虹の袂で逢いましょう
東 雲
- 虹 立 ち て-
転寝していたというのが一番近い。
目を開ければ白々とした薄明かりが、ぼんやりと窓の外にある夜明けを浮き上がらせている。
明け方は初夏といえど冷える。
初夏、いや梅雨の只中である。
今年は空梅雨だ。雨が降らぬ。
いつまで経っても暑くならぬ。
暑くならねば百姓が困るであろうて。
蒸し暑いのも困るが、雨が降らぬのは困る。
だが唯一感謝するとするならば、人の隣に寝てもその熱を煩わしいと思わぬことだ。
寧ろ汗で冷えた肌には心地がいい。
抱いて寝る、というほどに接しては居ないものの、
一床の蒲団に寝ているのだから同じことだ。
いつ眠ったんだろうか。
夕べは、かなり遅くに此処に来た。
事前に連絡を入れるわけではないので居るかどうかは分からない。
留守、或いはもう灯りを消しているなど、或る種の賭けである。
だが、未だに外れを引いたことは無い。
暖簾が出ていれば表口から、出ていなければ裏口へ。
大抵暖簾を下げるくらいの頃合を見計らうが、今日は確かに遅かった。
ふらりと寄ったら、暖簾は既に仕舞われていたが鍵は開いていた。
無用心な、とそう一人言ちて扉を開ければその背中が見えた。
カウンターに座って、新聞を読んでいる。
「あら、いらっしゃい」
竈の火も落としてあるのだろう。カウンター向こうの調理台の明かりは消えていた。
「無用心だな、鍵も掛けず」
おかしな奴が来たらどうするんだと、後ろ手に扉を閉めた。
幾松は新聞から目を上げて、それ自分のこと、とごく真面目な顔で言った。
「誰がおかしな奴だ、おかしくなんか無いぞ。別に頭が二つあるとかではない」
それは心外だ、桂はそれを更に真面目な顔で不満を述べた。
扮装好きのテロリストという面は棚上げかと幾松は思うも、
相も変わらず糞真面目で冗談というものが通じぬ男の返答に、苦笑という大人の対応で返した。
そのあと風呂に入って、しばらく何やかやと話して、
灯りを消して、二時間ばかり、蒲団の上で、いや中で。
何やかやとして寝た。
二時ごろ寝付いたのだろうか。
夜が明けきっていない。
五時にはなっていないだろう。
そういえば、寝る間際に五時には起きなくちゃと乱れた髪を手櫛で梳かしながら独り言のように漏らした。
恐らく仕込みか何かがあるのだろう。
枕元に置いた懐中時計を見る。薄闇に目を凝らした。
五時少し前。
あと少しで閨を離れる。
気落ち、それが一番近い気がする。
離れ難い、ごろりと彼女の背に被さるように身を寄せた。
明け方の眠りの浅い時間だった所為か、小さな声で、なぁにと夢現の声がした。
起こしたか、五時だと告げると起きなくちゃと消え入る声で言う。
静かな寝息が聞こえる。
じゃぁ、もう少し。
髪の毛が頬を擽る。
冷えた肩に蒲団を掛けた。
窓の外が微かに茜色に変わり始める。
日が昇る間際、東雲の空。
他人の温度を感じながら、夢を見るように目を閉じてまどろむ。
離れがたく、自分からそうとは出来ぬ。
「起きなきゃ」
身体を起こしたその人は、乱れた髪の毛を手櫛で梳いた。
何も身につけていない背に亜麻色の髪の毛が掛かる。
彼女は自分の背を見たことはないだろう。
見たことがあるならば、こうも無防備に人前には晒さぬ。
「ねぇ、出るんじゃないの」
先ほどまで枕になっていた俺の腕を揺すった。
気持ちが良かったのに、そう思いながら彼女が起こしかけた腰に腕を回した。
そのまま引き倒してくちづけのひとつでも強請ろうかと思ったが、
部屋の中は薄暗いがお互いの姿がはっきりと見えて、
もう夜ではなく朝なのだと気づかされたからそのままで数秒耐えた。
腰に巻きついた腕を仕様が無いというように彼女は二度三度撫で、
起きなさいなと少し掠れた声でやわらかく言った。
ひとつ頷き腕を離し、身体を起こす。
彼女は枕元に投げられていた寝巻きをふわりと羽織り、紐を結わえた。
その所作をぼんやりと眺めながら、惚けた頭を一二度振って着物に袖を通す。
「さっさと着ちゃいな、窓開けるよ」
寝間でのろのろと支度していた俺を叱咤すると、カーテンを開けた。
朝の清清しく、冷えた空気が流れ込む。
未だ太陽が出ぬ空。
だが遠くのターミナルの向こう、地平線と水平線の交わる辺りが黄金色に光りはじめていた。
窓の外をぼんやりと眺めていた彼女が手招いた。
足袋も履かず、帯も結んでいないというだらしの無い格好で腰高窓から空を覗く。
「虹だ」
遠いそちらの空には雨でも降っているのか。
眼を凝らさぬと分からぬうっすらとした虹。
未だ暗い西の空にかかっている。
「朝の虹は、吉兆だというぞ」
「そうなの」
昔、誰かから聞いた。
母だっただろうか、友だっただろうか。
ひょっとしたら迷信かも知れぬ。
綺麗ねと笑った。
化粧気もなく、髪も乱れて。
虹を見て綺麗だと言ったその顔が随分と幼く見えたのは気の所為だろうか。
「じゃぁ今日はいいことがあるのかしら」
さぁなと笑った。
虹から目を離して、単を合わせた。
後ろ手に帯を結び、羽織を手に取り袖を通す。
今日は出るのが随分遅くなった。
夜明けが夏になるにつれて早い所為だろうか。
辞す間際になって思うのは、もう少し夜明けが長ければと、夜が長ければと思う。
致し方のないことだが。
いつもは彼女が眠っている間に出て行く。
さよならとも言わず夜明け前に。
今日は寝間から出て、ともに夜明けを眺め虹を見た。
其れが少し気恥ずかしくて慌しく暇を乞うた。
「それじゃぁ、幾松殿、また」
窓に寄りかかったまま小さく頷いた。
酷く寂しそうに、うんといった。
後ろ髪を引かれる想い、いつも感じる事だが今日は特にひしひしと感じた。
階段を下りようと彼女の前を通り過ぎる。
「ねぇ」
呼び止める声。
振り返る是も否もなく振り返る。
「朝ごはん食べていきなさいよ」
そうしなよと言い聞かせるように言う。
いいのか、そう尋ねたら少しおかしそうに笑った。
「一人作るも二人作るも同じよ」
お蒲団上げておいてと彼女は言い、襖を閉めた。
微かな衣擦れの音がした。着替えか。
襖を閉めなくとも良かろうにと思えども、言われたとおり蒲団を押入れにしまう。
腰高窓に掛けて空を見た。
夜明け間近の東雲。
空は金色と赤の流線型が、青鈍と紫の夜に延びている。
その中にぼんやりとした虹が架かる。
朝の虹は吉兆か。
そのくせ雨が降るとも言うな。
「虹立ちて忽ち君の在る如し、か」
いや少し違うか。
さっきまでは腕の中に、今は襖の向こうに居るのだから。
「今、なにか言った」
襖を細く開けて顔を覗かせた。
ほら。
「いや」
すぐそこに。
掴めぬ虹にも劣らぬあなたが。
手の届くところに。
end
WRITE / 2008 .9 .5
拍手とヅラ誕で分けてupしてたんですが、
くっつけると綺麗だろうなと思って
6月のヅラ強化月間中の一つ
作中の虹の俳句は高/浜/虚/子の作です
なかなか意味深なお歌です
ヅラは一人で虹を見るときこんなことを思ったりしてるに違いない…
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