おはすは舟の舳先にて





「あれは」






「信仰と言うべきものにてござるかな」



男は静かに言った。
日除舟は川面を静かに進む。

誰そ彼時の煩雑な人混みを避けるように、夜へと進む舳先はそろそろと暮れる闇に溶け始めた。
船頭が操る棹の動きは滑らかで、掻き回される川底とはうって変わって水面は弛緩する様に水音も立てぬ。

対面している男は女物の衣をぞろりと着て、一見すればただの酔狂、或いは渡世人の類。少なくとも堅気ではない。
湿った風を肌蹴た胸に入れながら、船端に肘を着いて煙草を呑み、話しかけた男の方をちらとも見ぬ。
その視線は紫煙を追う様でもあり、対岸に行き交う人々の影を見るようでもある。或いは上がった月か、それとも虚空か。

喧騒はどこか遠くの出来事のよう耳に届く。
噂されるのは芸能人のスキャンダルか、あるいは政治家の汚職か。
先ごろ起こった未曾有の事件はもう既に過去のものか。江戸の上空で戦艦数隻が派手に鉛玉を撃ち合った”あの事件”。
死傷者は様々方面合わせて多数、だが逮捕者はほぼ居ない。沈没した船に乗っていた者はほぼ助からなかったと聞く。
テロリストは原則射殺の不文律。生かしておけば釈放要求を掲げた更なるテロを生む。
沈没した艦の中には幾人もの同志が居り、その中には幹部と言われた人間もいくらか混じっていた。
正直失うには惜しい人材もいたが、隊を率いる鬼兵隊「総督」は報告を聞いてもそうかと言ったきり黙した。
自分達の頭の上で起こった事件の後始末、今も彼らに齎される続報は既に紙面の二面三面へと押しやられている。
それは一種の臭い物に蓋の原理、或る種の不誠実さを忘却で消化する。
唾棄すべき愚かさだ、そう言う総てを吐き捨てるような感情は潔癖な青二才の理論と言われるだろうか。

いや、そうは言うまい。男はそう考えた。
細く棚引く煙を吐きながら、男は黙ったままだった。

他の組織の事は判らぬが、投獄された「同志」の釈放要請を掛ける事件を今後総督殿が起こすかどうかは判らぬ。
だが炎上し黒煙を噴き上げる母艦を見送ったその眼には微塵の哀しみもなく、墨壺に浸したように深く澄んだ闇のようでもあった。
さながら櫂を挿し込む川底が夜を迎え、深さの上限を失うように、ただひたすな闇に名を変えるが如く。

河上万斎が江戸での仕事を一時終え、此処京へ来たのは先だっての事件の後始末の為でもある。
艦の落下で行方不明者の中に幹部でもある木島また子も含まれていた。
同じ場所にいたという武市は気絶しているところを発見され、同志に担がれ事なきを得たが、
目覚めた後その口から来島が傍に居たという話にも拘らず行方が知れない。

海上は封鎖され証拠品がサルベージされたが死体はあがらず、最早生存は絶望的と思われていたその一月後、
来島の生存報告が入ったのである。
詳しい事は判らないが自力で脱出した後、海に漂っていたところを助け上げられたという。

既に高杉は春雨幹部との盟約を密かに結んだあと、塒である京へ戻っていた。
首都の警備が強化されている最中の事、河上は事後処理その他諸々の報告の為単身京へと入りその旨を報告しに来たのである。

来訪を打診すれば酔狂にも「夕涼みがてら」と指定されたのは河に掛けられた小さな桟橋で、
薄暮を縫う舳先には目眩ましか屋号入りの提灯が掲げられていて、迎えであることがそうと知れた。

未だ攘夷感情が根強い京では、志士に肩入れする者も少なくない。彼の幾つもある塒はそういった連中が世話をした。
恐らく此の舟もその類であろう。
小舟は河上を乗せたのち、岸を離れふらりゆらり、夜へと漕ぎだした。
岸辺に見えるどこか世擦れた明かりが世界を隔てる。河上はそれを目の端で追いながら、眼前の男を仰いだ。

「来島殿が、見つかったでござる」

河上の報告を聞きながら男は軽やかに煙を吐いた。
安堵したであるとか、落胆であるとか、そういった感情はつとも見せない。
そのどれでも無いのかも知れぬが。

ジィと耳障りなほどに地虫が鳴く。
川面は静かな筈なのに耳鳴りのように聞こえる。

「全身打撲、それからいくらか骨に罅が入っているそうでござる」

暢気な釣り船に引き上げられた娘は身元不明の侭近くの医家へ運ばれた。
もう駄目だろうと寺に投げ込むかと迷ったそうだが、幸いにも息を吹き返したという。
来島また子と言う通り名は幸いなるかな有名である。
が、直ぐ名と顔が一致する者が果たしてどれほどいるか。
身投げの類かとうら若い娘を哀れんで医師は看病し、
直ぐに警察には届けず娘の回復を待っていたと事情を探らせていた密偵から聞いた。
河上が直接その医家を尋ねたときには、来島は既に意識ははっきりとしていた。
熱があり声は掠れていたが、全身打撲と幾らか骨に皹が入ると言う損傷は微塵も感じさせなかった。
開口一番、いつもの通りいつもの口調で尋ねたのだ。

「晋助様はご無事っスか」

挨拶もなく、出し抜けに。
無事だと告げるとああ、本当によかったと一瞬深く深く目を瞑り一筋涙を流した。
それは酷く高潔で美しく、静けさに在りながら内側に燃えた烈しい感情が流させたに違いない。
涙は枕がすぐに吸い見えなくなった。その横顔は彼女が今まで見せたどんな貌よりも清清しく、穏やかに見えた。
来島はすぐにでも戦列に戻ると言ったが傍目にも無理であることは間違いなかった。分
かっていないのは己だけと言う有様で、酷い落胆をしてみた後奥歯を咬んだ。
宥め諭しながら京都での療養を望む彼女を置いて一足先にこちらへ来たのだ。

「使えそうか」

高杉晋助と言う男は、現実主義者でトリックスター、有能すぎる戦略家である。
ある種の奇術家と呼んでもいい。現実不可能と思わせてる戦略を思いもつかぬ手妻で可能にする。
来島も自分もその駒のひとつに過ぎない。
失えば惜しむことよりも彼女の穴を埋める駒の補充と或いは持ち得る駒での戦略を練る。
そこには感傷等は無い、全く無い。
恐らくそれを一番体現しているのが此処には居ない木島だろうと河上は思った。






「晋助様はご無事っすか」

あぁと頷けば、よかったと目を瞑った。
正直、なぜ私を捜してくれなかったのかなどと聞かれたとき、面倒だなと思ったのだが斯様なことは一切言わなかった。
知らず知らずのうちに「女」と見くびっていたのか。
早く戻らないとと呟くように言った。
開口一番、狗のように「主」の安否を気遣い、尋ねた来島。
だが伏せた病み上がりの身体で何をするのかと問えば、彼女は笑った。
笑って言った。

「晋助様に伝えください」

攘夷志士になどなぜなったのか、しかも何故鬼兵隊にと尋ねたかったが、それは野暮と言うものか。
出自などは聞いたことすらないが、来島また子は「女」というものをかなぐり捨てているわけでもない。
むしろそれを全面的に押し出す扇情的な衣装、それが晋助に届いているか否かはさておき、短い着物から脚を見せて縦横無尽に駆け回る。
武市が猪と称したのも分かるように、分別云々が効く性分ではないのだろう。
それを好ましいと思うか厄介と観るかは主観の問題だ。



河上はすぐにでも発つと言う来島を宥め、そんな身体で何が出来るかと尋ねた。
彼女は笑う。





「来島また子はすぐにでも戻ると」

「お役に立てるよう、すぐに戻ると」




強すぎる眼光は彼女の父母どちらから譲り受けたものか、河上は寝台に横たわった来島また子を見下ろした。
あちこち打撲に切り傷、骨にもひびが入っていると言う。おまけにそのせいで熱まで出ている。
だがしっとりと濡れた黒い眼は熱のおかげでのぼせた赤い頬と相まって、
普段の勝気で荒い気性を隠さぬ彼女だが医家の蒲団の上といえど一種の艶かしさがあった。
それは恐らく。

「引き金は引けなくとも弾除けにはなれるッス」

彼女は自分の意思で引き金を引く。
だがそれは自分の為ではない。
命を掛けることも、命を奪うことも同じだ。
相手の命の重さも自分の命も同じ。
同じくらいの軽さで奪うことも奪われることも厭わない。

殉教者の狂気なのか、信仰の力なのか。

お互い同じ組織に属し、同じ男に与しながらも、其の温度差と絶対的な立ち位置の違いに驚きもした。
恋などと言う易々と言葉に出来る感情ともまた違うのやも知れぬ。
その答えを愚かと思うか否かは聞き手側の問題だ。


「あれは信仰と言うべきものにござるかな」


河上は静かに微笑んだ。何故と問われれば不思議ととしか答えようが無かった。
高杉はちらと河上を見る。

「信仰なァ」




信心の類にまず縁がないと思しき高杉は明らかに河上の言葉を鼻白んだ。
だが河上はそれに気分を害すでもなく、只淡々と先だって対面した木島とのことを思い返す。
彼女は燃え盛る炎にも似ている。直情的で激情家、その気性は近づくものをその熱が灼き近づけさせない。
曖昧な善悪の枠を超え、信念という名の薄甘い名を欲さず、
ただ只管にたった一人の男の役に立とうとする姿は滑稽にも思える。

恋愛と信仰は似ている。

何かに身も心も委ねられる、或いは身を投げ出すことが出来る。
恋は心を欲し、信仰は死の後の世界の平穏を欲している。
高杉は口唇から煙を吐いた。
夜を映す灯りがそれを紫灰色にみせた。

高杉は薄い口唇を歪めた。
煙で掠れた声が問う。


「神様ってぇのは誰が作ったか、知ってるか」

何をいきなり、明日の天気を聞くかのように冗談を言うように尋ねた。
人でござろう、間髪入れずに答えた。

「じゃぁ、何故造った」

神の名を冠するものを作り出す人間。

タマゴとニワトリの関係よりも、もっと簡単な図式だ。
伝染病、天変地異、世界を構成する不可思議な事象や理不尽を解消する為に。
自分達を納得させる為に、理由を求める為に。
それらの理不尽を巻き起こす「神」を鎮める為に、
人はあるときは歌で、あるときは舞で、あるときは命を含んだ供物を差し出す。

何の議論を吹っかけるつもりなのか。
一つしかない目は此方を見ているようで見ていない。
静かな目だった。
風のない内海を思わせる、夕凪ぎの様に動かぬ。


「理由が欲しい奴が神様なんて物を作るのさ」

酷く優しげな声だった。
優しい、違う。


”信じるものが欲しいから”

信じたくねえから、かもしれねぇなぁ、ひそやかに呟かれた声は優しさではなく哀れみか。

では、人が居なくなれば神は消え去るのか。
朽ち果てた祠やうちすてられた墓所、祖霊、八百万の神、数多の「唯一神」。
信じる者を持たない神は哀れだ。
奉る者がいなければその名は記号にすぎぬ。
その名を呼ばれぬまま消え去りその名もいつかは消え去る。


「信じたい奴らが造ったのさ」


舷を撫でる水音は一定で、夕闇の対岸は変わらずに無関心。
違うか、静かに問う声は空気を研いだ。


「信じる者がいない神は神ではないとでも」

声が尖った。
それに気がついたのか、宥めるようにそんなことは言ってねェよと続ける。
信じる者がいない「神」などいてもいなくとも同じだと言うのさ、
染み入るように口唇から煙を吐きながら高杉は僅かに片頬を緩ませた。
微笑みではない理由で。

「あの娘の狂信的な心が哀れとでも」

高杉は、ははと高い声で笑った。
来島がなにが哀れなんだ、と愉快そうに言う。


「幸も不幸もないさ。あれは信じているだけさ」


来島また子は揺るがない。
哀れになるのは信仰を失うこと、懐疑すること、偶像を失うこと。
意思の遂行者、役目を全うする為に命を投げ出すことも厭わない。
彼女の信仰はなんなのか。
亡国の徒と言う名で呼ぶにはあまりにも。


「万斎」

不意に呼ばれた名に顔を上げた。
闇に融けかけた横顔。


「お前はなぜいる」




湿った風が吹く。
男は船端に肘を乗せ視線を漂わせた。
夜の境、水と陸の境、浮き世と苦街の境。
鉄火場の匂いは遠くなり、おしろいのにおいをはだけた胸に入れた。

ただ黙って座っている。
静かに黙してなにも語らぬ。
その沈黙の意味を知るものは恐らく誰もいない。

来島はきっとその横顔を見つめるだけだ。
武市は彼の視線の先を眺めてまた別の場所をみるだろう。
岡田は俯く、では俺は。

舳先は闇を縫い、白く川面を泡立たせた。

自分の意思を決定付けるものはいったい何か。

亡国への怒りか。
「戦争が起こっていない状態」を平和と認識し、それを安穏と疑うことすらもなく受け入れるこの国への嫌悪感か。
そう仕向けるようにしたかつての指導者か。

生まれてから今日までの堆積する思想、教育、感情、経験、総ての因子が重なり混ざり合う。
複雑な蜘蛛の糸のように細い回路をひとつずつ通り抜けながら、自分は此処に居る。
今此処で、意思の決定を行っている。
強要も、強制もされず。

この男の一種の「意思」に共鳴しながら。
それを信仰と呼ぶのか、或いは同志と呼ぶのか。
名など無用と言うやも知れぬ。

名前は一種のまじないだ。
名をつければ名前の通り変貌しようと変化する。
そのものになろうと少しずつ形を変える。

それは歪みなのか、正当な変化なのか。



では、彼はなんだ。
狂信的な人々を従えながら道なき道を邁進する。
進め、止まるな、振り返るな。
従うものが口々に呼ぶ。なんと呼ぶ。





そこにおわすは何方で御座る。

舟の舳先におはすその名を。
我ら求めるその名。




おはすはふねのへさきにて。

end


WRITE/ 2009.6.14.
私は万またが結構好きです
あとお杉さんがまた子嬢を苗字で呼ぶのは結構くるなと思います
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