「路地裏の猫達」




「猫、好きなの」




路地裏のゴミ棄て場にまだちいさな猫が居た。
どういうわけか人懐こく、人間を怖がらぬ。
足元に甘えた声で擦り寄ってくるのでひょっとしたらどこかの飼い猫やも知れぬ。
踏まぬ様に膝を地に着き、なにか無いか袂を探ったときに声を掛けられた。

「いや」

声は聞き覚えのある女性のものだった。
正しくは今から自分が行こうとする目的地の家主の声である。

此処はその目的地の家のゴミ棄て場であり、更に正確に言えばその家は飲食店で此処はその勝手口。
その扉を開ける寸前に足元にまとわり着いた猫を構っていたのである。

店の主である女性は蓋付きのゴミ箱に今日出たと思しき残飯を入れて蓋を閉めた。
今日は仕舞いなのだろう。

猫はにゃぁと鳴いて自分の手元からするりと抜け出し、女店主の前に躍り出てちょこんと座った。
はいはいと年季の入った鍍金椀に口の開いた袋から餌らしきモノを入れて目の前に置けば、
間髪いれずに猫は食べ始める。
彼女はしゃがみ込み、猫を撫でるでもなくじっと眺めた。

「よく残飯漁ってるのよね、まぁ餌やってるこっちも悪いんだけどさ」

飲食店が連なるこの界隈では野良猫野良犬の類が多い。
確かにこの不夜城たるかぶき町、野良達の格好の餌場である。
猫も、犬も、人さえも。

街のあちこちではゴミ箱を荒らされぬように、
網をかけたり錠前付きのものにしたりとしている様子が見て取れる。

「ホントはダメなのよ」

餌をやってはいけないの、と彼女は言った。
確かに。
いくらゴミ箱に蓋を設置したからといってもそこに集まる猫に餌をやっていては本末転倒だ。
飲食街に野良が屯しているのはいただけぬ。
だが、やせ細った犬猫を捨て置けぬのも人情。

あ、見て、と不意に塀の上を指した。

「アレ、ここいらのボス」

顔、でかいでしょ、笑いながら示した指の先にはふてぶてしい顔の猫がいた。
体も大きいが顔も大きく、その輝かしき地位への戦歴を示すように耳の端が破れている。


「やっぱ野生は顔の大きいほうが強いのよねェ」


細い塀の上をのっしのっしと歩きながら、こちらに一瞥を呉れてじっと眺めたあと、
ぷいと隣家の庭先へ降りて消えた。
あぁ、行ってしまった。
名残惜しく不在の塀上を眺めていると彼女は笑う。

「もしあんたが猫で、野良だったら、長生きできないわね」

何を突然に。
振り返れば己の言葉にくすくすと笑いながら、
椀の中に頭を突っ込む猫を見ている。

「どういう意味だ」

弱いと暗に言われたような気がしてむっとしながら尋ねた。
ただ、まともに言われると挫けそうな気がしたので同じように猫を見た。

「顔が小さいから」

はィと間の抜けた声で問い返そうとした。
彼女なりの冗談なのかなんなのか分からぬが、ふふふと笑う。
猫は食事は終わったのか椀に突っ込んでいた顔を上げてにゃァと一つ鳴いた。
呆気に取られている自分を尻目に、
女家主は別の椀に水を注ぎながら餌の隣に置いてやると猫はそれを懸命に飲んでいる。

彼女は猫を撫でている。
猫は抵抗しなかった。

自分も同じように首の下に指を差し入れたが、それも頓着しなかった。
動物特有の柔らかな毛並みと、おなじ恒温動物である気安さが心地いい。

「ねぇ、やっぱり猫好きなんでしょ」

「だから違うって」

彼女は頑なに違うと言い張るしかない隠れ愛猫家を笑った。
しかしそれは嘲笑ではなく、嘘を見抜いた上でのことに違いない。

確かに、愛玩動物を指先で穏やかに撫でるのは、そんなに恥ずべきことではない。
だが、己がこのようなふわふわして頼りなげなそれこそ世界を変える術など持たぬ生き物に、
どうしようもなく心動かされて、この間子猫を拾ってしまったら、
エリザベスに『貰い手が見つかるまでです』などと諭されたなどといったら更に笑われそうなので黙っていた。

「いいじゃない、男の人が猫が好きでも」

彼女は何をそんなに恥ずかしがってるんだかと笑った。
だが自分は相も変わらず違う違うと言い張る。
言い張った手前、猫を撫でるのを止めて裾を払って立ち上がる。

「幾松殿は、」

不意に水を向けられて幾松は顔を上げた。

「猫?好きよ」

彼女は濁した語尾を察したのか、きっぱりと明瞭に応えた。
正確には猫が好きな男をどう思うかなどと聞こうかと思ったのだが、
流石にそれはあからさま過ぎるか。
勝手に解釈してくれたのでへぇそうかと空とぼけ、会話は途切れた。

彼女は猫を撫でている。
猫は甘えた声を出した。
もっと飯を出せとでも言っているやも知れぬ。


「飼えないけどね、食べ物屋だし」


そう言いながら路地裏の細い隙間から表通りを見た。
夜半というほどの時間ではないので、通りにはまだ人が歩いている。
千鳥足の酔漢たちに連れそう友人なのか仕事仲間か。
或いは着飾った女たちに男たち。
誰も裏通りの猫など気にかけてはいない。

「でも、生き物は飼いたくないわ」

その時、ふいと猫はもう用済みとばかりに手から抜け出た。
彼女の言った言葉が聞こえたのかも知れぬ。
飼われるのなど御免蒙るという意思表示、まさかな。

音もさせずにごみバケツの上に飛び乗り、そこから更に塀の上に上がった。
小さくにゃぁと鳴いてこちらを一度振り返り、塀の向こうへ消えた。

行っちゃった、姿が消えた其方を眺め、
椀の水を棄て二つ重ねた。

「この辺のはみんな餌だけ貰ったらアバヨ、なのよ」

身勝手よね、そんなことを言いながら立ち上がる。
着物についた猫の毛をついでに払った。

「どうして、飼いたくないんだ」

彼女は名残惜しそうに塀の向こうを見ている。
もう一度顔を出さないかと待っている様に。

「だって先に死んじゃうじゃない」

愚かな質問であったことを、その応えの素早さに恥じた。
そうだ、そうか。

「いやよ」

椀に残った水滴を振り払いながら、少し俯き加減で首を傾げる。
それが酷く孤独に疲れた人のようで、答えなくてもいいと伝えるべきか迷う。
だが、彼女は沈黙を嫌うかのようにあははと楽しげに笑った。

「気まぐれで餌やってるだけ、身勝手はお互い様なの」

そういいながらさっと立ち上がった。
勝手口のドアを開け、思いついたかのように振り返る。

「ね、お茶漬け食べてかない?」

にこりと笑う。
まるでふらりと立ち寄った猫に話しかけるように。

「伝票つけるから、お夜食にしようと思って」

言い訳なのかそれとも本当なのか。

「何がいい?鮭、海苔」

彼女は冗談っぽく笑いながらそんなことを言う。
猫の器をそっと後ろ手に隠しながら笑った。





二階に上がって待てと言われ、
暫く身を潜めさせてもらったこともある部屋の見知った座卓へ座った。
何も無くなっていないし何も増えていない部屋だ。
座卓の上には帳面と電卓、それから領収書と請求書が入っていると思しき書簡箱が傍に在った。
そうか月末か。
ちらとカレンダーを見る。

そのとき、お待たせと言いながら入ってきたその手には盆が乗っかっていた。
急須と椀が載っており、
月末だから伝票溜まっちゃってるのよ、そんな言い訳をする。
結局茶漬けは鮭であった。


無言で出された茶漬けを漬物と一緒に掻き込んだ。
どういうわけかさっきの猫を見るように、茶漬けを流し込む自分を見ている。
まさか撫でられはしまいが、等と馬鹿な事を思った。
居心地が悪い。
いやそれは少々御幣があるか。




落ち着かぬ、これが正解。




馳走になった礼にと空の椀を片付け、茶でも入れてこようと申し出ればそれはどうもありがとうと言われた。

「お茶のあるところ、分かる」

以前此処に居た頃に物の置き場は多少覚えた。
あぁとウェイター宜しく盆を持ちながら振り返れば、随分寛いだ様子で髪を下ろした。
あれなんかこれ同棲みたいじゃないか、いやいやそんな等と妄想にふけりそうになった頃
ねぇ、同棲中の恋人みたいね、と先に言われ、え、とも、う、ともつかぬ己の珍妙な声に彼女が笑った。






湯を沸かしながら食器を洗う。食器といっても椀が二つに箸が二膳。急須が一つ。
漬物はそのまま冷蔵庫に仕舞った。
店じまいをした其処はずいぶんと静かで、宙を舞う埃すらも息を潜めている気さえする。
そうか、良人を失った彼女はいつも此処で店を終い、二階へ上がって眠るのか。
それは随分孤独ではないか。

確かに猫でもいれば違うのやも知れぬ。
自分以外の違う生き物が同じ場所にいるというその安心感。
それは人類は太古の昔から、帰りが遅いと心配してくれる人を必要としている。
確かにそうだ。覚えのある気持ちの一つ。


しゅんしゅんと薬缶に湯が沸いた。
火から下ろし、急須を温め、茶筒から茶葉を少し出して湯を注ぐ。



夜にお茶を淹れる時もきっと一人か。

今日は俺がいるが、この孤独ともいえる作業はいつもは彼女が一人でしているのだろう。
戸棚に彼女の遣い込まれた湯飲みがある。
百合の描かれた臙脂色の古い湯呑。
その棚の奥には夫婦茶碗の片割れと思しき一対があった。

埃が被らぬようにと奥に仕舞われているそれはひっそりと息を潜めている。
もうこの持ち主は此の世にはいない。

臙脂色の湯呑と有り触れた客用の湯呑を取ろうとした時、その傍に新しき夫婦茶碗があることに気が付いた。
淡い桃色の湯呑と浅葱の湯呑。
一対の絵になるように芙蓉が描かれている。



確かめるように手に取った。
新品のようで茶渋も無い。

梱包されたときについたと思しき紙屑の様な埃がそこに少しだけ付いていた。
これは。




迷った末、それを洗った。
高台は未だざらついて、それが一度も使われたことの無い証のように思えた。

先ほどの盆に湯呑と急須を用意して階上へ上れば、彼女は帳面に向き合いながら電卓を叩いている。
茶葉が開いた頃にお茶を注ぎ、ん、と不調法な差し出し方で先ほどの湯呑を左側に置いた。
どうもありがとうと受け取る。
電卓から目を離して熱いと言いながら一口呑んだ。
湯呑のことについては、何も言わなかった。

それほど深い意味は無いのかも知れぬ。

「あぁ肩凝る」

帳面を目の前に首を回しながら腕を伸ばす。
様々な請求書が二山あって、まだ終わってはいないらしい。

「揉んでやろう」

いいよとやんわりと断ったが、いいからと背に回った。
髪を上げてくれと頼み結んでもらう。

確かに凝っている。
肩こりは血行不良による冷えだ。
風呂に入ってからのほうがいいのではと思ったが、
そんなことを言えば疚しい気持ちがありそうに思われそうでそれも黙る。







無いわけではないが。







あぁきもちがいいと心持ち首を下げながら、肩甲骨のほうもと注文をつけた。
自分の手には余るような細い肩だった。
親指でゆっくりと押し上げるようにしてやれば、いたたたたというから少し加減をする。
日に焼けぬ細い項に掛かる後れ毛が、なやましかったが見ないようにした。

人の肩を揉むなど何年ぶりだろう。
そんなことを言ったら、あら、上手よと煽てた。



「昔」



不意に言う。


「ここいらに白い猫がいたのよ」

さっきの話、続きか、そう問えばうんと頷いた。

「白くてすらっとしてて、仔猫に引き連れてよくここに来てたんだけど、あるときふいと居なくなっちゃって」

それはどれほどの昔なのか。
つい半年くらい前なのか、それとも此処にあなたが独りになってからなのか。
冷たい肩をゆっくりと揉みながら、相槌を打った。

「ご飯出してても来ないから多分車に轢かれたか病気を貰ったか。野良だもん、わかんないよね」

猫は主に死に様を見せぬという。
猫を飼ったことがないから分からぬが、それは潔いともいえるし、主としては寂しいとも思える。
死を目の当たりにしなければ実感できぬというのは分かる。

「でも、私見たわけじゃないから」



まるで。




「知らなかったらどっかで生きてるだろうと思えるじゃない」



責められている。
自分もそう思われているのか。
確かに己が此処に来なくなればこの糸は途切れてしまう儚いものだ。
もしも俺が明日死んでも、此処にはその報は届かない。

だが。
そうはしたくない。
強く思うことも事実だ。

揉んでいた肩から手を放す。



その背中は孤独を知っている背だった。
独りで生きていくのだということを一度は決意した、そう言う背中だった。
女の背らしく、とても小さくて。
後ろから男の自分が羽交い絞めにしてしまえば、見えなくなるのに。

その時込み上げた衝動はとても愚かなものだった。
言い訳のような、誤魔化しのような。
だから、その両肩に手を置いてふぅと溜息に近い短い息を吐く。



「幾松殿、俺は猫ほど白状じゃないぞ」


え、なに、彼女が振り返る。
しまったな、振り返らなくていい。

顔を見られたくなくてままよと其の侭後ろから抱きしめた。
首に鼻先を埋める。
いい匂いがする。

放せとも止めろとも言わない。
ただ笑っただけだった。

猫のように。


「ねぇ、ホントは猫好きなんでしょう」



「だから違うって」



end


WRITE / 2008 .6. 6
101匹猫ちゃん大行進を見てふっと思いついたのでした。
ヅラって結構可愛いものが好きですよね。
…審美眼ならぬ審カワイイ眼はさておき。
あの肉球に癒されたいと思うのは、
疲れている二十代後半のおっさんの心理だと思うんですがどうだろ。

しかし、一ヶ月のブランクは大きい
ペースが掴めぬ。
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