柄にも無く 悪夢を見た










安 達 が 原
−夜の虹には目を塞げ−



















人がばたばたと死んでいく。
昨日まで生きていたものが次々と死んでいく。


夢ではないのが悪夢だと言う所以。
矛盾ではない。
それこそが体感する唯一の現実で、忘れえぬ場面が順繰りに繰り返される。

剣というものは、命の遣り取りをするのだと侍は言う。

いいや、あれは命の遣り取りなどと言う高尚なものではなかった。
やぁやぁ我こそはと名乗りを上げて戦っていた頃ならいざ知らず、
睨み合いの末生き死にを決するようなものではなかった。

暴力的で野蛮で無闇矢鱈に鋼の棒を振り回し、鉛弾の雨の中を走っていく。
泥の中を駆けずり回り、死にたくないから他人を斬る。
思想、建前、大義、言葉にすれば崩れ落ちるような安っぽさだ。
炎の雨が舐るように周りを囲み、
熱いよう、苦しいよう、お母さん、助けてくれ、死にたくない。
侍も、子供も、大人も、年寄も、誰彼構わなかった。

命の重さが平等だった。
戦場においては、その軽さは水鳥の羽のようだった。


我々は蹂躙された。
命を、蹂躙された。


忘れえぬ場面だ。
悪夢と言わねば、耐えられぬほどの場面。
夢だとでも思わなければ崩壊の臨界点を簡単に超えてしまう。
生涯一度きりであって欲しいと切に願う場面が、毎秒繰り返されて神経を麻痺させる。
それが延々と、繰り返される。





 ぼくは、つかれたのです。

 わかれをいうのに。






皆疲れていた。

人が死ぬことに疲れていた。
命を奪うことに疲れていた。
自分が死ぬことに脅えるのに疲れていた。



 みずがのみたいのです。



燻る焦土、天に昇る煙、生き物が焼けた匂い。
自分は死んでいるのか生きているのか分からない。
少なくともとても喉が渇いている。




 わたしはとてもみずがのみたいのです。




雨を降らせて呉れはしまいか。
そう願うも雨は降らなかった。
誰そ彼の空に虹が掛かった。

夜に掛かる虹の言い伝え。
青白くうっすらと、夜の空に掛かる光の帯。
今此処でそれを見ているものがどれほどいるだろう。

命の容れ物だったもの。
いくつも、ぼくのまわりによこたわる。








     *












「あ、」

歩き疲れた。
昨日の疲れが抜けていないのに、此の強行軍は少々辛い。
だが、あと一里は無い。
次の宿場町に到着するのも、もう時間の問題だ。
陸奥は懐から懐中時計を出した。
歩みの速度は確かに昨日よりは落ちている。

昨日は眠れなかった。
眠れる筈が無かった。

辰馬の冷たい頬が膝の上にあった。
少しだけといった辰馬はなかなか離してくれず、
此方がうつらうつらしてきたところまでしか憶えていない。

けれども、朝目が覚めたらちゃんと自分の蒲団に入っていて、
辰馬は陽気におはようさんと着替えを済ませていた。
昨晩のことなど、微塵も感じさせぬほどの快活さで笑った。

昨日の夜弁当を頼んでおいたのでそれを受け取り宿代を支払ったあと、
好意だと言う握り飯を朝飯にと貰った。
日がまだ昇りきらぬうちから歩き、日が天の真上に昇りきったところで昼食にした。

速度が落ちている。

お互いに、と思いたいが辰馬は此方に合わせてくれているかも知れぬと陸奥は思った。
休んでいる間も、気を紛らわせる為にお喋りする体力をまだ残している。
こちらは寝不足もあってそれに相槌を打つ程度しか出来ない。

それに、強行軍の所為で足の肉刺が潰れた。
痛みはあるが進めぬほどではない。

それらはすべていい訳にしか過ぎない。
理由だ。正当性を求めるものではなく、自分で自分を追い詰める為の理由。


季節柄、日が落ちるのが早い。

太陽が真上にあったと思ったのも束の間、
日が翳り始めるにつれてひんやりとした空気が足元からじわりと這い上がる。
冷えは体力をも奪う。
あとどのくらいで着くだろうと思いながらも、前を歩く辰馬の背中を見ながら追いつくことに専念した。
自然と下がる視線に自分自身も辟易として、顔をわざと上げて歩いたが、それを挫く違和感。
「あっ」という思いの外華奢な声は自分のものだった。

前のめりにつんのめりながら、草鞋の緒が切れたのだと分かった。
踏ん張ろうにも肉刺の潰れた足では自由が利かず、砂利道に思わず手を着いた。
掌に血が滲んだ。

辰馬は声に反応してすぐ振り返り手を延ばしたが、間に合いはしなかった。
それほどまでに私は遅れていた。

手を貸そうとする辰馬に大丈夫だと言ったが、立ち上がろうとした足に痛みが走った。
もう随分と前から足が痛いのを知っていたのではないかと思うほどに、
辰馬は無言で素早く腕を取り、傍を流れていた小川の縁に腰を下ろさせた。

足を洗うのと、替えの草鞋を履くのと手の血を流すのとをすべてひとところで出来たのは在り難い。
天の采配と言うべきだろう。
いや、草履の緒が切れて采配も無いか、埒も無いことを思いながら、
草履を解き脚絆と足袋を取ったとき、辰馬が思わず舌打ちをしたのを聞かぬふりをする。

潰れた肉刺は血と体液が出ていた。
潰した筈の水疱は同じ場所に水泡が出来てまた潰れていた。
外気に触れて冷やりとした後、火傷のような痛みが走る。

辰馬はそれを見ながら、言うてもきかんろうの、そう独り言ちて空の水筒に小川の水を入れに行った。
すまないと受け取ろうとしたのだが、無言で私の足首を掴み、ゆっくりと水をかけ傷口を洗う。
霜月も末、川の水は肌を刺すように冷たく、思わず痛みと冷たさで声が上がった。

足の皮がべろりと剥けて落ち、痛みがじんじんと脈を打つ。
いつからじゃと尋ねられたが、今日の昼にはもう既に痛かった。
おかしな歩き方をしたからだろうかと思ったが、
辰馬はまっさらな手拭を出すと水滴のついた足を丁寧に拭いた。
それこそ、指の股まで。

「足が湿ると、肉刺ができるきィ」

暫くそうしちょれと片足だけを裸足にさせ、血と体液で汚れた足袋を小川の水で洗い始めた。

もうすぐ日が落ちてしまう。
次の宿場町には一里はもう無い。半分は来ている筈だ。
日が落ちない内に宿へは入りたい。

「歩かせられんぞ」

厳しい声で辰馬が言ったが、威勢よく歩けますとも言えなかった。
事実私は随分遅れを取っていたのだ。

昨日のスピード、いや、辰馬だけならばもう宿場町について足を伸ばして風呂に入っていただろう。
私だけが疲弊しているのは紛れも無い事実。
役に立たんのと溜息を吐きたいのを堪えて足元を見た。
日没間近の街道はもう人影も少なく、影がだんだんと深くなる。

足を引っ張っている、と思う事は簡単だが口に出すのは憚られる。
万が一にも口に出せば辰馬は否定するだろう。
本心であろうが無かろうが、否定する。
その否定が耐えられない。
諦めなのか楽観なのか、そのどちらだとしてもだ。

期待されることに応えられないとは相手を失望させていることと同意だ。
少なくとも、辰馬の真意は兎も角としても、今の自分は役に立たぬ、足手纏いと言う有様。
醜態には耐え難い。
自分で自分に失望していた。

情けない己の影を見ていたら益々惨めになった。
柄にもなく心弱さも手伝い、じわりと涙腺が緩みそうだったので空を見上げた。
湿った目が乾けばいいと、わざとしっかり目を開けて。


「あ」

思わず声が出た。
辰馬が此方を見た。

「ありゃぁ、なんなが」

声に反応し、指を差した方を辰馬は見る。目を眇める。
あそこだと何度も指を差すが分からぬらしい。
手に持っていた足袋を絞ると、辰馬の指先が真っ赤になっていた。
固く絞った足袋の水滴を飛ばし、手を袴で拭いた。
視線を固定しながらも首を傾げたが、ほれ、あこ、と指さす。
辰馬は私の後ろにしゃがみ視線を合わせるように、私の指先の先、天を仰いだ。

「あの光るの、なんじゃろうか」

辺りは暗くなり始めているのに、西の空はまだ明るさを残している。
夜と昼の堺にうっすらと帯のような銀色のものが見える。
霧のような淡さで、うっすらとした帯状のものが。

虹だろうか。

夜に虹が掛かるものか。
だが、橋の様に掛かるそれは紛れもない虹だった。

虹のメカニズムは知っている。
光が大気に浮遊する水滴によって屈折反射するときに見えるのだ。
あちらの方は、雨が降っているのだろうか。
でも、こんな夜も間近に。


辰馬が、すぅと息を呑んだ。
そのとき、冷たい手が、目を覆った。
反動で、辰馬の胸に背中を預けてしまう。

余りに不意打ちだった。


「見ちゃァいかん」


不意に辰馬が掠れた声で言った。

後ろからそっと目を覆う大きなてのひら。
東から迫る夜。
被さるように、背中に、彼の胸がある。

驚くほど冷たい掌と、背を預けたままの胸が私の体重を受けても微動だにしなかったことに驚いた。
私は暮れかけた空を見上げたまま、目隠しをされたままなぜかと問うた。
よせとも、言わずに。

「夜の虹は、人が死ぬ」

呪文のように唱えた。
酷く静かに言ったので、言葉の真意を掴み損ねた。

何を、言っているのか。

昼間の虹とは違って淡い銀色だった。
凶兆という意味なのか。
さぁ、知らない、夜に虹が見えることすら知らなかった。

私は、信心を持たない。
無宗教だ。
付き合い程度で初詣やら祭には参加しても、神仏の在り処をこの世の何処にも求めていない。

辰馬も信心などとんと持たないと思っていたのに、おかしなことを言うとぼんやりと思う。
思いの外広い胸に身体を預け、長い腕に包まれるようにしているからだろうか。
思考の筋に横槍が入る。
普段なら一笑に附すところだが、酷く優しげに言うから言葉を思わず探してしまった。

迷信だ、
何処の宗教だ、
腹が減りすぎて頭がおかしゅうなったがか。

けれども手を振り払いもせず辰馬の手の冷たさを感じていた。



「おんしは見ゆう」
「ワシはえぇ、見えんきに」



辰馬は夜目が利かないのだという。
近目の一種だと言うが、よくは知らない。

自分が見えている世界と他人が見ている世界が違うなどと、考えたことがなかった。
私の「世界」は明瞭で細部まではっきりとしている。
近くのものはもちろんのこと、はるか何光年に輝く六等星も。

見えないものは無い。



あの、虹が見えないのか。


そう思うと、酷く残念なことのように思えた。
うっすらとした銀色、薄く透けた空の向こう、半環状の橋のようでとてもきれいなのに。
けれども、見てはいけないのだと言う。
ひとが死ぬから、誰かが死ぬから。





「おんしゃァ変なことを知っちゅうのぉ」



このおかしな体勢を維持したまま辰馬は動かない。
だから言葉を探した。

「ロマンチストやき」

笑うような声がした。くすぐるような、優しい声だ。
耳の傍に辰馬の手首がある。
肌が耳朶に触れた。そこもまた冷たかった。

「糞の役にも立たんことばっかり知りゆう」

おなごがほがなことを言うちゃぁいかんちや、窘める様に言った。
この男はいつもそうだ。
男も女も関係ないといいながら、女が下品なことを言うんじゃない、
安う見られるきィとやんわりと諭すのだ。

大きな掌は半ば顔を殆ど覆ってしまう。
冷たい手はそれきり動かなかった。
探す言葉もなくなってただ黙った。

辰馬が今見ているものはなんだろうか。
夕暮れの影の濃くなる景色だろうか。
東の闇の濃くなる空だろうか。
それとも自分の内なる目蓋の裏か、そこにはなにが見えたのだろう。

昨晩の様に、魘されるほどの哀しいものでなければいい。


霧雨が頬に当たる。
アァ、やはり雨が降っていたのか。
虹はただの自然現象だ。
光が屈折してそう見えるだけに過ぎない

一粒だけ、大粒の雨が頬に零れた。
覆われた掌の所為で雨の様子は分からない。
目蓋に透けぬ月の光も辰馬の厚い掌に遮られている。

「陸奥、背負っちゃるきィ、宿までもつか」

辰馬の声は優しい。
いつだって優しげなものの言い方をする。
激昂するなど殆ど見たことが無い。

歩けるぜよ、と言ったが辰馬はどういうわけか笑い、おんしゃァ、ちくと熱があるぜよ、そう言った。
お前の手が冷たいからそう感じるのだろう、反論したが辰馬は何度もぬくいぬくいと言って聞かない。
片手は目を覆ったまま、空いた片手で肩を胸に引き寄せた。まっことぬくいと、繰り返す。

「ほれに、ワシも早よう風呂入って蒲団で寝たいしのォ」

背中で初めに微かに笑うような声がして、それから続けて陽気に言うと不意に手を離した。
一瞬眩しくて目を眇める。
辰馬はすっくと立ち上がると、背に負っていた荷を解き頼むと此方へ押し付けた。
本当に背負う気だ。

熱など無い。
ただそう言わせたのは、恐らく自分だ。
足が痛そうだから背負ってやるなどと言われれば、意固地になって歩くと言い張るだろう。
方便だと判っていてもそれを問い質す事はしなかった。
ただ、悪かったぜよと一言謝っただけである。




一里も無い道のりを歩く。
夜の迫る夕闇だ。彼ハ誰の宵闇。
足の肉刺を潰したくらいで背負って貰っては、この先務まらぬと陸奥は思った。
わが身にこれから圧し掛かるであろう荷の重さをはかりながら、
陸奥はこの道程のことを思い返す。

口では威勢よく偉そうな事を言いながら、復路での醜態はこれで二度目だ。
いや、三度目か。

一度目は脱水症状で倒れ、辰馬に背負われて峠を越えた。
二度目は仮初の宿に着いたあと、記憶が無い。
三度目がこれだ。

呆れ果てたのではないだろうか。
背負われながら、それでも自分が歩くよりは速い速度で歩む辰馬に酷く申し訳ない気持ちになった。
この旅も、独りで行けば半分の時間で済んだのではないのか。
いやきっと、そこまで考えたとき、辰馬が口を開いた。

「陸奥よ」

辰馬は酷く明瞭な声で明るく言った。

「近い将来、この道にも鉄道が走る」

陸路を人の歩く速度の何十倍の速さで、他人が背負う量の満十倍の荷を積んで行き交うことが可能になる。
今は海路の輸送が大量輸送の担い手だが、恐らく数年で逆転する。
さらに飛行機が飛び、船は宙を走り、一日で日本の最南端から最北端まで到達できる。
機械が人に代わって勘定して、どんどん世の中便利になる。


「徒歩で旅するようなことはもう無くなるきィ」


街道の道を辰馬の足は踏みしめる。
一歩一歩、歩みながら。
今出来ることをやったらえぇがじゃ、今は力をためりゃぁえぇ、言い聞かせるように笑った。
西の空に沈んだ太陽のように、明るく陽気で、朗らかな声で。

「今度は肉刺より、目が悪ぅなるのを心配せにゃぁな」




辰馬は陽気に言う。
夜の虹のことを聞きそびれた。
いまや遠ざかる虹を横目でちらりと見た。

虹は、もううっすらと脚のほうが見えるばかりだ。
あんなに美しくアーチを描いていたのに。





虹を見てはならぬと言った。
夜の虹は、人が死ぬという。



私には見えなかった。見える筈無かった。
辰馬が何を見ていたのか。
見えるものなど無かった。





虹は、龍とも言われるし、この世と此の世ならざる場所を結ぶ橋と言う。
夜に掛かる虹の袂で見送ったのだろうか。
戦友たちを。

此の世ならざる場所へと、とぼとぼと歩く同胞達を。








『虹を見てはならぬ』





夕闇の虹、
見ちゃァいかんと目を塞がれる。





陸奥はそっと目をふせた。
辰馬の背に負ぶわれながら、首に回した腕に顔を伏せた。


虹を見てはならぬ。
夜の虹は人が死ぬ。

目を塞げ。
頼むから、もう塞いでおくれ。






此の世ならざる場所へと、とぼとぼと歩く同胞達を。
見送ることは、もうない。


けれども、もしも。

それでも、もしも。




お前が次に誰かを見送ることがあるならば、私も同じ場所で見送ろう。
そうだ、お前をひとりにはさせぬ。
必要ならば目を覆い、嗚咽を噛み殺せるように、膝を、肩を貸してやろう。

夜目の利かぬお前の為に、私が最後の一人まで見送ってやる。
涙でにじむその背中を、最後の一つまで見送り、見届け、祈ってやる。


ああ、見送らせるものか。


夜の虹のふもと、消えかかる虹脚の向こう側。

それは私が見る。
私が見送る。
夜目の利かぬお前に代わって、私が。

必ずだ。
約束する。


お前は目を塞げ。
夜の虹を、ひとりで見送ることはさせない。



end


WRITE / 2008 .11.21
安達が原 と言う話はロードムービーなのです
そう言う話が書きたいなと思って書きました
陸奥の過去は明かされていませんが
辰馬も陸奥も攘夷戦争から此方定住する場所を持たず
ずっと旅をしてきたのではないかと思います

辰馬は一人旅の気楽さを知っていながらも、この旅は今二人で歩いているのです
どちらもがお互いを頼っている
依存ではなく信頼、あるいは同志、そう言う類の関係
お互いあの戦争で失ったものは大きく、時々その失った穴を通り抜ける声によろめきながら
寄り添い歩くのです





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