の け も の み ち



- 三千の夜 -






やっぱりこうなってしもうたか。



地球で起こったニュースはサテライト放送で、リアルタイムに此の艦にも配信される。

それを見たのは昼飯を摂っていたとき。
昼の番組から突然画面が切り替わり、
食堂にある大きなモニタに大写しにされた場面はまるで宇宙戦争でも始まったのかと思わせる、
そして嘗て見知った記憶を揺さぶるようなきな臭い映像だった。

今日の江戸のトップニュースで、更にスクープであろう映像が延々と流される。
いつもは無機質で丁寧さが信条の国営放送のアナウンサーが、
興奮した口調でニュースを読み上げる。
繰り返される映像は同じもので、そのとき食堂に居た人間を動揺させるには十分だった。

その後は仕事にならなかった。

キャンセルや問い合わせで営業がひっくり返したような騒ぎになり、
陸奥は事を重く取って事態をの把握と混乱を広げぬため、各部署のトップを集めてミーティングを行い、
対応特別本部を作って事態を収拾させようと情報収集に奔走した。

次々と配信されるニュースは実際のところ同じ内容を異口同音と繰り返すばかりで、
埒が明かぬと思ったのか政府へのコネを使い今江戸で起きている事態の把握を急いだ。
しかし結局幕府自体もまだ状況把握に至っていないようで混乱は続いている。
混乱と不安の一両日、ようやく先ほど新しい情報が入って我が艦内の事態は落ち着きを取り戻し始めている。

江戸でも戒厳令でも敷かれるかとは思ったがそこまでの混乱ではないらしい。
一心地着いて執務室へ戻り、読む暇すらなかった積み上げられた新聞を手に取る。

江戸湾上空にて戦艦が衝突、及び大物宇宙海賊がそれに参戦。
幕軍が出動する前に戦闘は停止し、各艦は其々行方を暗ませた。

組織と言うものは強大になればなるほど機動力が落ちる。
後手後手にまわった警察の動きはそれを物語るようだった。

戦艦を所有していた組織は桂小太郎率いる攘夷志士一派と、
今は京都に潜伏していると思われる高杉率いる鬼兵隊と思われる。
二大勢力ともいえる攘夷志士同士の喰い合い。
両勢力、断絶か。

各新聞は一面で此のニュースを大々的に報じていた。
賑々しく報じている割に内容はおざなりで、憶測の域を出ぬものばかり。
死傷者の正確な数も分からぬ、現在特別武装警察が調査を行っているとある。


こんな誰が書いたかとも知れぬ文章など読まずとも、
何が起きたかなどは既に分かっている。




噂は聞いていた。
宇宙海賊春雨の動き、ただのヤクザ者集団だった愚連隊は今早国へ踏む込もうとしている様子がある等と言う眉唾話。
或いは其の喰い物にされようとしている国が祖国であるとか、
それを手引きしているのが祖国を追放された志士であるとか。
またその志士の名は旧知の仲で、お互い嘗て袂を分つた仲であったなど。

江戸を離れて宙を航行する身なれどもそんな噂を聞き、
そんな物騒なことをやらかすような男は一人しか居るまいと釘をさしたも徒労に終わった。
其々のやり方を肯定しながらも、最悪の事態を避けるために。

あの秋の花火の夜、束の間の邂逅のあと、いずれこうなるのではないのではないかと。



 嘗ての盟友達の衝突。



思えども何も出来なかった。
いや、しなかった。
其の役を放棄したのは自分。



銀時に会った時のことを思い出す。
其々が其々のやり方でとは言ったものの、
実際起こってみれば遣る瀬の無い憤りにも似た感情が競りあがる。

気興ったところでその日を吹き消すことは出来ない。
ずっと身体の奥でじくじくと燃えている。
普段は種火のように小さくそれは目を凝らさねば判らない。
一旦風が起こってしまえばこの身体を食い破りそうになる。
激しい炎が舐るように身体の内側を焼いた。

合計六紙に目を通したあと、何の役にも立たぬそれらを役立たずとばかりにテーブルの上に投げつけた。
憤りを発散させようとしながら燻り続けるしかないと分かってはいても。
ソファに乱暴に寝転がる。
その反動と身を翻したときに巻き起こった風で開かれたままだった一紙が風に舞う。

やっぱりこうなってしもうたか、もう一度坂本は心中で繰り返す。

あの男はどこへ立っているんだろう。
自分が投げ棄て置き去りにしたものを拾ってやるよといった、にやけた面のあの男は。







ガチャリとドアのシリンダが回り、蝶番の音がした。
坂本は目だけで其方に緯線を投げて音の主を探す。

「こがあなところで寝んと部屋へ行って寝や」

青い顔をした女がいた。
手にレポートと思しき書類と出力した帳票が乗っている。

「おつかれさん」

記号のように使われる挨拶に返事は無く、ドアを後ろ手に閉めた。
昨日から仮眠程度はとったのかも知れぬが寝ていないのだろう。
灯りの所為とは言い切れぬ、顔色が悪かった。

陸奥は坂本が散らかしたと思しき、床に広げた新聞を一瞥するなり眉間に皺を寄せた。
不精をして、とでも思っているのやも知れぬ。

「いまえぇか」

悪いように見えるかと逆に問い返した。
今までの報告とステープラで留めた書類をすと差し出す。

「江戸のほうは多少の混乱が見られるが物損被害はそうでも無い」

江戸上空で複数の戦艦が数十分と言えどにらみ合い砲撃があったのである。
海上のかなりの高度を保った場所が戦場になったと報じられていた。

「ただ海上封鎖されちゅうがやき、暫く入出港が厳しい」

政府は一時ターミナルの入出港を見合わせ入出国を完全に停止させた。
テロリストがそんな正式なルートを通るとは思えぬが緊急事態である。
更に悪いことに幕軍の艦隊が到着する前に、所属不明の戦艦は墜落及び行方を眩ませた。
捜査の為に墜落した艦の残骸のサルベージを行うために、海上は封鎖されて更には宙海上両航路も制限されている。

「他には」

悪いニュースじゃ、そう前置きした。

「市場が動いちゅう」
「悪いほうに、じゃろうの」

大暴落かぇと冗談めかした。
いやそこまでじゃーないが、陸奥はあながち冗談とも思えぬ坂本の言質に眉を少し顰めた。
酷い値崩れを起こさなければいいやけど、そこはもう自分達では動かしようの無い市場である。

「ウチの損害はどがなもんかの」
「江戸での取引先の連絡が着かぬ場所は無いちや。ただ納期を早めてくれとゆうところが何件か」

江戸の被害が分からぬ以上、供給能力及び供給責任の問題が浮上する。
常時出荷する交易品もあるから当然のことだ。
キャンセル、納期の変更ともどもとりあえずは丸め込んだと報告すると同時に出力した帳票を渡された。
損益の利率変動のグラフである。
坂本は小さく舌打ちしながら、目で追う。

「三時間前、各チーム長が各星事情を報告に三艇出た」

今日明日一杯は戻るまいと告げる。

「けんど、円の値崩れが起こった場合」

皆まで言わぬでも分かる。一円上がっても下がっても損益に直接響く商売である。
薄利多売の品ばかりを扱うわけでは無いから倒産云々の話にはならぬが上手い話ではないことは確か。
こういう事態のためにと緊急事態のマニュアルを用意していたのが助かったのか陸奥の報告に淀みは無い。

「ターミナル入港手続きが今後宇宙全体で面倒になりそうじゃ。
入国、税関審査もの。地球船籍の制限が行われるかもしれん。いや、そうなるろうの。
今のうちに各星の手続きに不備が無いか再チェックさせよる。痛くも無い肚を探られるのは癪やき」

辰馬はようやくソファから起き上がり、報告書をめくる。
サングラスを上げてチェック事項の羅列を斜め読みする。

「それから、あしは明日の朝一に江戸へ発つ。先発隊が行っちゅうが、諸々片づけてくるき。
 ほれに、あしの情報筋にもアポが取れた。其方でも確認してくる」

恐らく、政府筋。自分も知り得る人物だが陸奥になら易々と情報を漏らしてくれるだろう。
分かったと猶も報告書をめくる。戻るんは翌日か翌々日になる、と言った。
陸奥はそこまで言ったあと、坂本の目の前に座った。
じっと坂本の目を覗き込み、静かに尋ねた。

「ほれとも、おんしが行くがか」

この女にしては珍しく感傷的なことを尋ねたものだ。
様子が可笑しいことなど見抜いているのだろう。

「いや」

この女なりに動揺しているのだろうか。
普段表情の変化がほぼ見えない性質だが、今日は顔色が悪いのもあって少し疲れているように見える。
この間見せた自分の弱みにも関係しているのか、それを気遣ってくれているのか。
どういったものの因果でそうしてくれているのかは判らない。
ただ、正直。

「ワシは此処に居たほうがえいろう」

すぐに口を付いて出たのは酷く冷静な回答だった。
どちらかといえば陸奥が残った方が処理は早く片付くかもしれない。
何しろこの女の事務処理能力は群を抜いている。
それを推して行くのか。

「攘夷志士、坂本辰馬」の名は知られていない。
だが、その名がどこからか囁かれることがあるやもしれない。
また高杉に接触したことは間違いない。
それがこのタイミングどこからか漏れ出すのは正直美味い話とは思えない。

「江戸に行くなら」

思わず口が動いてしまった。
正直すぎた。
陸奥はじっとそれを聞いている。
なんぞ、言付けるもんがあるかぇ、そう尋ねた。
いいとも、悪いとも言わない。

「いやなんちゃーない」

何を今更感傷ぶっているのか。

他人の生き死にを思い煩うことは止めようと遥か昔に心に決めた。
各々が選んだ道に、其々の命を賭している。涙という陳腐な感傷で彼らを糾弾するような真似は御免だ。


それに。
そうしなければ。


そこまで考えて辰馬は口を開けるのを躊躇った。
問いの答えのように、顔が浮かぶ。
すぐに返事ができぬのは乱された心の内側を未だに火が燻っているからか。
それともその燻煙に目を眇めたか。

「二人とも、酒でえぇかの」

陸奥は静かにそう尋ねた。
坂本は驚き顔を上げる。だが陸奥の表情は変わらなかった。
内心動揺しながらも、彼女が更に何か言うのを待ったがそれ以上は何も話さぬ。
ただじっとこちらを見ているだけである。
余計な気遣いをと微かに口内に苦い味が滲んだ。
それをぐっと呑み込みながら、ひとつは甘いもんがえいろうと付け加えた。
陸奥は坂本の答えを聞き、判ったと頷く。

再び沈黙。

いつもならすぐに姿を消してしまうのに相変わらず部屋に留まっている。
彼女と居るときの沈黙は苦では無い。しかし。

「陸奥」

不思議なものだが、人間、緊張するほど口数が多くなるものだ。
本心を悟られたくないと防衛本能が働く所為なのか。

「はよう寝とうせ。朝一なら尚のことやき」

続け様に出てきた言葉に、自分が酷く緊張していることに気がついた。
緊張というよりも動揺かもしれぬ。
細かに振動する気持ちが言葉を逸らせているのかも知れなかった。

「はや、ちくと片付けてから寝る」
「顔が蒼いぜよ」

おんしもじゃ、陸奥は色白である。
艦の中には太陽光に近い光を採用してるといえど、
やはり陽に当らぬからか元々色白なのに今や青白い。
それでもいつもは頬に血色があるのに今はそれすら失せている。
辰馬は身体を起こして白い陸奥の頬に触れてみた。
陸奥はじっと此方を見たままだ。

「おんしこそ寝たらどうなが」

白い頬は冷たいかと思いきや、ほんのりと温かい。
陸奥は視線を動かさず、やめろとも言わなかった。
大抵触る前にぴしゃりとやられることも多いのにおかしなものだ。
余り頭が働いていないのかもしれない。

ふと衝動が胸を突いた。
まるで思いつきの範疇のようで、とても軽やかに現れたもので否定するのを忘れてしまった。
対面に座った陸奥がもし自分の隣に居たなら、そのままくちづけを欲していただろう。
そしてとても長いことくちづけしてから、すまない仕事中にと侘びていたのではないかと思う。

そうしなかった理由。

思いの外陸奥の頬が気持ちがよかったのと、
大人しく撫でられるがままの彼女の目がいつもの鋭いものではなく、
かすかに柔らかく見えた所為かもしれない。
不実な自分を見つめながら黙ったまま次の言葉を待っている。
それはなにゆえかは判らない。
軽蔑か、諦念か。あともう一つ候補を思いついたが言わぬが花。


「一緒に寝るか」


人差し指で陸奥の下唇に触れてみる。
温かくて、かすかに湿っていた。

陸奥の目がゆっくりと鋭いものに変わる。
乾いた空気を纏いながら、静電気にも似たものが彼女の内側に集積する。
積み重なる。
飽和を待って。
ぱちりと弾けた。



「大概にしや」


吐き捨てるように言うと立ち上がった。
伸ばした腕が行き場を失い惑った。
ほれ、しゃんしゃん行っとおせ、手持ちのファイルで蠅でも追い払うようにしながら叩きつけるように言った。

子供っぽいと思えども、先ほどまで彼女にしては気遣っていた態度を翻し、
掌を返したそういう態度が少し悲しい。
ときどき子供っぽい駄々がじわりと滲む。

自分の中には沢山の人間が居て、一番表面に出ている自分をじっと眺めている時があると辰馬は思う。
今はどういうわけか酷く寂しいと思った。
本当なら一人で居たくないと大きな声で叫んでもよかった。

「えいろう、最近足が冷えると言っちょった、温めちゃろう」






停滞していたものがある日いきなり転がる石のように流れ始めた。
多分これが。

 始まりなのだ

いや、終わりの始まりなのかもしれない。
そしてそのことの元を作ったのは己なのかも知れぬ。

「知らん、独り寝しとおせ」

遠くに自分から置いて来たものを思い煩うことをやめようと思えども、
どこか奥底で鬱屈し遣り場の無いそれらが一緒くたになってずっと燻り続けている。
口には決して出せないけれども。

「こういうときこそ、いつものように艦を抜け出しておなごでも抱きに行ったらえいろう」

陸奥の顔が冷え冷えとしたものに戻る。
きりきりと開かれる眼が鋭さを増した。

「行ったら行ったで、妬くのは誰なが」

「分かった、焼いちゃる。今から倉庫行ってエイリアン退治専用高温火炎放射器持って来るきィ、おんしを消炭にしちゃる」

「あっはっは、おんしの嫉妬でワシはもう焦げそうじゃ」

「黙れ、熱で髪の毛チリチリにさせゆうぞ」



”こがな日は知らん者を傍に置きとうない”


嗚呼、地団太を踏む。
陸奥、陸奥と拝みながら呼びながら躍起になっている自分が居る。
ただ彼女と寝たいだけなら、いつもならもうとうに諦めている。

利己主義な子供が泣き喚いている。
なぁ、手を握ってよ、強く強く強く。

一人で居たら気持ちが溢れてしまう。
何かで栓をして置かなければ、遣り場の無い破壊衝動に似た逼るような焦り、怒り、慟哭、削り合う命が磨り潰されるような呻き声。
内側から決壊するように後から後から迸る。

そんなものは他人には見せたくない。多分誰にも。
そして、一番見たくないのは自分だ。

此処へ辿りつくまでに幾億の選択をしてきた。決めたのは自分。
些細なことも、大きなことも。

けれども今はどうだ。

呻きながら錆刀を振り回し、
血走る眼で辺りを薙ぎ払い、
拳から血が滲もうが、喉から血が噴出そうが、止まる事を知らぬ声を聞く。

独りで居ればその声をあげてしまう。
大きく息を吸い込めば、瞬く間に。

見たくない、見たくないのだ。
お前にも見せたくない、誰にも見せたくない。何より自分でも見たくない。

陸奥の眼は美しい。
此方をじっと見た。
鋭く、冷たい、静かな眼光。
この眼が見張ってくれるのならば、じっと口を紡ぎ耐えられる。

笑えているか。
今おれは、笑えているのか。

薄桃色の口唇がゆっくりと開いた。

「あしが此処に居るがは」





静かな声が届く。










「おんしを慰める為ではないきに」







ぱちんと妄執がすっと口から抜けた。
喚きたてていた子供が奥へ引っ込む。
彼女が此処に居る意味。
そんなもの、初めから知っていたではないか。

陸奥は、とても静かだった。

烈しい感情を出すことなく、ただ静かにそう言った。
同時に自分も口をつぐんだ。
揺れが治まる。
感情を振り回した錘鋲の振れがゆっくりと落ち着きを取り戻し、
普段よりは速度は速いが、同じ幅で揺れ始めた。

すまんとは言えなかった。
言えば、肯定したことになる。
そうだ、その通り。


その通りだ。
辰馬はソファから立ち上がり扉へ向かった。



「寝る」



「辰」


酒なら付き合う、陸奥はそう親しく呼んだが、辰馬は振り返らず、
返事を返そうとしたけれども声にならなかった。




2








最悪だ。





湯を浴び、布団を蹴って寝間へ入った。
睡眠は心身を回復させる特効薬だ。分かってはいるが一向に眠気など来る気配などない。
当たり前だ。
眠れる筈がない。
湯から上がったばかりでは熱が逃げないまま、頭の芯までぼうっとする。
理由は、それだけではないけれども。


慰め、か。


何が蓋をしたいだ小賢しい。
見栄を張る相手が居なければ立って居られぬなど情けないにもほどが或る。

予想はしていた。
こうなるだろうと言う先見は言わずもがな分かっていたことだった。
分かっているからこそ避けたかった。
避けたいと思うことこそが幻想ではあったが。

恐らく、予想以上の衝撃だったのだ。
過去の事を考えても埒無いと知りながら、何処かで其の引き金を引いたのは自分であったと言う悔恨。
燻る火種を残し戦場から離れ、独りになった。
残してきた場所で喰いあう者達、どちらが勝っても虚しいだけ。

それらの是非を問う権利は無く、意味すら無い。
ただの自己愛に等しい「我が青春」と言う残像を惜しんでいるだけだ。
後悔はしていない。
だが思い返すごとに頭の奥がじんとした痺れに似た痛みを感じることがある。
それを後悔と言うのだろうか。

自分を理解し分析し冷静になること。

とうの昔に会得した筈なのに沸き立ち滾る感情が一気に溢れた。
何をあんなに取り乱したのか。
情けない。恥ずかしい。


呆れただろう、こんな小さな男についてきたことを後悔しているだろう。
あの女のことだ。
明日地球へ赴くとき風呂敷包みでも背負って其の侭帰ってこないやも知れぬ。
坂本は唐草模様の大風呂敷に彼女が自分よりも大きな荷を背負うところを想像して笑った。
正直なところそうはならないだろうと言う楽観は勿論あるが、言い出しかねぬと思わず眼をつぶった。

瞑目すれば、遠くへと意識が飛ぶ。
遥か遠くの、故郷の在るあの惑星。
さらに時間を遡り、巻き戻し、我々が同じ火にあたっていたことを目蓋に浮かべる。
足の爪先からじんじんと冷えるような日で、皆がむっつりと黙って火にあたっていた。
皆、居た。死んだものも生きているものも皆居た。
くだらないことを話しながら、同じ火を見ていた。


こんなくだらないことばかりを憶えている。
その時回し飲んだ酒の匂いや味や、空気さえ凍りつきそうな寒さや、
誰が言い出したか忘れたが女と寝たことあるかだの。

あぁそうだ。
話す事といったら、食い物のことと女の事ばかりだった。


それらは随分前に失われ二度とは手に入らぬ。
戻らないと分かっていながら揺れた。
わかっていたからこそ揺れたのか。

仄暗い灯りが一つ浮かんでいる。
艦の揺れに合わせながら、行きつ戻りつ、超えられぬ刻を揺さぶるが如く。

坂本は目蓋の裏に映るその光を目を閉じたまま感じていた。
眠れなくとも目を閉じるだけで視覚だけは休まる。

昔、休むといえばこれであった。
目を閉じながらも耳だけは研ぎ澄まされて遠くの物音を拾っていた。
虫の音、風の鳴る音、砲撃音。
浅い眠りに磨り減らされた神経が麻痺して今も深く眠れない。
視覚だけが閉じられてはいるが、艦のモーター音が足元から伝わるだけだ。
安心できる場所の筈なのに、身に付いてしまったものと言うのは恐ろしい。

そのとき、足音。


誰ぞ、来た。
部屋の自動ドアが静かに開き、薄暗い部屋に廊下の明かりが入り込む。
灯りらァつけて、微かな舌打混じりに聞き慣れた声が聞こえた。

「投げ散らかしおって」

金属音。恐らく椅子の背にかけていた上着が床に滑り落ちたのだろう。
拾い上げてハンガーに掛けたのだろう。勝手知ったると言うように、灯りを消したまま足音は寝台へ近づく。
非常灯の碧い光がどこからか漏れた。

「金」

どすんと寝台に腰を下ろした。
寝台といっても立派なものではないから容易く軋む。
座った人物の脚が腰に当たった。肩越しに見ようと首を回す。
同時に寝台脇のテーブルに載せられた灯りのスウィッチが入る。
眩しくて目を眇めた。

「男の蒲団に忍んでくるならもっとやさしゅう入りや」

掌で目を擦りながらぼやけば、言い返す気にもならんと吐き捨てた。
女の顔は光の中に在って読めない。何の金じゃと問うた。

「見舞いを買う金じゃ、寄越しや」

立て替えとけやと思いながらもサイドテーブルの引き出しの中から財布を見つけ出して投げた。
流石に先ほどの非常にみっともない事の後では巧い台詞も出てこない。
女は札入れを指先で開き、金持ちじゃなと言った。

「誰じゃぁ思うちゅうか」

社長の財布の中身を覗き、札をぱちんと弾き小気味のいい音を立て、
そこから万札を二枚引き抜き襟元に刺し込んだ。

「酒と、甘いもの」

復唱するように言う。
此方も頼むと頷いた。

黄色い灯りの中で陸奥の蜂蜜色の髪の毛が透けた。
未だ光に目が慣れない。
光の中に在る姿を見るのに目を眇めていたら、突然ぱちんと灯りが消された。
陸奥の手で。

沈黙したまま動かない。
陸奥は背を向け、黙っている。
非常灯の碧い光がモノの輪郭を描くが、陸奥の姿は見えない。

















「寝んのか」

寝る、陸奥は答えた。だが、寝台から腰を上げない。
腰より長い髪が微かに辰馬の指先を擽った。
寝巻きの袖から覗いた腕に彼女の背中が当たった。
デジタルの時計が時間を刻む。音も立てない。

今し方仕事を終えたばかりなのか未だ風呂も浴びていないようだ。
寝間に忍ぶ前に風呂に入るのが女の嗜み、などと言う軽口はもう叩いた。さてなんと言おうか。
沈黙が長くになるにつれて、言葉が更に見つからない。
言葉を発さなくては、と無意識に思うのは対面している相手に対して緊張している所為だ。
普段は口から生まれたかと揶揄され喧しいと散々に言われるが、陸奥と居るときだけは自分は随分静かになると思う。
黙っていてもよい相手、自分にとってそれは陸奥であった。

で、あったのに。


今はその彼女にすら緊張をしている。
陸奥が静かなのはいつものことだ。減らず口は叩くが必要なことしか喋らぬ。
金を毟り取りに来ただけではないと信じたい。
背を向け、沈黙を続ける理由。
過度に期待して失望するにはこの暗闇は逆効果。

ぼんやりとした彼女の影は己の下心を映すようだ。
小さな背中ですら下から見上げればとても大きく見える。
下心の発するところは非常に純粋な場所から出るものではあるが、後ろめたさを感じるから不純だと自分で思っている。
右側に居ることが、自分にとって不幸なのか幸福なのか分からない。
幸不幸は紙一重なのやも知れぬ。
そうまで思い至ってからも指先すら動かせず、彼女の背にあたる腕を動かし小突いた。

「明日、出るとき教えとうせ。見送るきに」

沈黙の打破の為に思いついた言葉は余りにもありふれていた。
ただの事務的な連絡程度のことではないか。
陸奥は背中を小突かれたが此方を向かぬ。

「要らん、寝とりゃァえぇちや」

過度の期待をさせる答えだ。
つっけんどんな物言いをしながらその影が動かない理由を考えてみた。
自分の都合のいいように。




宙には音がない。

あるのは人が作り出す人工的な音だけだ。
今も足下から途切れることのないモーター音、空調のファン。
あぁ、もうひとつ。自分の心拍だ。

耳の奥を突く心拍音は平常時と変わらない。
静かで、穏やかで、乱れなく打っている。
陸奥が寝台に腰を掛けていても、速まらない。
滑稽なことだ。
平常心であろうと努めているのか、或いは不感症なのか。

 どっちでもあり、どっちでもない。


「なんで来た」

歩いて、などと冗談は言わぬだろうと思っている。
この女の時折揺らぐ姿を見たくない。
揺らいで欲しいと思いながら、揺らげば強烈な不愉快さが襲ってくる。
それは己の自分勝手さに由来するものであって、意外なほどに情に弱いところのある彼女の非ではない。
坂本はそう言う彼女の冷徹になり切れぬ部分を愛しくも思ったが、同時に耐え難い思いがした。


「さてな」

陸奥はまたも無愛想に、其の頭は帽子の台かなどとぼそりと言う。
本当の答えを射当てればこの女はどうするだろう。
違うというか。
寝台に浅く腰掛けた背中は相変わらず黒い塊で、姿は本当にぼんやりとしている。
見えぬが生身を伴う一個の生命、蒲団の上に引き倒せば男と女になれるだろう。

いや、なれるのか。
なれるだろうか。



「わしのことを、陸奥が愛しちゅうから」

なんちゃって、使い古された冗談交じりの言い回し。
自らの頭を過ぎった疑問に自嘲して、わざと悦ぶような声を出した。
へらへらと笑う。顔は見えぬだろうから、陽気そのものの声で。


 だが答えのひとつだろう、此れも。


でなけりゃ此処に、男の蒲団の縁に腰を掛けられはせまい。
いじらしい男心を吐き棄てる様に、寝言は寝て言え。
ひとこと。

いつものことだ。それに安堵した。



再びの沈黙。



空調が少し休めていた運転を再開した。
青白い非常等の灯に目は慣れたが、坂本は夜目が効かぬ。
相変わらず陸奥の輪郭はぼんやりとしたまま、実体を伴わぬ影のようだ。
存在は「影」によって立証されるが、触れたとて温度すら感じることのできぬもの。

触れられぬものに価値が在るだろうか。
では値打ちとは。
辰馬の肘に微かに当たる陸奥の背だけが、生身に触れ合っている唯一の場所。
ただの部分接触に過ぎない。道行く人が通り過ぎ様にぶつかったことと大して変わらない。

此処が、閨でなければ。

坂本は背を向けていた姿勢からゆっくりと脚を立て、天井を仰いだ。
右手をゆっくりと上げ、その小さな背中に垂らした結い先、指先に触れた髪の毛を根元へと辿る。
髪の結い紐の結び目を解くように、微かに捻る。
ぽろりと結び目は解け、掌の中に結っていた紐が塊の儘落ちた。
暫くそれを掌の中に納めたままほつれた髪の毛を玩んでいたが、
何か思いついたように掌の中の塊をそろりと陸奥の手元へ差し出した。
悪戯を自己申告して、怒られるのを待ってみる。



「ほどいてしもうた」



悪戯に縺れさせた髪の毛、鼻先を埋めながら掻き抱くことも出来る。
このままでも、手が届く距離。
けれども手は伸ばす事ができない。
しては、いけない。
掌の中に他愛ない悪戯の証拠を載せて自首する。
小さな手が、掌底から証拠品を抓み上げるときの僅かな接触を期待しながら。

陸奥は酷く緩慢な動作で首を動かしたようだった。
寄り添う影の塊、そうとしか認識できぬ闇の中。
掌の上に載せられた結紐を摘み上げた。
そのまま袂に仕舞うだろう、そう思った。

だが違う。

陸奥は邪魔だとばかりに結い紐を掌から指で払い落とした。
おやと思う間もなくそのまま僅かばかり指を絡めた。握る、いや絡めた。
そのまま掌同士を重ねる、言うまでも無く自分のものとを。
温度の違う掌が合わさる。
合致せず、無骨な格好の儘。
差し詰め、制御の聞かぬ情念を抱きながら、無様にも狂おしく一つ蒲団に倒れこむ情交の兆しのように。

握られた手、ぼんやりとその意図を図る。
図ろうにも思いのほか狼狽した。
手など、様々な妓たちと重ねてきたではないか。
この三千の夜の間に、どれほどの。










「アンタをひとりで、地球にはいかせん」




ぴしゃりといった。
陸奥の声は尖っていた。
湿り気を帯びながら、語気は強くはないが鋭い。
重ねた掌の可憐さとは対極にある。
やわらかくて小さな手だった。
喩えようがないほどに、温かく、ちいさく、そのまま口の中へ入れてしまいたいほどに。

可憐。

そう、可憐だ。

姿形が見えないまま重ねられ指の又に絡んだゆび、皮膚の上に在る他人の温度。
それらが卑しくも吹き上げながらも、載せられた手の小ささに只管な感動を覚えた。




 かわいらしい。




そう思った。






「すぐ、おらんようになるからかえ」

ほうじゃ、冗談めかして笑えば強く重い答えを寄越す。
手は微動だにできぬ。


「信用無いのォ」


正直な話、此処で布団を蹴上げ引き倒し、着物を剥ぐ事は簡単だ。
空恐ろしいまでの愚かで浅ましい欲望も先ほどから何度も突き上げている。
ただそれらを全て押さえ込んでいるのがこの可憐で小さな掌だった。
あたたかく、小さく、柔らかい。
剣も握ることも出来ぬ、重い荷を担ぎ上げることも能ず。
尊大で厭味たらしいモノを言うが途方も無い働き者。
けれども一つのおんなの手。


「信用されるような言動を心掛けや」


柔らかく縫い止めるように。

掌の上に無造作に乗せられ柔らかく絡んだ指は、温度と皮膚の接触以上の意味を持たない。
しかしそれをそれ以上の意味足らしめているのは、どこに普段仕舞っているか知れない感情であり、
受ける側の予期せぬことに対しての動揺であり、発する側の蛮勇に似た衝動である。

蛮勇。

一人で行かせぬ、絞り出した声は静かであった。
説教染みた毎度言われる台詞に似ていたが、行かせぬと言われても行くのが自分、そうであった。
今夜は違う。
「孤り」では、と強く言った。

ひとり。

人は一人で生まれてきて一人で死ぬ。
一人で眠り一人きりで起きる。
世界を遮断する時に居るのはいつも独りであり、赤ん坊だろうが老人だろうが同じだ。








 「むつ」









目を開けた朝、自分の世界が始まる。
新しい朝が時間が始まる。世界と繋がる。
目を開けた瞬間から孤は個となり、個が集まって集団になる。
眠りに落ちるときは独りでも、眠るまでは世界と繋がっている。

世界。

世界を構成する孤独な個。









「甘やかさんじゃぁ無かったがか」




沈黙を続けた。
互いに。





時間は感情を持たぬ。だから非情でも無情でもない。
人が変わるだけだ。
あらゆる方向から干渉を受けながら、少しずつ、少しずつ、変わって行くだけ。

だからどちらが正義で、どちらが悪なのではない。
そんな、一足す一は常に二になるような方程式で成り立つような簡略な世界なら、
誰しもが平和で穏やかでいられるだろう。
穏やかで、何の変化も無いつまらぬ世界。

誰しもが自分の足で時間を進む。花の多い回り道を行く者もあれば、最短の距離を亜高速で抜けるものも居る。
自分はどう歩いているんだろう。
暗い暗い宙をゆっくりと漂いながら。

あの頃とはまた自分も変った。
同様に、旧い仲間も変っているだろう。

変らないでいて欲しいと思うことは悪いことではない。変ったからと言ってそれを非難するのは過干渉。











「陸奥」






辰馬は呼ぶ。
陸奥は答えぬ。



お前は、そこに居ろ。
変らないでいてほしいとは言わぬ。

例えば北を指す北極星のように。
そこにあるだけでいい。
仄暗く光りながら遥か彼方、道標のように。
けれども其の星すらも代替わりする。

不変なものは無いと知りながら、そう願う矛盾。
遠く離れた心の在り処、其の真価。


どうか。

目の届く場所で、
手の届く場所で、

こうやって不平不満を垂れたり、叱咤していてくれ。
お前の仏頂面がないとどうにも不安だ










「陸奥」





絡めた指に力を込める。
手を握る。
手を、握り返す。



おんしゃぁ、ワシの傍にずっと居とうせ




そう言えたら良かった。
そういえたら多分楽に眠れた。
だけどもうすこし苦しんでいたい。
胸のうちに苦しくて遣り切れないぐつぐつと滾る此の感情は、
恐らく大儀と言えどもあの場所を棄てた自分への贖罪。
そう、自分の為だけの。

誰も為でもない。
自分が見捨てた命への購い。



だが



「もう寝や」



おんしゃぁ、ワシの傍にずっと居とうせ


思い通りにならんでも、ただそこに居るだけでいい。
目指す指針がずれぬ様に、導くようにほの暗くざわめく星のように。

言わない。
言えない。
言えば楽になってしまう。


だから言わない。
もう少し、此の苦しみを味わいたいから。

もうえぇき、柔らかく言うと絡めた指をほどき、ちいさな手は辰馬の厚い掌を包んだ。
命綱を握るように、強く一度力を込めた。










「陸奥」






























「おっぱいもんでえぇかの」


「頭かち割られるのと、股間蹴り上げられるのどっちがえぇか選びや」
「どっちもごめんじゃ」









声が震えた。
彼女が気が付いていなければいい。


end


WRITE/ 2009.7.31
年月の残酷さとやさしさ
弱り目の辰馬が楽しかった
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