喪心 の 昂揚
落胆 は 快感
絶望 に 酩酊
高潔 な 娼女
ふ し だ ら な 高 潔
「何ほがな所に突っ立ったちゅう、入ってきたらどうがな」
陸奥はドアを開け放したままぼんやりとしていた辰馬をどやしつけた。
空調の効いた部屋から温風が逃げて、外の冷たい空気が入り込む。
「なぁん、まだ仕事中かえ」
辰馬はいつもの格好、いつもの無遠慮さで下駄を鳴らし陸奥の部屋に入った。
音もなく扉が閉まる。
「いや、もう寝るところじゃき」
陸奥の部屋は随分綺麗に整頓されている。
乱れたところなど一度も見たことがない。
ただしデスク脇の書類の束は除くが、他は随分と綺麗である。
ドアから左側にはデスク一式がある。
正面の壁面には背の高い書架が覆い、その前に机と背の低いキャビネットが居室を半分に仕切る。
この艦を新調したとき、自室でも仕事が出来るようにとわざわざ設えた特注品。
デスク周りを衝立が囲い、陸奥はその囲まれた中に座って此方を見ている。
ドアから右側は居住区としての雰囲気を残そうと小さなキッチンの前には暖簾が掛けてあった。
その奥にバス、キッチンの背面すぐに小上がりの座敷然とした六畳の居室がある。
障子で閉められるようになっているから、オフィスで寝ているようには感じないとは思う。
が、寝る間際まで何か仕事をしているなど、これでは完全な仕事中毒である。
左手の書架の切れ目に小さなソファがあり、辰馬はそれに座った。
そこがこの部屋での辰馬の位置である。
「おんし、おなごの寝間に入ってくるとは何を考えちゅうんなが」
陸奥は書類を捲りながらペンを走らせている。
大の男をどつくようなのが何がおなごじゃと言えば、じゃったらどつかれるようなことをしなと毒づいた。
それみろ、言うた口の下からである。だが反論はしなかった。ただの挨拶である。
茶くらいないんかと言ったら無言のまま持っていたペンで冷蔵庫を示した。
暖簾の向こうのミニキッチンにある小さな冷蔵庫を開けるとビールが冷えている。
と、言うよりビールしかなかった。
色気もそっけもない。
社販できっと安く上げたであろうそのビールのラベルを見て、少し考えたが一本貰った。
然程呑みたいとも思わなかったその栓を開けた瞬間、三百五十円と言った。
ひらりと左の掌が「ちょうだい」と此方を手招く。
がめつい女やき、ちらと陸奥を見れば視線も上げず手元の種類を見つめている。
財布を抜くと小銭はなかった。
ポケットの中の銅銭を探り、五百円硬貨を出して釣りは要らんと言った。
「まいどおおきに」
掌ん中の冷たい硬貨を握り、しれと引き出しの中に仕舞った。
ぼったくりである。
社販でさらにケースで買うとお買い得、一本百九十八円の癖に!
ソファに勢いよく座って口をつける。
一本五百円のビールを呑みながら、ぼったくりバーの女主人を眺めた。
陸奥は湯上りなのか寝間着だろう着物を一枚に、見慣れた羽織を着ていた。
ただいつもと違うと感じたのは髪を上げている所為だ。
彼女は洋装などしないし、いつだって色気のない格好をしている。
しかし。
洗い髪を簪で器用に纏めていた。
髪の毛の分け目が違っている。
それからいつもは隠れている額が見えた。
おかしな感じじゃ、いつもは顔色など殆ど無いような物なのに、
湯上りの所為で頬が妙に赤く色づいてまるで小娘のように見えた。
「何を見ちゅう?」
怪訝そうな顔をしながら陸奥は何時でも取らぬ辰馬のサングラス越しの目をねめつけた。
辰馬は一瞬慌てたが平常心をどこからか持ち出して、いいやぁとそこから見える景色をぼんやりと眺める。
空調の風で揺れるキッチンの暖簾、その奥のバスのドアが少し開いている。
だらしなさではなく湿気を防ぐためだろうと陸奥の行動パターンを何となく探す。
ふらりと視線を更に移動させる。
居室の障子が少しだけ開いていた。
部屋の中にはスタンドの灯が充満しており、部屋を暗橙色に染めている。
その隙間から見える奥にはもう布団が引いてある。
掛布団が捲れていた。
多分本当に寝間に入ろうとしたときに何か急ぎの仕事を思い出したのだろう。
横になってから何か思い至って起き出したに違いない。
そう、きっとそうに違いない。
仕事熱心なこの副官は明日やればいいなどとは思わない。
はたと思い出して寝間を抜け出る。
そう、判っている。
乱れた閨の違う意図と意味。
その煩わしいまでの妄想が恐ろしくリアルで、何故か見てはいけないものを見た気がした。
視線の位置を切り替えようと脚を組み替えた。
「坂本」
陸奥はぼんやりと所在無げに座っている辰馬を呼んだ。
全く何をしに来たのか、とペンの尻で頭を掻く。
「おんし暇なら此の書類に目をとおしや」
今しがた書いていた書類をファイルに挟んで立ち上がり呼びつける。
辰馬はどれじゃと陸奥の傍に寄った。
刹那。
菫の香りが、肌に触れた。
「来週例の酒造メーカーの社長さんと会うろう」
それが陸奥から立ち上るのだと気がついた。
少しだけ湿った花の馨。
「あちらさんが見積もり出してきたきに、しゃんと見とおせ」
頬を掠める微かな湿度。
微かに濡れた前髪。
「おんしのゴーサインが出るなら、ざんじ営業にゆうて手配せんと」
抜かれた衿からうなじが見えている。
手許への意識は、視識に根こそぎ奪われた。
「サンプルは倉庫にあるがで。それを見てからでもええとは思うきに」
柔らかそうな産毛、後れ毛が誘う。
首やら触ったらどがな気持ちになるろう。
細い首に触れたら。
どんな気持ちに。
「おんしゃぁ、聞きゆうか」
手許が疎かになる。
薄いファイルは指先をすり抜け中身がひらりと舞い床に落ちた。
「しっかり持ちやー」
なにをしちゅうんなが、唸るように言い陸奥が書類を拾おうと自分に背を向けたとき、
動きと同時に妙に無防備で湯上りの熱が頬に触れた。
多分、それにあてられたのだ。
あちこちと散らばる書類を拾おうと、デスクの影でしゃがみこむ陸奥の剥き出しの足首。
白い脛が見えた。
触れたらどんな気持ちになるだろうと。
下駄の歯が床を微かに擦った。
ひざを折り、屈みこむ。
陸奥の背に淡い影が差す。
蛍光灯の白い光が齎す陰り。
自分が腕を伸ばすのと、陸奥がその仄暗い陰に振り返るが同時。
膝を着く。
手を伸ばす。
あと五センチ。
足首の硬直。
「さかも、」
肌はしっとりと湿っている。
日に晒されることの無いその足首は青白く細く。
自分の堅い指先では細かな瑕がつくのではないかと思うほど柔らかい。
「おんし」
声が硬く強張る。
陸奥はゆっくり振り返る。
室内履きの踵がリノリウムの床を滑る。
「なん、しゆう」
いつも薄化粧の陸奥の顔には朝と夜とのギャップがない。
ただ大きく見開いた瞳は清廉で、接触点ではなく自分の眼に注がれている。
青褪める事もない顔色。
頬は桜の花の様に、振り返り尋ねた。
「触ったら。どうなるかと思うた」
触れれば判ると思った。
頭がくらくらとした。
匂いと熱と。
思いがけなく盗み見た白い脛に。
本能的な衝動である。
そこは温かいだろう、それは気持ちがいいだろう。
仔猫の腹を撫でたいと思うような純粋な衝動である。
一度触れれば気が済むと思った。
温かいと思った。
「なにを、判る」
その問いかけには答えられぬ。
もっと触れてみたいと思うだけで。
飽く事を知らぬガキのように。
陸奥は本能的な身の危険を感じて、じりじりと後ろへ逃げるように座ったまま後辞去った。
辰馬は膝を着けたまま、這う様に追う。
おかしな格好だ、自分も、陸奥も。
こんなところで、不自由な鬼ごっこ。
陸奥の逃亡はすぐに終わった。
パーテションの壁に突き当たる。
袋小路の部屋の死角、手を伸ばさなくても届く距離。
睫の生え際まで、見える。
野菫の匂い、湿り気の或る体温。
彼女の眼の中の自分が大きくなる。
そのなかから輪郭は消え去り、パーツしか映らぬほどの接近。
首を吸った。
急に柔らかそうだった首が硬直した。
驚かしたながか、悪かったのう。
水を吸った肌。
柔らかく、鼻をくすぐる馨。
右手で首を触る、耳朶に触れる。
「辰」
震える声だ。
なんじゃ、陸奥。
おなごのような声をしおってから。
「やめとおせ」
肩を圧す左手の力は聞き手ではないにしろ驚くほどか弱い。
女の声。
女の匂い。
陶酔、傾倒、耽溺、忘我。
舌の上にある肌はどういうわけか甘く痺れされる。
痺れているのは頭の方で、耳朶をその縁を、口唇で輪郭を確かめる。
目を閉じ、うなじを、鎖骨を、誰が作ったのか知らないそのラインを鼻先で分け入りながら辿る。
カラン、細い金属の鳴る音。
簪が落ちたんだ。
手の中に髪の毛が縺れた。
湿って、冷たい。
肺から空気をすべて吐き出し胸いっぱいにそれを吸い込む。
洗い髪の匂い、洗髪料の馨、此の部屋の匂い。
ようやく交じり合って、之が陸奥の匂い。
とてもよい匂いだ。
花の馨とも違う。
雨の後の庭、春の夜、秋の始まりの日、雪の降る間際。
名のわからぬ胸を掻き毟る匂い。
どうして同じ生き物なのに、男と女ではどうしてこんなにも違うのだろう。
誰か、教えてくれ。
同じように彼女の首に鼻先を潜り込ませた男が居ただろうか。
陸奥の男関係など知らない。
知りたくも無かった。
何しろこいつは自分にとっては女ではないのだから。
女であってはいけないんだ。
同志であり一番の理解者であり無二の相棒。
「女」にするつもりは無かったし、向こうもそうだったろう。
その証拠に、どれだけの女と寝ようと、一度も寝た事はない。
朝といわず昼まで飲もうと、散々女遊びで羽目を外そうと、女を三人、猫のように抱いて寝ようと。
最後に自分を引きずって帰るのは陸奥の役目でそいつは昔からだった。
郷に居たときからまったく変わらん。
しかし。
今更だが自分の身体にすっかり覆われ身動きもとれずあがく。
そいつを見てようやく分かる。
背は自分の胸辺りにしかないし、頭二つ違う。
腕も細いし、力も弱い。
こうやって腕の中に納まって未だ余る。
こんなに小さい形じゃったがか。
いつも気丈で冷静で冷血で、
こん女が。
どこのともしれん男になぶられる。
こん女を好きにする男が居るということを妄想した瞬間、
噴上げるような悋気が背を震わせる。
だってこいつは自分のものなのに。
誰がお前に触れるのか。
蜂蜜色の髪の毛を撫で、指を絡ませる。
怯えと驚きに満ち、不安を漲らせた潤んだ目で睨めつける。
柔らかそうな口唇を吸うのが。
此の世の中の。
自分以外の。
誰が。
触るな。
誰にも遣らん。
触るな。
誰のものだと思ってる。
触るな。
見るな。
寄るな。
触れるな。
呼吸が煩い。
自分の呼吸。
暴挙である。
凶行である。
愚挙である。
暴力である。
けれど止まらぬ。
手が止めようとしない。
瞬きを惜しむ。
触れたい、触れたい、触れたい。
見たい、その顔を。
此の手に翻弄されるその顔を。
陸奥と呼んだが声にはならぬ。
逆上せ、掠れた。
「辰」
息の漏れた声。
恐ろしく掠れ、声とも判別付かぬ陸奥の。
陸奥の。
喘ぎだ。
「陸奥」
明らかに熱の籠った声に踊らされた。
頬に掛かる息に、我が耳を擽る髪の毛に。
その顔が見たいと口唇を離した瞬間、酷い衝撃が横っ面から飛んできた。
と同時に横方向からの力の作用で強か右の側頭部が右のキャビネットに叩きつけられる。
装飾の美しい引き手金具がこめかみの下のほうに減り込む。
痛いと思うより熱いと感じて、と同時に目の前にあった筈の陸奥の顔がどういうわけか斜めに崩れた。
何が起こったが。
問う前にずるりと自分の頭が落ち、後頭部が床に落ちる。
陸奥は視界から消え、ずれた眼鏡からは天井が覗いていた。
衣擦れの音が耳の傍でした。背中から何かが引き抜かれる感覚。
不意に影が差し、天を突くような人影が冷酷な眼差しで見下ろす。
右手には太さ八センチはあろうかと言う分厚い辞書が握られていた。
背後の書架にはその厚み分だけの隙間が空き、隣の本が傾いていた。
「坂本よ」
陸奥の頬は青褪める事もなくただ只管に白く、裾から見えた白い脛はもう見えなかった。
つま先がすぐ目の前にある。
室内履きは脱げ、裸足の足が地に着いていた。
その裾が微かに翻り紅絹が見えた。
真っ赤だ。
燃えるような、炎の色だ。
「あしを誰だと思っちゅうが」
乱れた衿はそのままに、微かに膨らんで見える乳房の影。
縺れた髪の毛が緩やかなうねりを伴い胸の辺りまで垂れている。
さっき触れていた場所なのに、「あれ」にはもう届かぬ。
そうと知れたとき、神々しいまでのその潔癖な姿に絶望するようなふしだらさを感じた。
「おんしの遣い棄ての女になるなぞ真っ平ごめんじゃ」
仰け反るような高揚感が脊髄を駆け抜け、昇く間際の苦痛ともいえる感覚が全身を支配する。
爪先も動かせぬほどの。
絶頂の間際だ。
嗚呼、頼む。
高潔な声は青い火を纏う。
眼に映る景色に歪があるのは、その陽炎であろうと思われた。
虞を抱くほどにそれは。
まごうこと無き。
逝かせてくれ。
「冗談じゃ」
ずれた眼鏡のフレームを上げる。
上手く笑えているかは判らぬが、陸奥の顔を真下から見た。
「ちくとあてられただけやき」
あてられたんだ。
あの熱と匂いとに。
他人との境目が無いかのように、ふわりと傍にいた。
薄い衣の下には温かいからだがあるのだろうと思わせる出で立ちで。
髪を上げてうなじを見せて。
そんな格好では他の男の前には間違っても出まいというような。
或る種の近すぎる距離に。
近すぎて見えなかったそれに。
「じゃぁなかったらおんしになんぞ発情せんちや!」
その刹那。
襟首を掴まれドアの外に放り投げられた。
廊下の壁に今度は逆の側頭部をめり込ませ、
目を通しておけと言われた書類がドアの隙間から舞う花吹雪。
ひらりとそれらが肩に降り積もる前に、忘れモンじゃと閉まりかけたドアから矢のような勢いで下駄が飛ぶ。
上手い事、顔で受け止めた。
自動ドアは無言で閉められた。
死ねと言う捨て台詞で。
下駄の片方がかろんと云う軽い音を立てて床に落ちる。
合図のように足元で大きな機械音が鳴った。
空調のモータが蠢いている。
おかしくなった頭はまだ少々煮えてはいるが、廊下には人もない。
最後の一言は、ちくと余計じゃったか。
額に命中した下駄の痕を擦りながら、意味も無く笑った。
しかし。
「参ったちや」
真っ白い乳房が覗き、その瞬間に肌が一気に染まった。
頬に感じた熱が上がったのが判った。
抱いたらどんなに温かいだろうと、気が狂いそうで。
頭を掻きながら自己主張しっぱなしの自分の分身を見た。
「コイツをどうしようかのう」
上の頭は既に諦めはついているがこちらはそうでもないらしい。
散らばった書類を拾い集めてファイルに綴じた。
聞かん坊はこれで隠して行けば良かろう。
「あしを女にするな、か」
随分昔に言われた台詞。
今更になって思い出す。
男は男で生まれてくるわけではない、だが女は生まれた時から死ぬまで女だ。
それは変えられぬ。
どう足掻こうと変えられぬ。
「しかし、ありゃぁ」
目の毒だ。
溜まりに溜まった毒が漸く全身に回ったようで、辰馬は思わず頭を掻いた。
一度覚えた味は二度とは忘れられぬ。
舌が覚えたあの味を。
此の手が覚えたあの温度。
ひい、ふう、みい。
次に地球に近づく日を思わず数えた。
どこの誰で発散させりゃァいいであろうかと馴染みの娘の顔を思い浮かべた。
が、すぐにやめた。
ことごとく摩り替わる都合のいい妄想に辟易したのだ。
「そろそろ限界かの」
初めて女の裸を見たのはいつだったろう。
初めて女に触れたのはいつだったろう。
初めて女を抱いたのは。
そのときあんなに興奮しただろうか。
なんというしょうべん臭い自分、みっともなくて思わず笑った。
「いやぁ、まっこと」
惹かれ惹かれて此処まで来た。
あとどのくらいの猶予があるかは正直判らぬ。
「危なかった」
end
WRITE / 2007 .12 .14
15Rでお届けしております
拍手だけでは飽き足らずとうとうエロ方向へ行き始めたか
使い古されてはいても好きなものは好きなので一通りやらせていただきます
こっちはとりあえず寸止め祭りですね。えぇ、まぁ。
あんまりがっつくと痛い目に遭うので
しかしながら限界だろうがなんだろうが、
まだまだ坂本さんには我慢していただきたい所存
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