此の手は奪う手、惜しみなく奪う手
あなたになにをあげよう

あげられるものなんて
なにも思いつきはしないのに











「てのひらの温度」




今宵はよくよく仕事をした。

積みあがった机の上の書類は見るのも辟易とするなれど、
是三分の二は陸奥さんが片されましたよとぴしゃりと遣られ、
コーヒー三杯と番茶を一杯、大福餅一つで片付けた。
やれば出来るじゃないですか、と随分上からの物言いをおやと思えば、
今のは陸奥さんからの伝言ですと告げられた。

執務室に籠って三時間。
そういえば顔を見ていない。

公私共々の用件で留守にすることが多い坂本なれど、こうまで顔を合わせぬのは久方ぶりである。
小言を言われど恋しくなるのが人の常、か。
問いただせば朝から会議やあちこちの部署へ顔を出されておいでですと不在の理由。
時間も時間であるので戻られませんよとホワイトボードのノーリターンの文字。



嗚呼、詰らぬ詰らぬ、つまらぬ事よ。

多忙と言えどもお帰りの、ひとことくれればよいものを。



どの位顔を見ておらんだろうか。
ここ三日ほど留守にする前に見送られはせなんだ。
予算会議中だといわれて伝言を言付かり、此方からも頼みごとを言付けた。
強制的に持たされた会社携帯には頼んだ用事の質問がメールで飛んできて、
声を聞いてやろうと掛ければ留守番電話が受け答え。

その前は。

確か大会議場で予算会議の時、隣に座った気がする。
いや、あの時は居なかった。

そうだ、彼女もまたその前に艦を空けていた。
確か二日ばかり江戸へ戻っていたはずだ。
登記だったか何かの不備があって、役所からすぐに来いと催促されたと聞いた。
その手のことに詳しい部下を連れて行ったのだが、
結局間違えていたのは役所の方で燃料代を請求したいくらいだと息巻いていた。

その電話も自分は受けていない。
大会議室の円卓に座っていた。
副官席が空で、会議がなかなか進まず、普段陸奥を口煩い小娘と揶揄する古参のじいさんたちが、
陸奥がおらにゃァどうもならんのと話を混ぜっ返す艦長の自分を見ながら溜息を吐かれていたのだ。



一週間。



そうか一週間もあの小言を聞いておらんか、回転椅子の上に胡坐をかいてくるりと回る。
そろそろ皆の仕事が引ける頃合である。
二十四時間体勢の快援隊と言えど、三交代制の一部時間は人員を少なくしてある。
斯く言う自分も同じ身の上である。
今日は私事ではなくちゃんとした公用で出かけて、
その日に戻ってデスクワークをこなした模範的な社長業。

未決の書類は無い。
出たり戻ったりの一週間は今宵で終了。
明日は一日休みがある。

執務室のドアを開ければ、すぐ外のオフィスにはもう人はほとんど居らず、
コンピュータに向かっていた女性がお疲れ様でしたと労いの声を掛けた。
おつかれさんと部屋を出た。







   *








疲れたと口に出せば更に疲れるので口には出さぬ。
廊下を通りすがる恐らく仕事上がりの社員から、
お帰りなさいだお疲れ様ですと声を掛けられ掛け合いながら、
エレベータホールのボタンを押す。

たった一人で箱に乗り込み、明滅するボタンを見上げながら壁に凭れた。
おかしなものだ。

普段は「アレ」を小煩いことだと辟易しながら、逃れるように仕事を抜け出す。
公人である快援隊の艦長という肩書きを放り出して、ただの坂本辰馬になるために。

放り出されたそれを拾って着るのは必ず陸奥だ。

勝手な事をとぼやきながら、放り出されたものを一つ一つ拾って歩く。
代理人として会議に出席、各部からの報告を受けて書類に纏める。
そういえば今日手元に届いた不在の折の会議議事録とその報告書は陸奥の手によるものだった。
手を抜けばいいのにそうしない。



そうさせているのは自分なのに、それを罪悪とも思わず、
口先だけで謝ってお小言に頭を垂れてそれでおしまい。


面倒ごとばかりを圧しつけて遊んでいる自分に嫌気もさす。
怒られる為に艦に戻って、小言を言われると安心する。

矛盾していると思う。

普段は別段なんとも思わぬくせに、いざ姿が見えぬと探してしまうように。



 試している。

 何を?



軽やかな電子音が鳴る。
フロアに到着した合図。
居住区の共有スペース、ど真ん中のエレベータホール前は意外にも閑散としていて、
普段着姿の社員達が数人談話室で喋っているだけであった。
下駄の音に気がついたのかお帰りなさいと会釈され、手を上げるだけでそれに応える。

自室へと戻ろうとしながら、自室のドアを通り過ぎる。
今だってそうだ。
用も無いのにドアを叩こうとしている。



何故と考える前に声を掛ける。
返事は無い。
迂闊な事にロックは掛けられていない。
無用心な、と舌打ち。
スウィッチを押せば音も無くドアは開いた。



「陸奥よ、居るがか」



部屋には灯りがついていた。

無駄を嫌う陸奥が不在の部屋に灯りをつけるとは考えにくい。
こりゃァ風呂かと、内心しめたとにやりと笑うが、くるりと見遣ればソファに何か塊が見えた。
部屋の主は膝まである外套も脱がず、座ったまま転寝の最中。
疲労困憊という体でソファの上に、書類一式を投げ出していた。

風呂に入って寝ればいいものを。

とりあえず座ったが最後、睡魔に負けたか。

脚を組むでもなく膝を閉じ、つま先が投げ出されている。
壁と本棚の間に凭れて随分窮屈そうな寝姿。

膝から落ちそうになっている書面一式を取り上げた。
ついでにソファの上にある紙のファイルも纏めてどこに置こうかと迷う。
机も雑多な書類が積み重ねてあって、彼女の多忙さを教えた。




陸奥の部屋にある自分の指定席を彼女に明け渡し、その隣に座った。
ソファの背凭れに肘をついて横顔を眺める。

安らかな、とは程遠い寝顔である。
微かに眉間に力が入っている。
眠る時くらいはこんな難しい顔をしなくても良さそうなものだが。


「疲れとるのぉ」


付き合いは長いがこういう姿を容易く見せてくれるような相手ではない。
郷里に居た頃は別にして、此処近年ぼんやりとする陸奥など終ぞ見たことは無い。

忙しいとは心を亡くすと書くが、どうであろう。
心を失ってはいないだろうか、余裕は無くしていないだろうか。
夢を見る暇も無いのではと眉間を撫でた。

小作りの鼻梁を指の背で撫でると、くすぐったそうに顔を背けた。
笑いはしなかったが、強張った眉間からは力が抜ける。
眠りは浅いのか、首が傾ぐ。
暫くして、またすぅと寝息が漏れた。

良かった、起きない。

膝の上に置かれた手が自分との境に落ちた。
起きるかと思えば薄目も開けぬ。
悪戯心等ではなく、膝に戻してやろうとその手を取った。

 ひやり。

驚くほど冷たくて、本当に生きている人間かと疑った。
しかしちゃんと呼吸はしているし、胸が上下している。

手が冷たいのは血行が悪いからだ。
握りながら親指の付け根をやんわりと揉んでやる。
肩こりに効くらしいと、こないだ飲みに行った店のおねーちゃんが言っていた。

起きている時に手など握らせては貰えぬ。
許されるか許されぬかは別として、
身体の末端まで疲弊している姿がどうにも遣り切れなくて。

起きぬように手を揉みながら、すまんと詫びた。

黙って遊びにいったりしてすまん。
仕事を押し付けてすまん。
それを黙ってこなしてくれるのに、口煩いだの、喧しいだのと邪険にしてすまん。

陸奥には聞こえる筈もなく、ただ神妙な顔をして眠っている。
さっきよりはまだましな顔で。



冷えた小さな手が自分の手の中にある。
変な感じだ。
他人の手を握るのは初めてでもないのに。
自分とは違う体温だからだろうか。
それとも柔らかい手指がくすぐったいから。

冷えた手を温めてやることしかできぬなと、
霜焼にならぬのが不思議なほど凍えた手を覆うように握る。
細くてペンだこのある指。
年頃の娘のように着飾ることもしない、働き者の手を。


おや、とその顔に些細な変化。
微笑むとは云いがたいほどに微かに、ではあるが。
今、笑ったような気がした。

光線の加減だろうか、それとも。
確かめたいと願い、縺れるような髪の毛が頬に掛かっているのを指で払う。
長いくせに無造作に後ろで束ねているだけの髪は、
櫛は入れられてはいるが切りに行く暇が無いのか随分長いこと伸ばしている。

昔はもう少し短かった。




左手で梳くようにしながら右手は陸奥の手を握ったまま。

全く起きる様子も無い。



「ゆるしとうせ」





随分伸びた。
腰の辺りまである蜂蜜色の髪の毛。

此の髪の長さが自分との時間の長さ。
夢を見る暇をも奪った自分との。

一度もとどまることなく、傍らを歩く道連れ。
長い長い終わりの見えぬ道程をゆく。



髪を梳きながら小さな頭を何度も撫でる。
自分の八手のような大きな手は陸奥の小さな頭など一抱えできそうだ。
時折髪を耳にかけて、額に触れる。
手の甲で柔らかそうな頬を撫で。
顎の線を指で辿り、強張った口唇を縁取る。



これ以上此の女のなにを奪えば気が済むのか。
欲なのか、それとも有体に言えば募る想いというものか。
けれどもそれとて置き換えれば欲のひとつに過ぎない。
それを判りながらもどうして求めてしまうのか。

すべてを放り出して逃げ出して此処へと戻る。
その間、荷物のすべてを彼女に持たせて。
辛いといわれた事はない。
弱音を見せてくれたことは無い。

惜しみなく奪いながら更にそれをも手に入れたいと願う自分が居る。

赦せと言えど過ちを正そうともしない、傲慢で欲深い自分。







「陸奥、ただいま」








少し腰を浮かせて距離を縮める。
体温を布越しに感じる。

膝が当たる。
胸に陸奥の肩が当たる。
絡まる髪をそのままに、左手は首に触れた。

口唇が微かにひらいている。
さっきまで一文字に結んでいたのに、
今は皐月の空の下にたわわに実る薄紅の桜桃のようだ。


 どつかれるかもしれん。


不意をつくのは剣術では常套の手段である。
何も恥ずべき事ではない。
真剣勝負ならなおの事。


 だがこりゃァ剣術ではない。


陸奥の呼吸を感じながら、口唇を掬おうと首を傾げる。
きっとそこは温かい。
握った手を解き、指を絡めた。






「よしや」






びくりと動きを止めた。
上がるはずの無い声と動くはずの無い口唇が動き、思わず肩が跳ねる。
折角握っていた手も離し、一瞬浮いた腰の所為で縮めた距離も一気に開いた。


「起きちょったがか」


思わず上擦る声を制しながらホールドアップの姿勢をとる。
陸奥は口を押さえながら欠伸をして今何時じゃと一人ごちた。
艦内の標準時間はおよそ二十二時を過ぎたところであろう。

「くすぐったかったがで目が覚めちゅう」

窮屈な姿勢だった所為か手を首に遣り回しながら二度目の欠伸をした。
右手を振り、肩を回しながら立ち上がった。

「いつから目を覚ましちゅうがかぇ」

立ち上がる陸奥の背に問いかける。
相変わらず声が上擦った。
あぁ、と首を傾げて冷蔵庫の中にあったお茶を出してグラスに注ぐと、
腰に手を当てて一息に飲みきった。
口元を手の甲で拭いながらちらりと此方を見た。


「疲れとるのぉ、辺りから」


ほとんどじゃ、と思わず両手で顔を覆って伏せる。
なんちゅう恥ずかしい事をしてしもうたと、後悔すれど先に立たぬは常の事。
うわぁと思わず両手で顔を覆って項垂れた。


何じゃおんしゃぁずっと目ぇ覚ましとったが、言おうとしたが声にはならなかった。


悪趣味である。
判っていて起きぬなど。

そりゃぁまぁ時々ではあるが手を握ったりとか抱きしめたりとかスキンシップはあるものの、
それは全部自分が割合他人との境界線が低いのもあって老若男女問わずやってしまう。
まぁ出来たら若女が一番嬉しい事は嬉しいが。

しかし、一線は一度たりとも越えていないのが実情である。
唯一、そういえばかなり昔。
本人は覚えておらぬだろうが、脱水症状になったとき口移しで水を飲ませて遣った事がある。
が、あれはノーカウントといわれるに違いない。

これが無理やりキスしたとかなら、その後の展開でまぁいろいろな方向性に持っていくことは可能だ。
済し崩し、という方向性である。
しかし真逆の方向。
たとえそれが部屋から放り出されて、一週間口を利かぬというのでもアリはアリだ。
謝れば済む事なのだ。
赦す許さぬのあとに、女と見れば盛りおってと一蹴される程度で済む。

寧ろそうあってくれた方がよかった。
この居た堪れず、身の置き所がなく、
悶絶するような恥ずかしさに比べたら断然マシというものである。
うっかりペットとかに赤ちゃん言葉で話しかけてしまうのを友人に見られるくらい恥ずかしい。

開いた膝に両肘をついて額を押さえていると、
空の頭で何を考える人をやっちゅうかと鼻で笑われた。



「なんですぐに言わんがよ」



項垂れたまま口を押さえて眼だけを上げた。
いざとなると全身から強烈な照れが湧き上がって、ちょっとまともに顔が見られない。
心中のモノローグの一つ一つも聞かれていないとはいえ恥ずかしい。
すまんすまん、となぜか陸奥が謝る。

謝るな。

寧ろ、なにを血迷うか、位言って呉れれば、
いつものように冗談めかして一夜に誘うことも出来るのに。

陸奥はグラスを流水ですすぎ、
小さな籠の中に伏せながら一瞬ふと笑ったように見えた。





「撫でられるのがあんまり気持ちようての」







その声は自分の唸り声と丁度重なって聞き取りにくかった事は確か。
今、なんと言った。


陸奥は二度ほどぐるりと首を回し、
机の上に雑多に乗った書類を見ながらさぁ、もう一仕事と机に着いた。

紙綴じのファイルを手早く調べながらキャビネットの中に仕舞っていく。
クリアファイルに綴じられた書類を吟味しながら付箋を貼る。

なァ、今なんと言った。
今一度、さっきの。

陸奥は平生となんら変わらぬ様子で書類を捲り、なにかの判を附く。
それは彼女の決済印であったり処理済であったりするのであろうが、
そんな事、もはやどうでもよい事。



そうか、気持ちが良かったか。

項垂れたまま頭を掻きながらちらりと陸奥を見た。
変わらず書面を見ながら次々と処理をこなす。
視線に気がついたのか陸奥の顔が動いた瞬間目を逸らした。
表情など、窺えるはずもない。

ごろりとソファに脚を上げる。
脱いだ下駄がかろんと鳴る。





「陸奥よ」






ばつが悪いやら恥ずかしいやら。
壁に向かって話しかけた。
返事は無い。





「もうちくと、ワシ撫でちゃってもえぇぞ」







陸奥は暫く置いて、そうながと気の無い返事。



恋は下心。
愛は真心。



これはさぁ、どっちだろう。

きっと後の方だ。
だってあの時、本当は。





「じゃが、下心は要らん」





だってあの時、本当は。




冷えた体を一晩中でも撫でてやりたいとか、
このままずっと眠ったままで腕の中にいてくれたらいいのにとか、
あんまり愛しくて愛しくて、
頭から飲み込んでやりたいとか、
いろいろ考えてどうかなりそうで。

だから、口唇に触れられたらいいのにと。







「下心なんかじゃぁ無いきに」








一度だけ触れられたらそれでいいのにと、思ったんだ。
これで、欲しがるのを最期にするからと。







そう言ったら、微かに笑う声。




「嘘を吐け、嘘を」

end


WRITE / 2008.1.25
拍手用に書き始めたんだけど、思いの外長くなったんで…。
相変わらず計画性のない、あらすじなしで書き始めるのはやめようよ。

と云いますかね…。
チョイ前に「青くて薄ら寒い話でも書こう」と思ったときには書けず、
「ちょっと薄暗いカンジの坂本でも書いてやろうぜ」的なことを思ったら今度は逆になったんで

思った通りにならないのが此の世界ですね。
だからこそ面白いのか。

というか、薄ら寒い…。
誰かあたしに毛布を掛けてください。

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