葉月桜桃
沈黙を恐れるな    それは了承の証




「キスしてもいいか」


我ながらこれは不用意な発言だった。

言われた方はぽかんとして“何の冗談か“とも言わなかった。
それほど呆れているというように取れる。


 同感だ。


 女は流し台の前に立っていた。
寝しなに呑む一杯のウィスキーの為の氷を取りに来たと言った。
ドアが開いた瞬間隠すようにしたグラスを見咎められて

“サンジ君に怒られるんだから”

と呆れたように言って、製氷機の中から大きなブロックを取り出した。
自分はどうなんだと問うたら自前だものと嘯いた。

琺瑯の桶の中に氷塊を入れてアイスピックを突き立てる。
暴力的な音が、寝静まったキッチンに響いた。




背中越しに俺は言った。




「キスしていいか」





言葉には二種類の物がある。
意図して吐くものとそうでないもの。

いましがた自分の口から文字通り“漏れた”のは明らかに後者である。
言ってしまったものは仕様が無い。
何分、突発的な衝動と言うもの程抑えがたく、
赤く熟れた桜桃の実を思わせる口唇は一体どんな味がするのか。

明日には熟れすぎて中の実は薄い皮を破るかもしれない。
ではその前にその皮を自分の口の中で破ってみたいと思うのは浅はかか。
そうではないだろう。

極、当然の心理である。



ただ、彼女の口唇は六月の桜桃ではない。
それは俺が口にしてもいいものではない。

だから問うたのだ。

「ナミ」



「キスしてもいいか」と。





 無論柄ではない。



女に向って乞うる様な言葉を吐いたのはコレが初めてであろうように思う。
希うことを負けだと感じるような帰来も無い訳ではない。
元来負けず嫌いの…それはこの女も同じであろうが…自分がそう言葉にすることで敗北を認める。

 そうとも取れる。

が、それとこれとは少し違う。
純粋な希い乞うことを誰が敗北だと笑うことが出来ようか。
嘲笑えるのはそう願った自分自身だけである。




「イヤよ」





 女は突然の申し出に驚く様子も蔑む様子も無くちらりと振り返っただけだった。
鼻にも掛けぬ、にべも無い、喩えればそう。

 それよりコレ割って、アイスピックを差し出した。
夏の日、風が暖簾を押すような動作。
どうやら思ったより結晶は硬く氷欠片が飛ぶだけで亀裂が入らないらしい。

 此方ばかりが動揺するのも癪であるし、向こうがそういった態度を採って呉れたのは少々有難かった。
気恥ずかしさ等が拭われる。


「貸せ」


 氷塊に突き立てた尖端は、氷の表面を白く変えながら少しずつ罅割れてゆく。
二分割、四分割、八分割。
だんだんと固まりは小さくなるにも関わらず音は相変わらず大きいままである。
その中の一つをグラスに放り込む。

それを見届けまた椅子に座った。
色気の無い、いつもの食卓である椅子に。


 ナミは行儀も作法もなく流し台に縋ったままグラスの中身を飲みはじめる。
水のように、とまでは行かないが少なくとも味わうと言う呑み方ではない。
もったいないと思うけれども、
酒の味なんか分からないと揶揄されて久しい自分が言うことでもないので只黙っていた。

 マドラーが琺瑯の桶の底に当った音を聞いた。







お休みと母親のように頭をひとつ叩くと背中を向けた。




「ゾロ」



ドアの前に立ち、ぽつり。




「しないの?」



「なにを」


忘れてたわけじゃない。
終わったものだと認識したから出遅れただけで、
振り返ったら塞がれた口唇に息を呑んだなんて事ありえない。
呼吸の合間、一瞬の無呼吸だった所為だと信じたい。


 ナミの右手は俺の左耳を掴んでいた。
顔を動かすと耳朶のピアスが捻れて痛い。
しかし、噛み付かれているので声は出せず、舌もナミのものと絡んでいるので解く事は不可能に近かった。


なにより。


さっきまで彼女の飲んでいたウィスキーは桜桃に似た口唇の熱を奪って、
恒温動物はお互いだと言うのにまるで別の種族のように冷たかった。


はじめは口唇の表面が触れていただけなのだ。

初めの衝撃、二度、三度。

四度目の接触で舌を触る。




口を開けたままキスすること。
歯の裏を舐めること。
口唇は冷たいのに口の中はとても温かい。

奇異な錯覚、温かいアイスクリーム。
零れないように舌ですくう。


左手はずっと降りてきて、俺とナミの体の間に割り込む。
窮屈なまま行き場をなくしたリビドー。その象徴たる頂点は堅く空を仰ぐ。



「手が、暇そうね」



ナミは俺の手を取る。
そいつをどこに連れて行くのかと思ったら、着ていたシャツの下だった。
下着もつけず、湯上りの肌は未だ少し湿っている。目を上げた。


「俺はそんなに俗物的だったか」


口唇が彼女の口唇の上で動く。
言葉を発する動きで、相手の口唇を甘く噛む。



「モノにはネェ」


同じようにナミは目だけを上げる。
眼球がゆっくりと緞帳が上がるように動く。
口唇が俺の口唇の上で動く。
言葉を発しながら、舌で口唇を舐めた。


「食べごろってものがアンのよ」








夏のはじまり。

流水に晒され冷たくなった桜桃を頬張る。

舌で皮を剥いて柔らかくなった果肉を押しつぶす。

柔らかな果肉の中にある繊維を舌先で感じる。




「ねぇ」



 中の種を丁寧に舐め取る。

 形がはっきりするまで、甘い蜜が無くなるまで。







「三つ数えて」



口唇は合わされたままだ。
ナミのシャツの下は、うっすらと汗をかいてきている。
冷たい桜桃の表面に、露が付く様にも似た。


「なぜ」



彼女の手はもう耳を掴んではいない。
代わりに俺のシャツの下だ、生身に触れている。



「明かりに手が届かないからよ」



人間の体と言うものは不思議なもので、
常に三十六度前後を保ちながら他者に触れぬとその温度が実感できぬ。
人間と言うものは、温かいものだと知らぬ。わからぬ。


 俺は今知った。



「三つ数えたら」




 ひとつ。




「目を閉じててよ」




 ふたつ。




「条件はそれだけ」 




 みっつ。






沈黙は肯定の証。

目蓋と言うシャッターを下ろす。
口唇と指先とこの膚と細胞で。
桜桃の実についた、撓る茎を上手に結ぶ。






  口の中で、上手に環に出来たらご褒美をあげましょう。






目に見えない口の中。
闇の中で。
手探りで。
感触だけを頼りにして。



実を磨り潰して、種を舐め、撓る茎まで味わえ。


上手に出来たらご褒美を。






また、甘いさくらんぼを。


end


なんかいつ書いたかどうかも怪しい代物なんですが、ファイルの整理をしてたら出てまいりました
この行間の多さは一体なんだろう、昔の私みたいだ…
ところでどうでもいいですが、あたしはこう言う行間大目のほうがいいんでしょうか?
それともパラレルのきっちきちな方がいいのか
ところでこれはサンナミにすべきだったですか?
因みにこの話のメモ書きに
“しないの?” “なにを?” “キスよ”
と言うのがあったんで、たったそれだけを書きたかっただけでは無いかと推測され…
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