36
「欲情するということ」
坂本と陸奥





男は、非常に無防備であった。
と言うよりも、生物における警戒心と言うものをどこかに置いてきた様だった。
うっすらと鼾をかきながら、大の字で寝ている。
しかも床の上で。

右手が何故か茶箪笥の引き出しの取っ手に掛けられていた。
非常に不可解で、不自然な体勢である。
いつも着ている黒い外套の片袖だけ抜いている。

奇怪な、陸奥はそうぼやきながら、
部屋に一歩足を踏み入れた瞬間にそんな格好で寝ている理由が分かった。
卓の上に湯呑が一つ。急須は見当たらぬ。代わりに一升瓶が転がっていた。中身は無い。
部屋に入った瞬間酒香が鼻を打った。
深酒はよせと言うちょるに、溜息混じりに転がる一升瓶を起こして棚に収めた。

生まれた土地柄か、と言えど辰馬は酒には強いが普段は余り飲まぬ。
なのにこんな風に正体を無くすほどに酔うとは、
ひょっとしたらなにかあったのかもしれないが、それを話すような男ではない。

仕様の無い、陸奥は明かりを点けぬまま寝転がる男の枕元に立つ。

「頭、おい、かしら、起きんか」

立ったまま呼びかけたが反応は無い。
流石に頭目を足の爪先で小突く訳にも行かぬからゆっくりしゃがむ。

「坂本、しゃんとせい」

唸るような声と返事をしようとする意識は辛うじて在るようだ。
ただし不明瞭で意思の疎通も儘ならぬ。
いよいよこの男は仕様が無い。
地に伏せるように床に手をつき、耳元で息を吸い込んだ。

「辰!」

半ば叫ぶように呼んだ。

「っなんじゃぁ」

飛び起きた。してやったり、である。
芝居かと思うほど大げさに飛びのいて周りを見渡した。
どんな夢を見ておったのやら。

「布団で寝や」

ぴしゃりと言ってやれば掌で顔を撫で、ひとつ唸ってハイハイと軽口を叩いた。
首を傾げながら飲みすぎじゃと項垂れ、
不承不承ながら這うように寝台に向かったが、立ち上がれないまま突っ伏した。

手間のかかると寝台へ引っ張り上げて、片袖しか通してない上着を脱がせる。
下駄は自然と落ちた。
布団は暑いから蹴るかも知れぬと掛けずにおいて、サングラスを外してやる。
外したそれを卓の上に置き、さっき置き去りにされていた湯呑を一つ洗う。
手拭で濡れた手を拭い、じゃぁのと部屋を出ようとした。

「陸奥ゥ」

酒に焼けた喉が声を絞り出す。

「これ、取っとうせ」

首に巻いている襟巻きを引っ張るがどんどん首が絞まっているらしい。
死なれても葬式を出すのが面倒である。
仕方がないと、締まりかけた縄を解くようにそれを首から抜いた。
ついでにてんでばらばらの方向へ落ちている下駄を揃える。
親切心ではなく性分としてそう言うものが気になるだけだ。

「あと、襟もォ」

襟巻きを外していると坂本の手が触れた。
酒を飲んでいるのに冷たいとはどういうことだ。

「気分は、吐くか」

吐かれたらやれんなと思いながら尋ねればいんやぁと暢気に言う。
一応と思い、冷蔵庫からミネラルウォーターの壜を枕元に差し出したら一口飲んだ。
襟を緩めてやると、指先が肌を掠めた。

ひやいのォと寝呆けたような声が笑う。
セクハラだ、ぐっと力を篭めて緩めると鎖骨の上に黒子が見えた。
真ん中で不可思議に途切れていた。
おやと目を凝らす。
肌の上に一直線、五寸ほどの色の違う筋が見えた。


「悪いんじゃが、こっちも」


嫁入り前の娘にすまんのうと冗談めかしたが黙ったまま手を動かす。
映画か何かで見た海賊の扮装がいたく気に入って、袴紐の上から洋装のサッシュ宜しく腰に巻いている。
古着の絹の兵児帯だか何かだから余計に締まるのか、挟んだ端をするりと抜いてやれば更に肌蹴た。
手は冷たいくせに暑いのか、子供が厭々をするように後は勝手にするとばかり衣を弛めた。

子供かと思いながら納まるまで待つ。
布団を掛けておいてやらねば風邪を引くだろう。
風邪を引くのは自由だが、この男が風邪を得て割を喰うのは言わずもがな己である。

結局面倒を見るのは自分ならば此処で少々の時間を取っても、風邪を引かせぬようにするのが一番の策である。
坂本は唸りながら眠るのに支障が無いように身体をよじらせている。
もうえぇかと促すが、もォちくとォと甘えたことを言った。

身体の下に巻き込んだ上着が難しいらしく、不精をして寝たまま直そうとするので上手く行かぬらしい。
見かねてそれを引っ張り抜いてやる。さっきの傷がまた見えた。

創痕は肩の上から胸の中ほどまで通っている。
それとは別に一寸半ばかりの突かれた痕、背まで貫通したと思しき、皮膚が抉れた痕がうっすらと見えた。
薄闇の中でそれら二つははっきりと見えた。恐らく明るいところで見ればもっと他の傷も見えるのだろう。

傷は綺麗に塞がっている。
肌の色は少し変わってはいるが、もう血は噴出してはいない。
一つ一つがこの男の歴。

ひやい、坂本が声を上げた。
脇腹の一寸ばかり、真っ白になっている傷跡に触れた。
私の。
指先は確かに冷たいだろう、皮膚は温かく弾力があった。

「陸奥」

上着の中に消えた創の端を見てみたかった。
中指だけでその痕を探す。
引き攣れたような感触が伝わった。

「陸奥」

この傷を付けた者は、今は生きているのだろうか。
私はこの傷の無い辰馬を知らぬ。

「黙っちょれ」

不思議そうに辰馬は私を見上げた。
私は目を伏せ、額づくように今しがた触れた傷に跪く。
引き攣れた痕、痛かっただろう。
私はその痛みを知らない。


「どがぁした」


傷に触れる。
犬がするようにその傷に舌を出す。
温度差を感じなかった、命の温度だ。

辰馬の手が耳に触れ、首を触った。

「どがぁした、陸奥」

舌の上に残る引き攣れた皮膚の感じ。
吹き出した血の味はもうしない。
大きな傷だ、命に関わりはしなかったのだろうか。
薄くなった皮膚は他の場所とは明らかに違う。

「おんしのことを、考えちゅう」

辰馬は静かに笑った。
ほうか、珍しいのぉと言って頭を撫でた。

「いかんか」
「いや」


酒の所為なのか、辰馬の声は掠れている。
冷たかった手は温度が戻った。
生きているものの温度だ。


低俗にして卑屈、この男に撫でられる資格が無い。
この傷の理由を欲す。
私の知らぬ吾が来歴を教えたもふ。

立ち上がりながら、辰馬の手をゆっくりと引き剥がす。
大きな厚い掌が名残惜しかった。
くちづけたい欲情を押さえた。

掌に首に胸に、口唇に。

辰馬の手を蒲団にゆっくりと戻す。
おやすみと蒲団を掛けてやる。

「此処で寝るか」

酷く落ち着いた声で尋ねた。

「いんや」

傷にひかれたのか、あるいは彼の苦痛を夢想したのか、それとも皮膚の下にある肉体に、或いはすべて。
見下ろした辰馬の口は僅かにあけられていて、乾いた口唇を舐めた舌がちろりと見えた。
本人の意識ではないだろう。

「今日はえぇ」


酔いどれの腕になど抱かれたくない。
酒くさい息も嗅ぎたくない。
鈍ったソイツが勃つかと尋ねれば、無理やりにでもと笑った。
出来もせんことを言うでない。

一瞬だけ手を握りすぐに離す。

お休みを言う。
お休みと言う。

甘やかしてなどやるものか。

じわりと熾きた身体の熱が行き場をなくす。
素っ裸になって飛び込んで身体中舐り回してやろうかと思ったがやめた。
煮えたぎる感情を呼吸で落ち着かせる。
指先に残った指の感触。

次会う時までに、忘れなければ。
あの傷も、あの味も。

金物の味を知る身体に舌を這わせて、その時初めてまみえる悦楽に溺れたい。
だから忘れなければ。

優しく惜しむように指を放した硬い指先を、
口唇の柔らかさを、
衣に包まれた胸の体温を、
僅かに香る汗の匂いも、
私がしるべきではない傷の深さも。

忘れよう。
そしてこのつぎに、刻み付けてもらおう。


苦しみながら、悦びながら、ふるえながら、咽ぶほどに、狂おしく。
欲情という名で、深くふかく。

end


WRITE /
エロが書きたいんだろうな。鎖骨の上に黒子がある男はセクシーだと思います。
大泉さんがそうです。つまりたったそれだけです。

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