証 明 終 わ り








Q.E.D
-Quod Erat Demonstrandum-


今夜は、一緒に居て欲しい



そう、か細く言った女の重みが自分の腕の中に来た。
こぼさぬ様に受け取る。

何の冗談だと思う。
冷やりとした外套、夜の匂い、誘惑の糸。





「ほりゃぁ、一晩中カードを寝よらんとするいうこっちゃぁない、よの」
「ちがう」





重い樫の木のドアが閉まる音がした。


















   *




今日地球に居るのは正真正銘仕事である。
艦の荷降ろしと仕入れと同時に自分は商談に出た。
仕事である。確かに仕事だった。

それが思いの外早く終わったから取引先の社長やら専務らやチーム長を連れておねえさんがたくさん居るお店へ乗り込んだ。
商談締結後だったので和気藹々と盛り上がり、それぞれお気に入りの娘と話し込む。
自分も隣に座った少々年増だが、色気の或る女性と意気投合。
一年中宙を飛び回っているといったら、珍しがってどんなお仕事なのと何故か気に入られた。
いろいろ異星のことを話したら面白がられ、そのうちプライベートな話まで及んで、じゃぁ地球へ戻ったときはホテル暮らしなのかと聞かれて、
地球に支社を置く代わりに会議場として年間契約しているスイートに泊まってると言ったら行ってみたいといわれた。

そのあと、相手さんが帰ったあとどういうわけかうっかりテイクアウトしてしまったのである。


だれしも。


人生には三回モテ期が来るという。
たぶんこれは二回目な気がしなくも無い。

では思う存分享受しなくては。




相手はもう子供ではないし、無論此方もである。
あら素敵ねなんていいながらターミナルが望める広いバルコニーから吹き込む春風。
明るい巻き毛が胸の下まで垂れ下がり、高層ビルの風に梳かれた。

ルームサービスのシャンパンサービスを当然のように受け取ってにこりとして、
スイートって初めて入ったわ、嘯いたが此方もその嘘を問いただすことなどしなかった。

ボーイに目配せしたら何故か確り肯かれてしまった。
上客の少々のオイタには目を瞑ると言わんばかりに、言葉も少なく何かあればお呼びくださいと下がった。

細身の煙草を咥えたから火を点けてやる。
煙は留まることなく逃げるように不夜城の空に消えた。







他にどんなお部屋があるの

 見たらえいろう、夜は長い

私、シャンパン風呂って憧れていたんだけど

 ほうかえ、やったらわしも一緒に入ろうかの

だめよ、それはあと。



口唇をそっと指で押さえて妖しくほほえむ。



「ね、今日はもうお仕事は終わり」
「いやあと一仕事」


女との距離はごく近い。
腰に手を回す。
キスする体制なのにまだ煙草を吸う。
空気を読めないのかそれともこれは焦らされているのか。
夜は長いといいながら待ちきれぬのは男の性だ。

どんなお仕事、と笑う。
分かっているくせにはぐらかす。

女とはなんと甘美な誘惑だろう。
女さえ居なければ男はもっと高潔に生きて行けるのに。

濡れた口唇から煙草が離れた。
細い指から煙草を奪って一口吸った。
微かに香るペパーミント、他には何の味もしない。


今度は口唇を貰う。


近くにあった灰皿にまだ長い煙草を押し付けた。



「坂本さんはせっかちさん?」



からかう声に笑っただけで反論はしない。
女も笑い、サングラスを外そうとする手がゆっくりと胸を這った。
弦に手を掛けてゆっくり外す。

可愛い目、という。
おおきにと言って口を閉ざす。
もうお喋りは止めて、別のことにそろそろ使いたい。

口唇まであと十数センチ。
いただきます。






ぴりりりりr。






無愛想な電子音が上着のポケットから発せられた。

思わず心中で舌打ち。
嫌な奴からだ。

動きを止めた此方に、どうしたのといぶかしむ。


出ない場合。

きっと明日詰問されるのは必至である。
一応ノーリターンとしているから不在への詰問ではないだろうが。
しかしながら緊急事態という場合も考えられないわけではない。

出た場合。
ここまで持ってきた努力は海泡に帰す。
だが万が一の事態が起こっており、
その場合自分だけの折檻で済めばいいが取り返しの出来ぬ選択誤りである場合もある。

そう、一瞬の判断の過ちが命を奪う事態になるやも知れないというのはちと大袈裟か。
散々悩んだ末に、えぇいと電話を取った。
ムードはもう一度作るしかないと諦めて。

ちくと待っとうせと微かに上げた顎を伝って耳を指で掠めた。
女は上品に微笑んで、はぁいとバルコニーから部屋に入った。


携帯電話のフラップを開ける。
あぁやっぱりお前か。
液晶画面に表示される名は見知った名前で、寧ろ厭になるほど見た名で。
どこかで見ているのではないかと思う程のタイミングの悪さである。
やれやれと思いながらもおやと思う。
会社の電話回線ではなく個人の番号から掛かっている。
緊急事態ではないのかも知れぬと自分の判断を少々悔やみながら通話ボタンを押した。




「もしもし」
「あしじゃ」

ざらりとした無線電話の雑音が声に被さる。

「なにかあったかえ」

ビル風に髪が泳ぐ。階下に見下ろす様々な色の灯りは都市の象徴。
不夜城を眠らぬ街に仕立てる歯車。
いや、なんも、厭に歯切れの悪い声が耳に響く。

「どうした」

普段こんなモノの言い方をせぬ相手の様子を少々おかしいと思いながら、
出来るだけ普段の声を心がけた。
もしも何か緊急の用事、いや急を要さずとも仕事や私事に関わらず、
自分に相談したいことがあるならば聞いてやりたいと思うのは社長であり彼女の上司たる己の務めである。
まァ、他にも理由が無いとはいえぬが。

「おんしゃぁ、今どこに居るがか」
「えぇ!いま?」

殊勝なことを考えていたくせに声が上擦ったのはご愛嬌。
いま、は…と見られているわけでも無いのに部屋の中に居る別の人物を注視した。
女はルームサービスのワゴンを迎えたところだった。

「あのいつもの会議用に借りちゅうろう、あんスイート。いや借りちゅう部屋まで戻るんが億劫やったきに」

少々饒舌すぎるか。
そんなこと聞かれていないといわれたらどうしようと後ろ暗さも手伝ってはらはら。

ほうか、と陸奥は小さく答えた。
怪しんでいるのか、それとも。
何しろ感情が殆ど表に出ぬのである。
電話で見極めるにはなかなかの高度なスキルが必要である。

「風呂でもはいっとったが」
「えぇ!!?」
「いや出るのがなかなかじゃなかったきに」

勘の良さは認めるところだが、自分に疚しいことがあるときはそれも仇になると言うもの。
「あぁ、うん、そう風呂はいっとったがよ」
飲み屋で煙草と酒の匂いがついてのうなどといいながら、
長風呂など殆どせぬのに嘯いた。
相手はふぅん、そうかと抑揚無く相槌を打った。
用があったがか、そんな風にきけば相手は肯定とも否定ともつかぬ返事をして、
問い返そうとしたとき、何かを決したように息をひとつ呑んだ。


「のう、辰」




思わず受話口から聞こえた声に目を見開く。
それは依頼とも取れるし強制とも取れるし、一途な願いとも取れた。



「え」




物事には順序というものがある。
そして準備というものが必要だ。
だが、それらはマグネシウムが燃えるときに放つあの真白い光のごとく強さで一気に燃え尽きた。
前後を考える暇もなく、うんと言った自分がいた。
















ワゴンに乗せられたシャンパンはすっかり冷えて飲み頃だった。
女は待っている間に煙草を二本呑んで、シャンパンを立て続けに二杯半飲み空にして立ち上がる。
申し訳なさそうに頭を垂れる男を見て、またお店へに来て下さいねと言った。

電話を切った坂本が、すまん艦にもどらにゃぁならんと言ったのはつい先ほど。
ハイヤーを呼んでもろうたきにと目が泳ぐ。
女は笑った。
電話の内容を盗み聞いたところに拠るとそれだけではなさそうな、と思ったのである。

問いただすのは野暮である。

それほど惚れている相手ではない。
ただ面白そうな男ではあるし、知りたいと思わないわけではなかった。
だからついてきたのだ。
寝る前でよかったわと内心思い、多少の名残惜しさは見てみぬ振り。
矜持を折られた気もしないでもなかったが、それを喚きたてるのはスマートではない。



「じゃぁ坂本さん」



今日の記念と称して去り際に頬に口付ける。
しかも掠らぬ程度の距離で。
さようならとドアを閉める。







目の前で閉まったドアに惜しいとも思わない自分がいた。











いやこれは嘘。
正直今のは格好をつけすぎた。
惜しかった。
せめてこれが昨日だったらと思わなくもない。

先ほどの電話には驚いた。
度肝を抜かれるというか、十年に一度在るかないかの出来事である。







「今から、そっちへ行ってもいいか」









何の冗談だと頭の中で此の一言が回る。
あの陸奥がである。


あの陸奥が、こんな真夜中に電話を掛けてきて、自分に、そんなことを言うとは。



人生の幸運を貯めている銀行の利息が還元されたかの如し。


あの声は確かに陸奥だった。
弱弱しくか細く。
たぶん目の前でそんな声を出されたら、正直今宵は眠らせてやる自信がない。





急いでフロントに電話をする。

すぐにワゴンを下げてくれと頼む。
そしてあと一時間もしない内に陸奥が来ることを伝えた。
坂本とともに陸奥も此のホテルでは顔なじみであり、
此のスイートを会議室や接客に使うことも多いから名を言うだけですぐに話が通った。

そして先ほどのシャンパンとハイヤーの請求書は、
快援隊にではなく坂本辰馬個人宛にしてくれという依頼をする。
承りましたと特にいぶかしむ様子もなく、他に不足などございますかと逆に尋ねられた。
それから、と付け足した。これが一番肝心である。

「ワシは今日十一時過ぎに一人でチェックインして客は一人も来ていない、ということにしておいて貰えるかぇ」

フロントの客室係は数秒の沈黙の後、歯切れのよい口調で答える。

「本日は坂本様しか私は拝見しておりません」

おおきにといえば、私は事実を申し上げておりますがと空惚けられた。
さすがである。
上客でもあり馴染みでもある坂本の依頼は面倒なことでも大抵引き受けてくれる。


電話を切り一つ終わりと確認したところで再びの電子音。メールの着信である。
あと三十分で着く、という無愛想なメール。時計を見る。

そうこうしている内にボーイが来た。
先ほどの者と同じである。
手早く二つのグラスとワインクーラーを片付けテーブルを拭きあげる。
グラスのあったところに、花瓶を代わりに置いた。
置かれた生花は少々開いていたが、独特の匂いでシャンパンの甘い香りを消した。

「匂い消しです」

行き届いているその思い付きとサービスに驚けば、
にこりとして他のお部屋は大丈夫でしょうか、お手伝いは必要でしょうかと尋ねられた。
お手伝いも何も残念ながらリビングルームしか使っていない。
大丈夫と告げるとそれではとドアを開ける前に通路に誰も居ないことを確認してそっと出て行った。

誰に言われたのか知らないが周到である。
やれやれ、こことの契約は今後も続けねばなるまい。


ここからが勝負である。
バルコニーに続くドアを閉める。
外には何も出ていない。
女が歩いたと思しき場所を身を屈めて髪の毛が落ちていないか這ってチェックする。


なにしろこれはきっと一年に一度、いや一生に一度あるか無いかのチャンスだ、と思う。
あの女が、自分から、ここへ来ると言ったのだ。
在り得ない、在り得ない、在り得ない。

此方から求めるばかりで応えては呉れるが、向こうから言われたことなど一度も無い。
何があったのかは知らないが、そのきっかけを作ったその何かに感謝だ。
入り口からリビングを通りバルコニーまで這った後、ようやくよかろうと思いながら膝を払う。


香水の香りは生花で消えている。
風呂は使っていないし、手洗いも使っていない。
そうだ座っていたソファ。
乱れたクッションを直す。



あとはあとは。


そういえば、自分は風呂に入っていたと嘘をついた。


十二時を過ぎた。
まずいと思いながら急いで服を脱ぐ。
バスルームの籠にロングジャケットも上着も下着も一緒くたに放り込みながら、
シャワーの温度を調整して、急いで髪と身体を洗う。
髪を洗いながら思わず笑いがこみ上げた。


痕跡は完全に消した。
部屋の中には今宵自分が残した痕しかあるまい。
どんなもんだ、完全犯罪である。
真夜中に馬鹿笑いしながら降って沸いたような幸運に震えた。

風呂から上がったら水割りでも作って、一服していれば怪しさなど一つもあるまい。
上着の中に確か煙草が入っていた筈。
アルコールが入ると無性に吸いたくなる。
普段はちっとも旨いと思わないのに。

一服。
おや、と今頭に何かひっかかりを感じた。
一服、ライター、マッチ、煙、匂いは消えた。

しまったと頭からシャワーを浴びながら急いで身体についた泡を落とす。


灰皿!


女は吸殻を残して行った。
あれは男は余り吸わぬ銘柄、見ただけで分かる細身のメンソール。
自分も違う。
他に誰か居たかと問われて男であったという言い訳は少々苦しいだろう。
蛇口をひねって急いで湯を止める。
バスタオルをもぎ取って、拭きながらリビングに入る。

どこで吸ってた。

バルコニーだ。
天井まで或る硝子戸を空ける。吹き込む春風がまだ冷たい。
手すり近くのところに置いてある白い陶器の灰皿の中を覗き込む。
一本しか吸殻が無い。

もう一本はどこだ。

そうだ、ソファのところでも吸っていた。
ローテーブルの上だ。

そのときチャイム。
冗談だろう、早すぎる。

二つの灰皿の中の灰を屑篭に落とし、花瓶の水を用心の為にかける。
そのままではと思い、傍にあった不要な書類を上から突っ込み目隠し。
つんのめりながらバスルームに取って戻って、パイル地のローブを羽織る。
すぐに脱ぐから構わない。
ジャケットのポケットから煙草を出して火を付けた。

二度目のチャイム。
待っとうせと出来るだけ暢気に言うようにして、まだ長い煙草を灰皿に押し付ける。

完璧だ。




さっき自分が濡らした床をバスタオルを引きずって歩きながら、痕跡を消す。
頭を拭く振りをしながら、ドアを開けた。


「よう」

出来るだけ静かに。

「どうしたが、こがな夜中に」

動揺を、悟らせずに。


陸奥は仕事着のまま来ていた。
いつもの笠を被り、濃紺の外套を着て。

「風呂、はいっちょたがか」

かすかに掠れた声はまだ冷える夜に風邪でも得たか。
その声と言葉の意味に二重にどきりとした。
そう、ついさっき急いで入りましたとは言えない。
平生を装うようにしておぉ、という。

こちらの気持ちを知ってか知らずかの沈黙。
どうしたと顔を覗き込む。
そのときドアの隙間を縫うよう、倒れ込んだ陸奥の身体を支えた。


「今夜、一緒に居って欲しいちや」


言葉と同時に腕に重みを、彼女が連れてきた春の夜の匂いを受け取る。
どういう春一番が吹いたかと、冗談でもそのようなことを言う筈の無い女の意図を探る。
だが。
探ろうとすれどより深く胸に顔を埋めようとする陸奥の髪の匂いが、
それがどうしたと云わんばかりに怪しむ心を薙ぎ倒す。


「ほりゃぁ、一晩中カードを寝よらんとするいうこっちゃぁない、よの」


無様に掠れた声は今宵のアルコールに焼けた所為ではない。
そうだ、真を求め、心を探し、そうであって欲しいと願う、
欲深い自分が出した声。



「ちがう」


重い樫の木のドアが閉まる音が遠くでした。







              *







被さる様に口唇を重ねる。
外はまだ夜は冷えたのか、口唇が冷たい。
湯上りの自分の熱で融かして遣ろうと下唇を含む、舌を求める。

くちづけはまだあまり上手ではない陸奥のたどたどしさを愛した。

それが今宵は。


感じる重み、それから自分から口唇を開いて舌を差し出す。
いつの間にか首に腕が回った。
押し付けられた身体、擦り付けられるようにした自分の分身はその重みに身震いし、歓喜した。

どういうことだと理性に問う。
問いながら扉に鍵を掛ける。

腰を支えながら抱いている彼女の熱を欲した。
衣類に阻まれてもどかしい。
背中を扉に押し付けながら、外套の下に手を差し入れる。
着物の下の身体が掌に甦る。
人一倍食べるくせに華奢で痩せぎすで、それから。

自分しか男を知らない。

そう言う身体。


だから今こうやって覚束ぬながらも口唇を求めているのは誰彼構わずではなく、
他の誰でもない自分の身体を求めているのだと都合よく夢想して更に興奮した。

余り大きくは無い乳房を上から触る。手が余るくらいと言ったら怒りはしないが気を悪くする。
だけれどこっちだって他の誰でも無くお前の身体なら太っていようが痩せていようが愛せるのに。
その先端を爪先で少し掻いてやれば小さな痙攣を起こして背中が跳ね、声が出た。

思いの外その声は大きくて、陸奥は途端に口唇を離そうと顔を背けた。
まるで、求めたことを恥じ入るように。

その恥じらいはいつもの陸奥のようで、、
此の一大決心とも取れる今宵の彼女の心中を測るようだった。

背けた顔をみせろと耳に触れれば燃えるように熱くて、
自分の影になる顔を寄せる。
瞳は雨に濡れたかのように水を湛え、その奥には情火の如き炎。
もう一度くちづけようかと顔を近づけたが、熱い耳元に口唇を近づけた。


「ワシは」


背けた顔を無理に見ようとはせずに、燃え滾る耳へ声を流し込む。


「奥で待っちゅう」


頬と首に口唇を押し付けて、まだ冷えている身体を確かめた。


「湯を使うてきや」

頬を撫で名残惜しいと思いながら手を離した。
微かにうなづくように腕から抜け出る。
ひらりと外套の裾が翻り、袖を打った。






浴室のドアが閉まるのを確認した後、思わず神に感謝した。
信心などとんと持たぬが、今宵ばかりは何の神様かは知らないが微笑むどころか大爆笑しているようだ。
先ほどまでのしどろもどろの浮気未遂の証拠隠滅等すっかり忘れ、
鼻歌交じりに水割りを作って一気に飲み干した。
ついさっきまで飲んでいたのに、酔いは覚めていた。
もう一杯と思いながらグラスに注ごうとしたとき、ぷっと吹き出して止めておこうと壜の蓋を閉める。

時間は相当遅い筈なのにまったく眠くならないどころかむしろ冴えている。
それもその筈こんな興奮状態で眠れる筈もない。
水差しとディキャンタをそのままに、カウンタに置いた。
余り酔うては役に立たぬこともあるというもの。
ほろ酔い程度がお互い一番ちょうどいい。
思わずスキップしそうになったが必死で堪えて、主寝室のドアを開けて大きなベッドに飛び乗る。

うつ伏せながら肩が震えた。
思わず笑みがこみ上げる。

浮気未遂の証拠隠滅、完全犯罪。
確かに帰した女性は魅力的ではあったがこっちの魅力に比ぶれば失ったとて惜しくは無い。

艦の部屋より何倍も広い此の寝台のシーツを、今宵は思う存分滅茶苦茶にして遣ろう。
風呂から上がるのが待ち遠しい。

女の風呂は長い、陸奥も例外ではない。

一緒に入るべきだったかとか思いながらも、初めからそんながっついてはお楽しみが無くなる。
折角陸奥が何を思ったか一大発起して、陸奥が、あのお堅い女からの誘い。
ストレートで駆け引きも無くて、ただ一緒に居ろとぎこちなく云った。
巧くはないが小さな舌を差し出して口唇を求めてきた。

たったそれだけで無様におっ勃てたあれに身体をおしあてて、
更に深くくちづけて。

思い出しただけであのときの陸奥はいやらしかった。
覚えたてだった頃とはまったく違う妖しさが息とともに漏れた。

手や頬は冷たいのに、ちいさな耳だけは熱かった。
服の上から触れただけであんなに背が跳ねた。
あれは覚えているからだ。
嘗て自分の身体を這った男の手の動きを。
髪を乱す此の指を、背を這う掌を、甘い蜜を吸う舌を。
五感すべてを遣って齎される、疼きを、悦楽を。



一緒に風呂に入るのはまた別の機会を待とう。
いや今日、事が終わってからでもいいかも知れぬ。
とりあえずは蒲団の上で先に積極的になってもらおう。


「もしかして今日、ワシずっとマウントポジションとられたままじゃったりして」


思わずつぶやいた独り言が余りに卑猥で噴出す。

下から眺めた事等無い。
いつも受けるばかり、逃げ腰ばかりな彼女は、
最後には捕まってくれるが逃げるのを追うから自分が陸奥に覆い被さる。

いつもひどく苦しそうだ。

怖いと泣く様な顔をしてみたり、声も嬌げるが漏らす程度。
苦しくないか、痛くは無いか、顔を見ながらするけれど、いつも手で目を覆う。
何を見たくないのかは分からぬが、そう言う仕草ですらも此方を煽るということを知らないのだろう。
上手く呼吸も出来なくて、腕を首に回すことも出来なくて、
苦行に耐えるような顔で声にならない言葉を紡いで。


どんな眺めだろう。
自分で腰を使ってあえぐ陸奥が見られる。
上手に出来なくとも自分が下だって逝かしてやろう。
じらしてじらして衝いてやろう。

今日は目を閉じさせはしない。
いつも自分が見る景色を、見せてやろう。
他人を組み敷くことの快楽を、絶頂を、悦びを。

そのときちょうど離れたドアの蝶番が開閉する音が聞こえた。
耳を澄ます。
足音、多分、室内履きは無い。
裸足だ。
ゆっくりと此方へ向かう。

立ち止まった。躊躇か。
いや、堅いものの上に何かを置いた。
テーブルの上に携帯電話でも置いたのか。
電源を切れというのを忘れていた。

微かな衣擦れ。


裸足でこちらへ歩いてくる。
その白い爪先を想像する。
連なる脚を、腰を、腕を。
断片的に、鮮明に。

細く開いたドアの影。
そこから声。











「灯りを、消しとうせ」










そのまま入ってくればよかろうと思いながら、うつ伏せたまま手を伸ばしてメインライトの灯りを落とす。
真っ暗闇では用は果たせぬ。

「来や」

そう言ったが頑なに頼むと言った。
仕様が無い、返事の代わりに部屋の灯りをすべて落とした。
だが、窓の外のぼんやりとした灯りが部屋の中を淡く映す。

ドアが開いた。

生花の香りを圧倒させながら、別の馨が此方へ来ている。
躓かなければいいがと思い、僅かな光を頼りに、
そう窓から見える不夜城の明かりでその輪郭を探す。

毛足の長い絨毯の所為で足音が消えた。

みしりという、スプリングが軋む。
穏やかな水面に、漣立つ水面のように。
敢えて手は出さぬ。
おいでと迎え入れるように腕を伸ばしただけ。
湿ったあたたな手、その指先が触れた。触れたと同時に引き寄せる。
その華奢な身体を胸の上に受け取りながら、立ち昇る馨に酔いしれた。



「煙草の匂いがする」


普段、艦の中ではまったく吸わない。
地球に降りて、酒を飲むと欲しくなる。
禁煙しているわけではないのだが、宙にいると必要としなくなるのは不思議だった。
陸奥は指先に染みた匂いをかぎあてたのだろうか。
いやそれとも。

「あぁ、さっき吸うちょったき」

先ほど消火した筈の、女が吸っていた煙草のことをふと思い出す。
いや確かに消した筈だ。
大丈夫だ、何をオレは怯える。

陸奥の身体は温かかった。
普段武装しているに等しいあの格好に比べ纏う枚数が少ない所為なのか、酷く華奢に感じた。
直接腕に伝わる皮膚の弾力と、その重み、腕が余って仕様が無い。
左手はその背を支えながら、右手は首を探し当てる。
髪の毛は濡れていない。
そうか、髪を洗う時間すら惜しかったか。
洗い流されていない陸奥の匂いを楽しむ。
こめかみに口唇をつけ、長い髪の毛を梳く。
このまま引き倒してしまいたい衝動を堪えながら、陸奥と呼んだ。

「さっき、誰かきちょったようじゃが」
「えっ」

びくりと顎を探していた手が酷く跳ねた。
跳ねたというよりも、飛びのいたが正しいか。
兎も角動揺してしまった。

これは後ろめたさに相違ない。
浮気心がふらりと風に揺れる暖簾のように動いてしまったことへの。
そしてそれを押し隠さんとしたあの完全犯罪の痕跡を。

「いんや、誰も」
「ほうか、おかしいの」

何がおかしい。
何がおかしかったんだ。

彼女が此処に来るまでの一連の行動を備に思い返す。
日めくりのカレンダを毎秒三枚捲るように次から次へとコマ送り。
何もおかしなことはない筈だ。
グラスか。
いや無い、それはホテルのボーイが持っていった。
女は手洗いも使っていないし、灰皿も片付けた。
だが、一人ではなかったという確信めいた言葉に動揺した所為で動きが止まった。
では餌を撒こう。

「あぁ、きっ金時が」
「金時ゆうたら、あの銀髪か」

ほうじゃ、と坂本は頷いた。

「此の下で会うて、スイート見せろ言うきにちくと上がって、でもすぐ帰ったがよ」

あこは、ほれ、チャイナさんがまだ小さいし、心配なんじゃのう、
相手は男、そう言うことにしておいたほうがいい。
いやそう言うことにしておかねば今宵の此の算段がすべて水泡に帰す。
坂本は再び陸奥の手を捜すように自分の膝を跨ぐ陸奥の脚に触れた。

「ほうか、優しい男じゃのう」

陸奥は坂本の手の在り処が触れられたところで分かったのか、その手を取って指を絡めた。
いい塩梅ではないか、坂本は内心安堵した。
まぁのう、子供が二人おったらなかなか飲みにも行かれんちや、
少々饒舌過ぎるきらいがないではないが、陸奥はふぅんと言っただけだった。

陸奥は坂本の手を取ったがすぐに離した。
ゆっくりと坂本の肩を押して寝台へ倒す。スプリングがその重みで微かに揺れた。
陸奥は坂本の腰に重みを書ける。腹に丁度陸奥の内腿が当たる。
生の肌がかすかに湿っていて、それが吸い付くように坂本の肌を舐った。


「今夜の金時君はさぞ」


陸奥の声が静かな部屋に響く。
凄みの或る色を放つその声は、坂本の背を欲望に震わせた。





「魅力的な口唇の持ち主なんじゃろうの」






「は」

坂本は思わず素っ頓狂な声を上げる。
ありゃぁ男じゃ、しっちゅうろう、
その言葉を無視して同時に明かりがぱちんと点けられた。
眩しい、一瞬眼が眩み坂本は目を眇める。
陸奥はパイルのローブをきっちり着込んだまま、
どこから出したものか、ずいと使い終わった灰皿を目の前に差し出す。

ここを見ろ、示した場所は煙草の灰が着いているだけ。
なんなが、そうしらばくれようとしたら、ようみいと言われるが分からぬ。


「ここだけようけ灰がついちゅうろう」



確かに、水のような液体のような物がついている気がする。



「こりゃぁおなごが口紅の上に塗るもんぜよ」

グロスじゃ、と陸奥はそれを指先で拭って親指とで擦り合わせた。


「べたべたするきにここだけ余計に灰がついちゅう。
こりゃぁ意図的につけられたもんじゃない。
おそらく煙草を吸いよった人物のフィルタについたもんがそのまま着いた。
煙草の匂いで薄くはなっちゅうが、このグロスの香料は或るブランドが好んで使う薔薇の香りぜよ」

坂本は先ほど背中を這ったのが陸奥の情欲が滲み出した所為だと思った。

「つまり」

それは間違いだった。
それは。



「ここで煙草をすうちょったおなごが居るいうことろう」




おんしゃぁ名探偵か!と思わず喉まで出かけたが、
確かにあの女の口唇は天麩羅でも食った後のようにぬるりとしている口紅で塗られていた。
艶々とした蜜の溢れる果実のように猥らだった。



「誰かと、お楽しみの後やったがか」


「そんで風呂にはいっとったがかえ」



陸奥の声は見る間に温度を失う。
失うどころか氷点下以下まで下がり続ける。
そろそろバナナで釘が打てそうだ。



「いや、ワシ何もやっちょらん。誤解じゃ」
「ここは二十三階じゃ」

面白くない冗談である。
だがそんなことは云えるべくも無い。

「まっこと無実じゃ!」

無実である。確かに無実である。
多少の不実はあるにしても、無実だ。
浮気心が出たのは確かに認めるが、無実である。


「やったらこのホテルの掃除がゆきとどいちょらんいうことかの」



陸奥はめったに見えない笑顔を見せた。



「昨日泊まった誰かの吸った灰皿が、マントルピースのところに置いてあったとでも言うがかぇ」




無実だ、信じてくれ。
俺はやってない。



「ほやき、誤解じゃ」
「どがぁなごかいじゃ」

陸奥は徐に手首を振った。
指を組み掌を逸らしながら、愛染明王の貌で此方をじっと見下ろす。

「あぁえい、いや確かにここにおなごはおった」
「ほれみい」
「やきどなんもしちょらん。むっちゃんからの電話があったき、さようならしたがよ」

えぇ証言します。
坂本辰馬の無実を晴らすために。
私は神に誓って、そして我が良心に誓って証言します。


「ほう、じゃぁあしが電話せんかったらどうなっちょったが」

え、と坂本は思わず真顔になった。
陸奥は両の掌を握ったり開いたりしながらゆっくりと動かす。



「一晩中UNOでもやりゆうがかえ」

「あっはっは、修学旅行のようじゃのう」



陸奥はマウントポジションを取ったまま歯を食いしばれと妖艶に微笑んだ。





「やめてむっちゃん、痛いのワシいややき」



「頼む、話を聞きとうせ」


陸奥は舌で乾いた口唇を舐めた。
立てた膝から白い内腿。






「話せば分かる」













「問答無用」



end


WRITE / 2008 .7.25
完結〜
テーマ曲はR/I/Pの熱/帯/夜。
この坂本むちゃくちゃ気持ち悪いというか可哀想(笑)
ちなみに最後の「話せば分かる」「問答無用」
という遣り取りが書きたかっただけです。

本当は時系列の方へ入れてもよかったんですけど、あっちはあっちで純愛路線っぽく引っ張るかと思って(笑)
ちなみにタイトルのQEDと言うのは、
クイーンと言うミステリ作家が犯人の証拠を積んだときに好んで言った台詞だったような気がしなくも無い
と言うわけでこんなタイトルなのでした
あと本当はこれ5月15日に出そうと思ってて、なので季節が春なのですよ
そしてなんで5月15日かというと此の遣り取りは然る事件をモデルにした所為なのです
別の小説読んでるときに「あ、此の台詞は萌える!」と思ってずっと温めていたのでした
↑気に入ってくださったら
押していただけると嬉しい

inserted by FC2 system