした、金切り声。
どこかへ消えろと血を吐きながら叫ぶ声。




何故、今、そう尋ねた。

お前はいったい何を知っている。
いいえ、何も知らないはずなのに。





春の匂いをかぐたびにこみ上げてきた涙を、
飲み込んだ歳月の長さを言い当てられたようで、
春が来るたびに狂おしく泣く此の胸を焦がす失った郷愁にも似た悲しみが、
それを悲しいと思う自分が哀しくて。


春の匂いは消化しきれない気持ちでこころが一杯になって、
何故だか哀しいものが迫り上げて、
けれどもそれは多分もう春に怯えなくともいいという不思議な安堵の気持ちがあるからで。


春が叫ぶ己の名を、
喉を枯らしたて呼ぶ金切り声は、
どこかへ消えろと血を吐きながら叫ぶ声は、もう聞こえなくて。




「さぁの」





私の名を優しく呼ぶ。
春のまどろみ、夏のゆうぐれ、秋の朝、冬の夜。
毎日、朝夕、何度も何度も。
この人たちが私を呼ぶから。



「忘れたちや」









それにかきけされて、もう聞こえない。






end


WRITE / 2008 .4 .4
なんかお彼岸の時期に此のタイトルがふっと使いたくなって、
でも思いついたのがお彼岸当日なので、話中に苦しいところがあります(笑)
でもワタシ気にしないネ☆
春には陽気でいいイメージがあるけど私はなんとなく春の夜はどきどきするというか、
なんともいえない不安を煽られます。不思議だ
あの春の夜のなんともいえない匂いがそうさせるんでしょうか
だからって素っ裸で往来に飛び出したりはしないですけど。
春電波受信には気をつけたいものです

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