それでも





私は、そっと羨む








安    達    が    原

-真 昼 の 星-


「一部屋、かえ」

はいと言う返事とともに、旅籠の番頭は申し訳なさそうに頭を下げた。
辰馬は旅装束のままさぁてと首を捻った。
これで此の宿場の宿は殆どあたった。昨日は野宿である。
しかもどうにも「出そう」な場所で一晩藁布団で過ごした。
今日は綿の布団で眠りたい。

戦場から離れ宙から此の星を見てやろうとその準備とばかりに郷里へ戻り、
実家の商いの手伝いを本格的に始めて二年余り。
漸く「何を」するのか形になって、
合間々々に準備を進め資金繰りの為に自分以上にこれまた酔狂なスポンサーを見つけた帰り道。

街道沿いに点在する宿場町はその規模の大小はあれど、
食べ物屋に旅籠、湯屋に小間物を売る土産物、ここを通り過ぎる旅人の為の茶屋がいくつか。
相場は此の位のものであろう。
見たところ此の宿場町、規模は然程大きくは無い。

五街道のような賑わいは無いものの、此処からあと一日も行けば沿岸部へと繋がる街道へ出る。
流石に昨日の今日で木賃宿という気にもなれぬ。

「あしはかまんぞ、坂本」

坂本の後ろに隠れるように立っていた陸奥が表情も変えず言った。
正確には隠れていたわけではない。この男が大きすぎるのである。

「ゆうてものぉ」

坂本は己が肩より下にある陸奥の顔を覗く。
朱色の縁取りのある濃紺の外套の下は旅装束だが女のものとは違う。
自分と並べば大抵の男は小さく見えるので年若い従者でも連れているように見えるであろう。
事実陸奥は少年のような形であった。
女の形をして徒歩の旅など余り得手な策ではない。
何しろ未だに物騒な世である。

見目は役者見習いの若衆のように見えぬことも無かったし、
声は変声過渡期の少年のようである。
口を開けば不躾ともとれる少々きつい生意気な物言い。
陸奥が口で言わなければ初見で女であることを看破するような人物も居なければ、
一晩屋根を借りるだけの旅の人間にお前は男か女かと問う酔狂な人物はいない。

陸奥は被っていた笠の顎紐を解いて嘆息し、ちらりと宿の入り口を見渡す。
この宿は規模は然程も大きくは無いが飯盛旅籠の類ではなさそうである。
坂本と同じ部屋だが同衾するわけではない。
違う部屋をとったとしても相手がその気になれば施錠など出来ぬのだから同じことである。

それに、物騒な世の中である。

少なくとも隣に腕の立つ男がいるというだけで心強いことも無い。
別の意味での心配はあるが、まァ、それはそのとき。
それに坂本は己を女とは思って居らぬだろう、と陸奥は被っていた笠を手に持ち変えながら顔に掛かった髪を指で払う。
坂本が好むのはもっと年が上の色気が服を着ても滲み出すような女だ。
青い小娘になど興味は無かろう。

今朝早くから歩き通しである。
しかも昨日は屋根は在るとは言えど野宿となんら変わらぬ場所で眠った。
今日こそは足を伸ばせる風呂に入って早く眠りたい。
まだ行程は長い。

坂本は陸奥がそう返事をしてもあぁだの、うんだの唸っており、
何を察したのか番頭がひそりと耳元に何事か言った。
同行の人物には聞かせたくない類のものなのか、
それともざわつく入口での騒々しさを慮ってのことなのかは判別はつかぬ。
ただ坂本はあっはっはと陽気に笑いながらほりゃァまぁえぇ事を聞いたと笑い、
番頭は何かありましたらお声をどうぞという。
碌でもない話に違いなかろうと陸奥はそれを横目で見ながら思った。
最後にまァ仕様が無いかと独り言ちて、一晩の宿と明日の弁当の用意を頼んだ。

客の多い時期ともあり夕餉の準備が出来ぬといった番頭に、素泊でいいと告げ街の湯屋を聞いた。
宿を求める最中、宿場町を横目で眺めたが飯屋はいたるところにあった。
一膳飯屋なら酒も多少はあろうと坂本は意にも介さぬ、陸奥は口を利かぬ。

仲居に二階の客室へ案内され、荷を下ろしちらりと部屋を検分する。
粗末とはいえぬが上等ともいえぬ部屋だ。
少々毛羽立った畳に花の継ぎが或る鳥子紙。
相部屋にするときに使うのか、部屋の隅にある竹格子の衝立は色褪せている。
ただ掃除は行き届いていたから気にはならぬ。

茶の支度をしようとした仲居に、すぐに出るきにとその手を制し、おおきにと言い坂本はにこりと笑った。
老若男女、誰にでも愛嬌を振り撒くのは結構だが無駄撃ちが多すぎると陸奥はいつも思う。
そういった主張を体言するように陸奥はにこりとも笑わぬ。
陰陽、対になったような奇妙な二人が蔓んでいると周りは言うが当の本人たちは一向に気にする様子は無い。
旨い飯屋はどこかあるかの、愛想のいい坂本の言葉に仲居はつられてにこりと笑い、
この辺りの郷土料理を出す飯屋の名を数軒教えた。

彼の愛嬌はこういうときに役に立つ。

それじゃぁごゆっくりとするりと襖を閉める。
漸く、やれやれと陸奥は荷を解きながら、
外に食事へ行くならと湯屋へ行く支度もついでにしておくがよかろうと、
小さな風呂敷に洗面用具と着替えを包んだ。

坂本は開け放たれた窓の桟に腰掛けながらぼんやりと空を眺めている。
何を見ているのかと視線の先を見れば、一番星が小さく輝く。
随分陽の暮れるのが早くなった。
ついさっきまで太陽が在った山の際は、もう紫色に塗られている所為で、星が一つ二つ、姿を現す。

ぼんやりしているのはこの男はいつものことだが、
疲れもあるのかどこと無くいつもにも増してぼうっとしている。
ただ単に腹が減っているだけやも知れぬが。

「どがぁした、腹でも痛いがか」

陸奥は風呂敷の端を縛りながら尋ねたが、返事はいんやぁ、と気のないもの。
普段は人の二倍は喋るような男がどうかしたのか。
燃料切れか、はたまた善からぬ事でも企むのかは知らぬが、
坂本は陸奥が膝に乗せた風呂敷包みを見て支度は済んだかと漸くまともな口を利く。

「飯を、食いに行こうかの」




 *




「これ見や」

仲居に教えられた店の一軒の暖簾を潜り、
あれこれと注文したあと陸奥は今朝の朝刊を手に取った。
差し向かいに座っていた坂本に読めとばかりに一面を差し出した。
「播磨に新ポート整備着工、か」
坂本は注文した酒を手酌で遣りながら細かい紙面の字を拾うのに目を眇めた。
「まァ短距離輸送なら空を飛ばせるよりは船か鉄道じゃの、
安上がりじゃし短距離じゃぁ燃料代が馬鹿んならん」
飛びゆう飛行機からパラシュートで落とすわけにはいかんちや、
辰馬は笑い、陸奥はそれには返事はせず、にやりとした。

「地価が上がるの、思った通りじゃ」
「おんしゃぁほんまにカネカネゆうて」

目の前の野菜の焚き合わせを肴にしながら、
坂本は陸奥が脳内で計算していると思われる勘定繰りを嗜めた。
陸奥はなにをと鼻で笑う。

「夢では腹は膨れんし、艦も買えん。艦が買えねば宙にゃァ行かれんちや」

何か文句でもあるかと陸奥が問えば、ご高説ご尤もと坂本は遣り手の部下を持って幸せじゃとあっはっはと笑った。
一年半ほど前、或る地域の土地をかなりの広さを購入した。
飛び地でいいと坂本は個人の名義で買い漁った。
無論、投資の為である。
そう、宙を飛ぶ艦を買う為。

播磨に新ポートが整備されることは前々から分かっていた。
あのあたりはもともと北前船のルートである。
日本海側からの交易品は陸送も無論だが国内物流は量に圧倒的な利のある海上輸送で齎される。
最北端の松前を初めとした内日本の品々は敦賀で積み替えられ、
関門海峡を通って鞆の浦、玉島、播磨、そして日本の台所大坂へと運ばれる。

攘夷戦争開戦以前、そこで消費されていた物品はまもなく敷かれる鉄道で江戸まで消費市場を拡げる。
鉄道なら江戸まで十時間以内に到着するようになるだろう。
無論内日本津々浦々の主要都市に鉄道を敷くことは天人の技術を以ってすれば可能だが、肝心の幕府には金がない。
人体の動脈のように列島を被う鉄道を作る為には更に時間が掛かる。
民間の海運業者がそれを補うようにして物品と人間の輸送を行っているのが現状。

現時点で江戸-大坂間には既に鉄道が敷かれる計画があり工事は順調に進んでいる。
そして次はどこへ敷かれるのか。無論その線は南下するはずだ。
そのあとは沿岸部沿いに主要な港を線で繋ぐように順次、玉島、鞆の浦、下関。
最終到達地点は北九州と伸びる計画は恐らく水面下で進められているはず。

漸くマスコミに対して発表になった播磨新ポート整備のニュースは陸奥を思わず喜ばせた。
現時点での地価に換算すれば中古船の頭金にはなるであろう。
今からさらに播磨近辺の地価が高騰する。
もう一度資産を確認して試算をせねばなるまい。
脳内に在る算盤をさらりとご破算にしたところに、お待たせしましたと女中が皿を運び卓の上に夕餉が載せられた。
坂本は嬉しそうに頂きますと手を合わせて箸をつけた。

「岡崎さんに礼を言わねばなるまいの」

陸奥も銭勘定はあとにして汁椀の蓋を取りながら言った。
岡崎というのは播磨の青年実業家である。
実業家などと言えば聞こえがいいが数年前まで山師のようなことをしていたらしい。
年は坂本より少々上だが、先だっての幕府払い下げの戦艦を捌いたのが縁で知り合いになったのが半年とすこし前。
宙を飛ぶ艦の話をしたらなぜか意気投合したらしく、
一個人が艦を購入する方法やらそのための資金繰りやらを色々相談に乗ってくれたらしい。
土地を買う際に彼の口利きで購入できた地域もある。
さらに資金を投資する為の法律擦れ擦れのところを内緒だと言って指南してくれたこともある。
坂本も相当な際物だがこの岡崎と言う男も相当である。
大法螺吹きと言われてもおかしくない坂本を妙に可愛がるので、不思議に思って聞けば、オレは根っからの博打打ちだからなと笑った。

「帰りに寄ってみるがか」

此処から播磨までは港を経由すればすぐである。
少し遠回りにはなるが回れぬ距離ではない。
商売事には争いは要らぬ。
代わりに要るのは礼である。恩は受けるものではなく売るもの。
あの岡崎と言う男はあっちこっちへ種を撒いている。
刈り取る時期を待ちながら一番肥った頃に恩恵を受けようと。
そろそろこの恩を返さねば、あとで返すものが莫大になられても困る。兎も角は礼だ。

どうかの、そう呼びかけたが坂本は新聞も読まず、
通りがかった店の女中に、お姐さん、お銚子もう一本と尻でも触りそうな勢いでにこやかに笑いかけた。
年増の女中に窘められながらあっはっはと陽気に笑っている坂本に思わず舌打ち。
おんしゃぁ聞きゆうかと睨みつけた。

「聞いちゅう、岡崎さんろう」

今江戸じゃ、確か、と炊き合わせの牛蒡を口に入れた。
帰ったら礼状を書かねばと言い、頼むのと気安く言った。
坂本は普段からぼんやりとしている。
きいているかと聞かれて、なんだと問い返すことも多いが、けれども肝心なことは聞いている。
しかし普段から能天気であるが今日の様子はちとおかしい。
躁と鬱を数秒置きに繰り返すような。
女中がお待ちどうさんですと酒を運んできた。おおきにおおきにと空のお銚子を渡す。

「それで終いにしときや、二合呑みゃァえいろう。大尽旅行やないき」

苦言は聞いていないふり、無論聞こえてはいるのだろう。
溜息を吐きながら陸奥は少し温くなった椀を啜った。
辰馬はまだ白飯を食ってない。

「今日晩は早う寝やー、昨日、おんしゃぁ余り寝られんかったろう」

昨日は屋根があるとはいえ野宿同然であった。
寒い季節に堅い木の床。
思う存分冷えたし今日は歩き通しである。
肉体的な疲労がこの男の様子を変えているのではと思い尋ねたがあぁうん分かった分かったと言う生返事。

勝手にするがいい馬鹿者め。

陸奥はそれから一言も口を聞かず、さっさと夕餉を掻き込むと金子を卓の上に置き、
あしは風呂に入って寝ると言い残して店を出た。










 *










畳を引掻くような音がした。


眠りは浅いほうだと思う。目を開ければしんと静まり返っており月明かりが眩しかった。

何の音だ。

店を出た後、街にある湯屋へ行った。
どうやら此処は冷泉だが温泉があるらしく、湯屋というより立ち寄りの温泉として営業しているらしい。
内風呂のある宿が多い所為なのか時間がずれていたのか、
兎も角人も少なくゆっくりと風呂に入れたのは幸いだった。
一日ぶりの風呂は寒さと疲れで硬直した身体を解して、うっかり浴槽で眠りかけてしまった程に。
慌てて髪を洗い湯屋を出たのが坂本と別れて一時間は経った頃だっただろうか。

宿に戻り部屋に戻ると誰も居らぬ。
あの馬鹿がと自然に口を吐いて出た。

その辺にしておけと言ったのに。

思わず先ほど別れた男の生返事を思い出し陸奥は舌打ちをしそうになってそれを飲み込む。
この癖を止めねばと思えども、あれと居ると頻発させてしまってなかなか治らぬ。
もう既に宿の者が床を述べていた。
妙に二組の布団の位置が近く、それにも無性に腹が立つ。
布団の位置を出来るだけ離した後、部屋の隅にあった衝立を真ん中に据えたのは少々子供染みていたがだろうか。
しかし、溜飲が下がったのも事実。

櫛で洗い髪を梳かし、明日の出立の準備を整えるために荷物を解くが、然したる準備があるわけではない。
なにやかやとしながら時折時計を見る。
湯屋から戻ってきた頃には騒がしかった他の部屋も、もう既に休む者が多いのか静かだ。
戻るまで待とうかとも思ったが、すぐにその選択は捨て、知ったことかと灯りを消した。
部屋の奥側の布団に潜った。勝手にするがいい。
心配損だと腹を立てながら目を瞑る。
恨みがましい言葉でも口に出そうかと思ったが、そう思う前に眠りに引き込まれた。



畳を引掻くような音がした。




それで目が覚めた。
部屋の中は暗いが、鳥の子紙の向こうには月の光が明るい。




何の音だ。



音は部屋の中からする。
すぐ隣。
衝立の向こう、辰馬の布団がある方だ。



戻ってきたのだろうか。
何時だろうと枕元に置いた時計に手を伸ばそうとしたが、寸でのところで止めた。
まさかと思うが、陸奥は闇に目を慣らしながら天井を見た。
此の手の宿場町の遊興場といえば地回りのやくざが仕切る賭場か私娼窟である。
だが此の町の規模は少々小さく見当たらなかった。
無論幕府から私娼は黙認されてはいるといえど、禁止されているから宿の飯盛女が客の相手をすることがあると聞いている。
そう、まさかだ。
衝立一枚隔てたところで女を引き込んで夜の組み手をしているのではないかといぶかしんだ。
が、それにしては気配がない。微かに漏れ聞こえるのはなにか掻く音。
寝息、いや寝息ではない。苦しそうな、これは声か。

衝立の脚の隙間から見える向こう側をちらりと横目で覗く。
万が一にも先ほどちらと浮かんだ考えの通りだったら狸寝入りでもせねばならぬ。
流石に知っている人間の、それもこの先旅を同行する男のそんな場面に顔を合わせたくはない。
眩しい月明かりの為衝立の向こうは濃い陰が落ちていた。
細長い隙間には辰馬が横たわっている姿しか窺えない。
蒲団から畳に投げ出された辰馬の伸びた手が見える。
初めは自分の目がおかしいのかとも思った。
暗い部屋で月明かりしかないのでそう見えるのかと。

そうではなかった。

その手は異様なほどに緊張していて、小刻みに震えていた。
震えるというよりも、腕の筋肉が硬化して指先にそれが伝わっているというような。

なんだ。

陸奥は半身をよじるようにゆっくりと起こしながら、自分の蒲団の端を剥がした。
畳の上に手をついて衝立の向こうを覗き込む。

居たのは辰馬一人だった。

いつ戻ったかは分からぬが、上着が枕元に投げてある。
風呂には入ったのか、衝立の上に濡れた手拭が引っ掛けてある。
普段ならばこのあほうと吐き捨てて布団に戻るところだ。
だがそうしなかったのは偏に異様だったから。

辰馬は全身がまるで硬直したように震えながら、青白い顔をしているのに汗を吹いている。
秋も深まる寒い日だと言うのに、額に髪の毛が張り付いて、戦慄く口唇からは声とも息ともつかぬ音が漏れ聞こえた。
何が起こっているのか一瞬判別がつかなかった。
衝立を押しやるようにずらしながら枕元へと膝を滑らせる。
先に見えた畳の上に投げ出されている腕に恐る恐る触れた。驚くほど冷たい。
揺すりながら顔を覗き込めば、その汗は暑さの為に流されたものではではなく、これは多分冷や汗。

「辰」

呼びかけたが起きない。呻くばかり。
あ、う、あぁ、そんな声とも呻きともつかぬ何かが口からこぼれる。
背中に、ひやりとしたものが走った。
なにか病を得たか。
しかし同じものを食べて同じ行程を歩いている。
確かに強行軍では在るが自分よりも体力のあるこの男が病を得るとは考えにくい。
それは飲みすぎ、いやあれしきでは酔うまい。

こわばった指先を解すようにしたが収まらぬ。
辰、辰、声を掛けながら手を握り、肩を強く揺すった。だが震えは止まらぬ。

止めてくれ、冗談は。

悪い予感や考えばかりが盆提燈の灯篭のようにぐるぐると巡る。

「辰馬」

耳元で強く名を呼び、祈るような気持ちでもう一度肩を揺する。
そのとき漸く四肢の硬直は収まり大きな呼吸を一つしたのが分かった。
徐々に呼吸が落ち着き、冷たかった掌が微かに動く。
陸奥が思わず安堵のため息を漏らしたとき、辰馬の目がうっすらと開いた。

夢現という様なとろりとした目が此方を見た。
ただそれはどことなく険しく、それでいて安堵したように見えたのは錯覚だろうか。
少しだけ眩しそうに目を眇め、微かに口唇を歪めた。

「なんじゃ、便所についてって欲しいがか」

愛嬌のある口調で笑う。声は掠れていたがいつもの辰馬だ。

「ほれとも夜這いかえ」

こんなときまで軽口を。

「阿呆」

溜息混じりに呟きながら、水差から湯冷しを湯呑みへ注いで手渡してやる。
辰馬は差し出されたそれを片肘をついて身を起こし物も言わず飲み干した。
口元を手の甲で拭い、湯飲みを陸奥に渡す。
もう一杯要るかと尋ねたがいや、えぇと手で制した。

「大丈夫か」

受け取った湯呑を盆に戻しながら陸奥は尋ねた。
いつも出る軽口はどこかへ消え失せ、辰馬は再び枕に頭を預け笑った。

「すまん、起こしてしもうたか」

傍にあった陸奥の手を取り軽く握り返す。
陸奥は手を引っ込めようとしたが、辰馬はその手を取ったまま寝返りを打ちその手を自分の頬に当てた。
何かを、確かめるように。

陸奥はちょうど辰馬の頭の重みを手の甲に受けながら、
手を無碍に引っ込めるわけにも行かず、いいやとだけ言う。
手の甲に当たる辰馬の冷たい頬はなかなか温まらぬ。

いつもなら。

こんなことはお前が追う尻の主にでもしてもらえとでも言うのだが、どうにも今日はそう言う気になれぬ。
少しばかり様子の違っている姿を先に感じていた所為かもしれない。
ただ黙って少しばかり窮屈な姿勢に耐えた。
ざわざわと風が渡っている。遠くの竹林を揺らす音がする。

「どがぁした」

暫く経ったころ、沈黙に耐え兼ね陸奥は静かに尋ねる。

「いや」

そう言う割に辰馬は手を放さぬ。
流石に悪いとでも思ったのか、頬の下からは手を開放はしては呉れたが手は握られたままである。
その手も、まだ冷たい。

「陸奥は、寝んがか」

手を握っている癖にそんな問いかけは無いだろう。
かといって放してくれる様子は無い。
辰馬の堅い掌が陸奥の手を確りと掴んでいる。
此処に居ろとでも言うように。

いや、あるいは。




溺れる者が死に物狂いで掴む、藁のように。



「目が冴えた」



そう言うと辰馬はほうかと小さく言った。
手を握っていない方の手を床に着き、少し身を起こす。
何をするのか、そう問い掛けようとした時、
辰馬のとった行動に思わず真夜中と言うのに、おいと大きな声が出そうになる。

「すまんがちくとこうしとうせ」

辰馬は頼むとだけ言う。憔悴、安堵、懇願、命令。
どれでもなく、そのすべてであるような声で。

「十分、いや五分だけでえぇき」

膝の上に重みが載る。
辰馬の頭の重みが、陸奥の両膝に載せられた。
掠れたような弱弱しい声で、後生じゃ、ともう一度手を握られた。
辰馬は陸奥が逃げないように指を絡めて、引き寄せるようにそれでも優しく掴む。
何が頼むだ、そう思わねども。
どうやったらこんな人間に鞭が打てると言うのか。

五分じゃ、陸奥は己にそう言い聞かせて動かぬようにじっとした。
辰馬も動かぬ。




「悪ぃ夢でも見たがか」




いんや、そう言った辰馬は笑おうとしたようだ。
だが声にはなっていなかった陸奥は反射的に嘘だな、とすぐに分かる。
夢か、或いは。

「じゃァ頭をどけや」

ぴしゃりと言ってやったが、普段の陽気な笑い声が静かな夜に響く。

「いやじゃ、ふともも気持ちがえぇきに」

殴ってやろうか。
五分の約束を沈黙にて守ろうとしながら、陸奥は膝に感じる重みに耐えた。
時間というものはただ黙っていると流れるのが遅い。

辰馬は黙っている。
陸奥も黙っている。
外には木枯らしが吹いている。

里より一足先に秋が来たる山間の宿場街。
この風は美しく色した木々の葉を揺すり落とす風。
耳だけで外の風を聴きながら時間が過ぎるのを待つ。

先ほどの。

あれは戦争神経症というものだろうか。

攘夷戦争は幕府の開国で表面上では収束を迎えた。
しかし、未だに各地ではゲリラ戦のような抵抗運動が続いている。
辰馬が戦から帰ってきたのは一年以上も前のことだ。
彼がその前にいたのは砲撃音鳴り響く戦場。

戦地から戻った者には心を患う者が多いとも聞く。
廃人になったものもあるというが、以前の生活に戻れば段々とそれも薄らぐと言われている。
だが印象的な事象が日常生活によって起こるとそれが引き金になり悪夢を見たり飛び起きたりすることがあるとも聞いている。
昨日、いや正確には一昨日、街道を行く道すがら我々は山賊に遭った。
被害こそ無かったが辰馬は賊に対峙しその一人の指を斬りおとした。
それは正当防衛であったといえるし、何を罰されるようなことではない。
彼は自分の身を守る為ではなく私に襲い掛かる男を退ける為にそうしたのだから。

山賊に襲われた所為で逃げ道を誤り、街道を外れ、私は過ぎ去った恐怖と緊張で脱水症状を起こして辰馬に負ぶわれて山を越えた。
昨日は野営まがいの宿で夜を明かしたのだが、昨晩は起きた様子は無かった。
気が付かなかっただけかも知れぬ。が、おかしな様子はそのときは分からなかった。

気が緩んだのかもしれない。

昨日の夜営紛いの夜明かしは彼が元居た場所では恐らく当たり前だったのではないだろうか。
あばら家での長い夜の間、眠りの狭間で神経を研ぎ澄ませながら小さな物音を拾っていたのかも知れぬ。
そして賊の襲撃で振るった剣は、記憶を揺り起こした。

だが。

温かい食事と風呂、屋根のある宿。
些細な日常が戻った今日と言う日。
非日常から日常へと切り替わった分起点。
昨日まで張り詰めていた辰馬の緊張が解けたのかも知れぬ。

そのとき漸く緩めることの出来た神経を、過去の亡霊のような記憶が無残に揺り返すように蝕んだのではないだろうか。
同室に難色を示したのはその所為か。

辰馬の息が一定になり先ほどとは変わって穏やかに刻みはじめた。
これも演技なのか、それとも。

知られたくなかったのだろうか、私には。
考え続けても、答えは出ない。

癖毛の黒髪を撫でてやる。
犬猫のようにするなと怒られるかもしれないが、子供がうなされたりしたときこうやって触ってやると落ち着く。
図体は大きいが陸奥の膝を逃げぬように抱えて眠る辰馬は男というよりも子供のようで、どういうわけか身の危険を感じない。
指先に湿り気を感じた。
汗をかいている。
衝立の上に掛けられた手拭に手を伸ばし、首を拭いてやった。
冷たかったのか微かに首をすくめたが、何度か背中を撫でたら落ち着いてまた穏やかな呼吸を刻み始めた。







仮に、彼の中で。




何がのたうちまわっているかは知らない。
恐らく言わない。
ふとももが気持ちいいといったのもあながち冗談ではないのだろうが、それは嘘。
うつ伏せるように眠っているその背中をさすってやる。
今夜は眠れても、それでもまた同じ事があれば魘されるのだろう。
多分ずっと着いて回るのだ。

分断されることの無い嘗ての己も、記憶も、時間も。
光が在るところには必ず自分の足もとに出来る影のように。







此の男は、まるで真昼の星のようだ。




昼も夜も、宙には星があるのに、陽の光が明るすぎて昼の間は見えない。
そしてそれを誰もが知っているのに気にも留めぬ。
見えないから誰も気が付かない。
真昼の空に目を凝らしたとき誰かが苦し紛れにあるいは何かを見間違えて見えたと叫ぶような、そんな不確かさ。
陽気な笑い声と楽天主義者の顔で皆を煙に巻きながら夜には孤りで悪夢に苛まれる。

それがどんな苦しみなのかは知らぬ。
知っているのは此の男とともに戦場にいた者だけだろう。
それが今どこに、どれほどの者がいるのかは知らぬ。
或いはもう誰一人として居ないのやもしれぬ。
自分には共感することもその深淵を覗き込むことすら許されぬ。


どれくらい経っただろう。
辰馬がすぅと眠りに落ちたのが分かった。
撫でるのを止め、その背に掌を置いた。
体温が戻っている。
よかった。
しかし、ひょっとしたら自分自身のぬくもりかもしれないが、それでも構わぬ。

辰馬の横顔は己の影の中にあってよくは見えぬ。
どんな顔をして眠るのかは見えなかった。
静かな息の音がしているから、見なくともよい。




私は見たくは無い。真昼の星など。




夜になれば見えるものを、目を凝らして暴くように昼間の空に探し出さずとも。
夜になれば星は見える。時が来れば目に見える。
昼間の星など見なくとも、夜にはそこにあるのだと知っているから。

だから私は見ない。
探さない。
目を凝らしもしなければ、あると嘯くこともしない。

鳥の子紙の向こうに見える月明かりが今日は酷く眩しい。
今日は月が明るくて星は見えぬだろう。


けれども私は知っている。



暗い空に、真昼の空に、星は変わらず瞬く。
名も無き小さな無数の屑星も、眩しい昴も、確かにそこにあるのだと。



見えなくとも。
目には、映らねども。

end


WRITE / 2008 .11.15
「安達ヶ原」を書いたから、私の此の坂陸奥妄想は始まったといっても過言ではないです
これは2008年の五月に合同誌として参加させていただきましたご本に載せて頂いたものです
もう既に完売しているとのことなので再録してもよかろうと一個人の判断でUP致しました
お買い上げくだすったお客様どうもありがとうございました

しかしオフだけ読んだ人には何のことかさっぱりわからなかっただろうなと反省しました
もっとエンターテイメント性を視野に入れなくては
ちなみに安達ガ原は三部作なのでもう一話いずれ書きます
まだ時期じゃないので練れてないのです…。

辰馬誕にこれをあげるかと言う感じなのですが、
でも、このサイトの誕生日には相応しいと思っております

すべての妄想はここから始まりました。




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